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利用者:Poo tee weet?/4

神々の名前がエトルリア語で刻まれた羊の内臓を模した青銅製の「ピアチェンツァの肝臓」。臓卜を学ぶ人間の教材に使われたとされている[1]

ローマ人およびエトルリア人の信仰においては臓卜師(haruspex[注 1])と呼ばれる修行を積んだ人間が、臓卜術と呼ばれる占いを行い神意をはかっていた。臓卜は動物を生け贄にしてその内臓を観察することで行われ、とりわけ羊と家禽の肝臓が判断材料として重視された。この儀式が単独で行われることはなく、臓卜師はたいてい落雷や飛ぶ鳥(アウグル)などの自然現象から吉兆を判断する雷卜師や鳥卜師を兼ねていた[2]。この臓卜を行うものはローマ支配時を通じて次第に古い言い方であるharuspexからpauspexと呼ばれるようになった。

腸卜(extispicy)一般の特殊な形態としての臓卜の起源はエトルリア人やローマ人ではなく、中東にもとめられると考えられている。この地ではヒッタイト人やバビロニア人によって内臓を使った儀式が行われていたという報告があり、彼らはやはり羊の肝臓を用いて同じように様式化されたやり方を生み出していたのである。

エトルリアにおいて肝臓はいくつかの部位にわけられ、それぞれが特定の神格を表すものとされた。そして僧侶(bārûと呼ばれた)は特殊な訓練を受けて、肝臓の「しるし」に解釈を施すのである。臓卜は、腸卜と呼ばれた占いを行うためのより広範な内臓の研究の一部であり、これはとりわけ内臓の位置と形状とに特別な注意を払う学問だった。天気予報のために何種類もの家畜や野生動物の肝臓、脾臓を使った様々な人の記録が無数に記録されている。また北方の国々では古代に丸石を配して設けられた迷路が幾つも見つかるが、これは生け贄となった動物の腸、とくに反芻動物の大腸を模したものと考えられている。

バビロニア

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バビロニア人は肝検査を行っていたことで知られている。肝臓は血の源であり、すなわち生命そのものの根本であると考えられていた。ニネヴェの図書館にある文章には肝臓に関わる言葉をいくつも記録しており、楔形文字が解読される以前から、バビロニア人の肝臓検査の存在をほのめかすものはすでに聖書に書き込まれていた。紀元前2050年から紀元前1750年のバビロニア人による粘土でできた羊の肝臓の模型で、大英博物館に収められているものがあるが、こうした模型によって占われる予言はメソポタミアの医術にとり重要なものだった。星々や生け贄となった動物の内臓にしるしを読み取る僧侶や先見者がこれを調べ、患者の病気について何事かを伝えるのである。粘土板の穴には木の釘が組み合わされ、生け贄の肝臓から見いだされた性状が記録された。僧侶や先見者はそれをもとに患者の病気の行く末を予言した。

エトルリア

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エルトリア人もまた独自の教典を持ち、羊の内臓による占いを習慣としていたことで知られている。とりわけ肝臓は神々の棲まう宇宙の縮図であって、そこに神の意志を読み取ることができるとされ重んじられた[3]。名誉ある役職とされており出自が問われるわけでもなかったが、単に教典を理解するだけでなく、軍事を中心に幅広い知識が求められたため、実際には貴族などによって独占されていたと考えられる[4]

肝臓をブロンズの彫刻にしたいわゆる「ピアツェンツァの肝臓」が1877年に発見された。これは紀元前100年前後のものとされ、北イタリアのピアツェンツァ近郊で見つかったものである。欠落部分もなく、複数の神々にわりあてられ各々の土地の名が刻まれていて、臓卜のあらわしと結びつけられている。1900年には解剖学の教授であるルドウィッグ・シュティーダが一千年前のメソポタミアの遺物とこれとの比較を試みている。

エトルリア人の臓卜はおそらくヒッタイトが仲介したものであるが、それは多分に彼らが小アジアに起源をもつからである。タルコンによって拓かれた土地で発見された、エトルリア神話における子供のような姿をした神であるタゲスに関する文章を集めた「タゲスの書(Libri Tagetici )」には臓卜の技術が説かれている。

ローマ

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3月15日(the Ides of March)には油断するなとカエサルに警告したスプリンナもこの臓卜師である[5][6]が、臓卜はローマ帝国の歴史を通じて行われ、途絶えることがなかった。それどころか特にその拡大の時期において臓卜師を大量に登用して組織し(「60人臓卜団」)、戦争をはじめ国家の命運を占わせた[7]。クラウディウス帝もエトルリア語を学び、その技術を後に伝え向上させるための学校まで開いており、テオドシウス1世の時代まで続いていた。しかしキリスト教が国教となるとこの「ローマ異教の最後の砦」[8]も禁じられ、民間の内臓占いを例外として臓卜師は姿を消した[9]

臓卜の記録はイングランドのバースにも見つかる。この土地の彫像の土台に臓卜の神(Memor)の名誉を讃える碑文が刻まれたものがあるのである。

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関連項目

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脚注

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  1. ^ 複数形はharuspices
出典
  1. ^ 平田 2010, p.14
  2. ^ 平田 2010, p.11, p.16
  3. ^ 平田 2010, p.8
  4. ^ 平田 2010, p.13
  5. ^ http://penelope.uchicago.edu/Thayer/L/Roman/Texts/Suetonius/12Caesars/Julius*.html
  6. ^ http://penelope.uchicago.edu/Thayer/E/Roman/Texts/Suetonius/12Caesars/Julius*.html
  7. ^ 平田 2010, p.14
  8. ^ 平田 2010, p.6
  9. ^ 平田 2010, p.37
参考文献
  • Walter Burkert, 1992. The Orientalizing Revolution: Near Eastern Influence on Greek Culture in the Early Archaic Age (Thames and Hudson), pp 46–51.
  • Derek Collins, "Mapping the Entrails: The Practice of Greek Hepatoscopy" American Journal of Philology 129 [2008]: 319-345
  • Marie-Laurence Haack, Les haruspices dans le monde romain (Bordeaux : Ausonius, 2003).
  • 平田隆一「ローマ帝国における臓卜師(haruspices)の盛衰の諸原因 (特集 帝国の類型)」『歴史と文化』第46巻、東北学院大学学術研究会、2010年、5-37頁、NAID 40017058044 

外部リンク

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