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パレルモ・ストーンは古代エジプト古王国時代の年代記として知られる石柱の巨大な断片で、第1王朝から第5王朝までのエジプトの王たちを記録している。
この断片はサリナス州立考古学博物館におさめられており、名前も博物館の所在地であるイタリアのパレルモから来ている。「パレルモ・ストーン」が王の年代記全体を指すもととして使われることがあるがそれは間違いで、カイロやロンドンの博物館にも同じ年代記の異なる断片が展示されている。
黒い玄武岩でできた柱には紀元前25世紀の第5王朝の終わりまでが歴史として刻まれ、上下エジプトが統一された後のファラオの名が並べられている。まずエジプトの支配者たち―多くの人間が架空の存在とみなしているが―の数千年間を追い、ホルス神の出現まで遡る。碑文によればこのホルスが最初の人間の支配者であるメネスに王権を授けたのだ。そしてまた碑文はメネスをエジプト統一の祖と評している[1](メネスに代わりナルメルの名も挙がるが、これは次の王であるだろう)。
表は第5王朝初期のファラオ、ネフェリルカラーまで王の名前が続く[2]。本来の柱にはその治世の後の出来事も記されていたはずだが、その部分は失われている。重要なのは石にBetrestやMeresankh Iといったファラオの母のことも記録されている点である。
もと高さ2.1メートル、幅60センチメートルの柱だった石の両側には、知られるうちで最も古いエジプト語の文章が彫られている。破砕した無数の断片の1つであり、他の多くは散逸してしまった。どこに建てられていた柱かは定かでないが、一部はメンフィスの考古遺跡で見つかっている。
断片であるパレルモ・ストーンは1866年に初めてパレルモ考古学博物館の収蔵品に加えられた[3]。カイロのエジプト博物館とロンドンのピートリー博物館にもこの柱の別の箇所がおさめられている。石に刻まれた第1王朝と第2王朝に関する情報のほとんどは現存していない。
古代の歴史家マネトが紀元前3世紀に書いたエジプト王朝の年代記は、この破砕し散逸する前の柱をもとにしたものである。
パレルモに1866年から置かれることになったのは柱の断片のなかでも最大のものだが、しかしその重要性がすぐには認識されず、1895年にあるフランス人考古学者のパレルモ訪問をきっかけにやっと評価が定まった。碑文の内容も1902年にインリヒ・シェーファーによって出版されて、その後シチリアのパレルモ考古学博物館に収蔵されることになる。1910年には大きさの異なる断片が発見され、カイロのエジプト博物館にはいった。さらに別のものが1963年に古代遺物のマーケットで売買され、フリンダーズ・ピートリー の寄贈でユニヴァーシティ・カレッジ・ロンドン付属の博物館におさめられた。
長さ2.2メートル、幅0.61メートル、厚さ6.5センチメートルというのがもともとの碑文のはいった柱の大きさだが、ほとんどが今では失われている。起源についてはまったく情報が残っていないが、メンフィスでこの柱の別の断片が発掘されている[4] 。
柱にはヒエログリフによる表、あるいはあらまし の形でメネス前後の古代エジプトのファラオが記され、それぞれに即位紀元と主要な出来事が添えられている( up until the time it was created, likely sometime during, or up until, the fifth dynasty since that is when its chronology ends. )。他にもナイルの氾濫や洪水があったときのファラオであればその水位(ナイロメーターを参照)や、セト祭のような祝祭、徴税、彫刻や建築のことが書かれ、戦争があったと書かれているファラオもいる[5]。
後世の一覧、すなわちトゥーリン・キャノン(紀元前13世紀)とカルナックの王名表は紀元前31世紀あるいは30世紀のメネスを第1王朝最初のファラオとして名指し、エジプト統一の名誉を讃えている。しかしそれらより相当程度古いパレルモストーンはメネス以前の支配者も記している。これはエジプトの統一がメネスの治世より前の出来事であることを示唆しており、柱が断片となって以降に単なる再統一を図っただけだという可能性がある。しかし研究者はこの仮説に対して一致をみておらず、歴史上それ以前のファラオが存在したという人間と、そうしたファラオを王名表に連ねるのは観念的な意味しかないという人間がいる(つまり秩序だてられる前が秩序立てられていないというのは当然だというわけだ)。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ Shaw, Ian and Nicholson, Paul. The Dictionary of Ancient Egypt. p.218. Harry N. Abrams, Inc. 1995. ISBN 0-8109-9096-2
- ^ O'Neill, John P. Egyptian Art in the Age of the Pyramids. p.349. Yale University Press. The Metropolitan Museum of Art. 1999. ISBN 0-87099-907-9
- ^ Shaw, Ian and Nicholson, Paul. The Dictionary of Ancient Egypt. p.218. Harry N. Abrams, Inc. 1995. ISBN 0-8109-9096-2
- ^ Brass, Mikey. The Antiquity of Man: Palermo Stone.
- ^ Ian Shaw, The Oxford History of Ancient Egypt, Oxford University Press 2003, ISBN 0-19-280458-8, p.5
参考文献
[編集]- Partial and dated English translation of the text in J.H. Breasted, Ancient Records of Egypt, vol. I sections 76-167.
- St. John, Michael. 2003. The Palermo Stone : An Arithmetical View. London: University Museum London.
- Wilkinson, Tony A. H. 2000. Royal Annals of Ancient Egypt. New York: Columbia University Press). ISBN 0-7103-0667-9
外部リンク
[編集]- Extract of a lecture given by T.A.H. Wilkinson, University College London 2000
- Picture of the so-called annals fragment of the stele to which the Palermo stone belonged, with translations of the hieroglyphs.
- Reconstruction of the Palermo stone and its assorted fragments by J.D. Degreef
<br> {{Ancient Egypt topics}} [[Category:Ancient Egyptian King lists]] [[Category:Ancient Egyptian stelas]] [[Category:Fifth Dynasty of Egypt]] [[Category:25th-century BC steles]] [[Category:3rd-millennium BC steles]] [[Category:25th-century BC works]] [[Category:Archaeological corpora documents]] [[Category:History of Palermo]] [[ar:حجر باليرمو]] [[be:Палермскі камень]] [[bg:Палермски камък]] [[ca:Pedra de Palerm]] [[cs:Palermská deska]] [[da:Palermo-stenen]] [[de:Palermostein]] [[es:Piedra de Palermo]] [[eu:Palermoko harria]] [[fa:سنگ پالرمو]] [[fr:Pierre de Palerme]] [[ko:팔레르모 석]] [[hr:Kamen iz Palerma]] [[id:Batu Palermo]] [[it:Pietra di Palermo]] [[hu:Palermói kő]] [[nl:Steen van Palermo]] [[oc:Pèira de Palèrme]] [[pl:Kamień z Palermo]] [[pt:Pedra de Palermo]] [[ru:Палермский камень]] [[sk:Palermská doska]] [[sr:Камен из Палерма]] [[fi:Palermon kivi]] [[sv:Palermostenen]] [[uk:Палермський камінь]] [[zh:巴勒莫石碑]]
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▼▼▼ネクタネボ2世
[編集]ネクタネボ2世 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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Nakhthorheb
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古代エジプト ファラオ | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
統治期間 | 紀元前360–342p年[b],第30王朝 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
前王 | ジェドホル | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
次王 | アルタクセルクセス3世 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
ファラオ名 (五重称号)
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父 | チェプヘイム |
ネクタネボ2世 (マネトの写本によればエジプト語ではNakhthorheb[1][a](Nḫht-Ḥr-Ḥbytは 「強きものは、わが主ホルス」の意[2][3]), 在位:紀元前360—342年[b]) はエジプト第30王朝の3人目の、そして最後のファラオである。そして古代エジプトを支配した最後のエジプト人でもある[4]。ネクタネボ2世のもとエジプトはよく栄え、エジプト人の芸術家たちはプトレマイオス朝時代の浮き彫りにひとつの到達点をもたらす独特の様式をものにしていた[5]。非直系の先王であるネクタネボ1世のように、ネクタネボ2世はエジプトのほぼすべてといっていいほどあらゆる信仰に熱心であり、100を超える遺跡からその傾倒ぶりをうかがわせる証拠がみつかる[6]。一方でこのファラオは先代以上に神殿の建設と修復をおこなってきた。その筆頭が巨大なイシスの神殿である(イーセーウム)。
ネクタネボ2世は何年にもわたってアケメネス朝ペルシアの脅威からエジプトをよく守っていたが[7]、かつての従者ロードスのメントールに裏切られ、ついにペルシアとギリシアの連合軍にペルシウムで打ち負かされた。紀元前342年にはペルシア人がメンフィスを占領してエジプトを併呑し、アケメネス朝の歴史に組み込んだのだった。第30王朝最後のファラオは南へと逃れそこでしばらくは権勢を維持している。その後はようとして知れない。
肖像
[編集]メトロポリタン美術館にある小さなグレーワッケの像がホルスのイメージになぞらえられて立つネクタネボ2世の姿をとどめているほかは、このファラオの肖像を伝えるものは知られていない[8]。
このグレーワッケのネクタネボ2世は、ネメス(頭巾)とウラエウスを身につけており、曲がった杖と祠(ナオス)を手にしている。ヒエログリフでは「ネフト」(ホルスの象徴であるハヤブサ)と「ネブ」(籠)にあたり[9]、一つ一つの意味をひろっていくと誕生名の「強きものは、わが主ホルス」と読めるように見立てられている 。ほかにネクタネボ2世の面影をしのばせるものとして(どれも「ケプレシュ」(青冠)が前面に出ているが)、ペンシルベニア大学博物館の珪岩の頭部、アレクサンドリアの玄武岩のもの、ボストン美術館の花崗岩のもの、破損した珪岩のものがある[8]。
権力の座へ
[編集]紀元前525年のエジプトはアケメネス朝の従属国だった。王位継承をめぐって帝国で内紛が起こったためにエジプトは紀元前404年に独立を果たす。しかしペルシアはエジプト領有をあきらめなかった[10]。紀元前389年には当時のファラオ、ハコルがアテナイと戦線を共同して紀元前385年から383年にかけてエジプトの再征服を試みたペルシア人に抵抗をみせている。しかし紀元前387年にペルシアとギリシアの都市国家のあいだで「アンタルキダスの和約」が結ばれると、地中海でペルシアの覇権を阻む勢力はエジプトとキプロスだけになる。紀元前360年のはじめネクタネボ2世の先代ジェドホルが侵略者と戦う準備をととのえ、同じ年にはエジプト軍が海岸をつたい水陸から進軍をおこなっている。ネクタネボ2世は叔父であるジェドホルに付き従って遠征にくわわり、マキモイを率いた[11]。急場の財源を捻出しようとしたジェドホルは、エジプト人に税を課して神殿の財産を押さえた[12]。エジプト人、とくに聖職者はこの手法に反発してネクタネボ2世についた。そのためジェドホルはスパルタ王アゲシラオス2世とアテナイの将軍カブリアスにかわらぬ支援をもとめている[13]。しかしアゲシラオス2世はエジプトに援軍を送るのは内争にかかわるためではないとい[13]い、またカブリアスのほうも傭兵をまとめて帰国してしまった[13]。そこでジェドホルはエジプトを逃れるペルシア王家をたよりにすることを決め、この地でついには病でなくなった。
さらにネクタネボ2世は王位をねらいジェデトでファラオを名乗った男と争わなければならなかった。反乱は主導していたのはかつてこの街を支配していた[14]。僭称者はアゲシラオス2世に使者を送ってこれを味方につけようとした[13] 。しかしスパルタ王は節を曲げてネクタネボ2世を裏切ることをよしとせず、ファラオの側にたったままだった。ナイル川のデルタ地帯にある街のひとつでネクタネボ2世とアゲシラオス2世の軍は多くの同調者をえた反乱軍に取り囲まれることになったが、数で劣っていたファラオたちは紀元前360年に叛徒を打ち破っている[6]。スパルタ王への礼として、ネクタネボ2世は220タラントの金を贈った。
政治
[編集]ネクタネボ2世の治世には宗教が重要な役割を担っていた。実際その政治はメンフィスでアピス神の雄牛を国をあげてまつることから始められており、ネクタネボ2世は東西のアピスの神殿に浮き彫りを施している[15]。エレファンティナのクヌム神殿、シワ・オアシスのアムン神殿などの聖所がこのファラオのもと建立された。さらに閃緑岩のナオス(神像安置所)をアンフルにささげている[6] 、さらにはファラオの名でいわゆるミステリアス・マウンテンから採石することを禁ずる勅令が出されている[16] 。
外政は穏やかなものではなかった。エジプトを再び征服しようとしていたペルシアがたびたび出兵しており、ネクタネボ2世が即位する以前にも、紀元前385年、383年、373年と侵略が繰り返された。ファラオは平和な時間を新たに軍備を整えることにあて、当時はよく行われていたようにギリシア人の傭兵を雇いいれた。紀元前351年にやはりペルシア人がエジプトに攻め込み、一年あまりの戦いの後、ネクタネボ2世とアテナイの将軍ディオファントス、スパルタの将軍ラミウスの連合軍はようやくこれを撃退する。この大勝はペルシア人をも驚かせ、ネクタネボ2世は「神聖なるハヤブサ」と異名をとり、その名でって崇拝も始められた[17]。紀元前345-344年にはペルシア人に反乱をおこしたフェニキア人を率いるシドンの王テネスを支援して[18]、ギリシア人の傭兵4,000をロードスのメントールに与え、向かわせている[19]。しかし、アルタクセルクセス3世の軍隊が接近しているという報告をうけたメントールは、テネスと共謀してペルシアと話を通じてしまった[19]。
紀元前344年、アルタクセルクセス3世の使者がギリシアに到着し、エジプトへの遠征に参加することをもとめた[20]。アテナイとスパルタは使者を丁重に扱ったが、反エジプトの同盟を組むことは固辞している[20]。しかし他の都市はペルシアにつき、テーバイがホプリタイを1,000、アルゴスが3,000の兵を出した[20] 。紀元前343年の冬、アルタクセルクセスはエジプトに出征する。ネクタネボが率いるエジプト軍は、60,000のエジプト人と20,000のリビア人、多数のギリシア人の傭兵からなっていた[21]。さらにエジプトはナイルの河口から侵入する敵を防ぐ平底舟を豊富に有していた[22]。地中海沿いの国境と東部は守りにくいながらも、城や砦、塹壕で固められた[22]。一方でペルシア軍もメントールとその部下、6,000のイオニア人がくわわり強力になっており、エジプトの東の国境も熟知していた[19]。
ネクタネボ2世はついに打ち負かされ、紀元前342年にはアルタクセルクセスがメンフィスを押さえ、太守を置いた[23][24]。ネクタネボは上エジプトへ逃れ、その後は庇護を受けられるヌビアに落ち着いた。しかしこの地でしばらくの間は有力な存在であった。ペルシアに反旗をひるがえしたカバシとともに、再び玉座につこうとしたが、結局それはかなわなかった[25]。
ネクタネボとアレクサンドロス・ロマンス
[編集]ネクタネボ2世の外伝ともいうべき書に、「アレクサンドロス・ロマンス」という伝奇があり、このエジプト人最後のファラオの行く末がそこでは詳細に語られている。ゼウス・アモンの託宣によりアレクサンダー大王の神性が確かなものとなった直後に、ネクタネボ2世はヌビアへ向かったのではなく、まじない師に姿をかえてフィリッポス2世のもとを訪ねたという噂が流れた。そしてフィリッポスが遠征しているあいだ、その妻オリンピアスにアムンがやってくる、自分とは父と子なのだと信じ込ませた。それからネクタネボはアムンに変装し、オリンピアスと夜を共にし、アレクサンダー大王が生まれたのだという[26]。この伝承は強くエジプト人に訴えるものがあった。彼らは一体性を求め、異国人の支配をことのほか嫌っていたのである。
プトレマイオス朝の初期にはもうネクタネボについての記録はわずかにメンフィスのセラペイオン(神殿)にギリシア人の断章があるのみだ。それによればファラオはイシスの夢をみるが、そのなかでオヌリス神がセベニトスの神殿が未完成だと怒りをあらわにしていたという。ネクタネボは国で一番の彫刻家だというペテシスを呼び寄せ工事の続きを命じるが、酒を飲み美女を追いかけ回したペテシスは仕事をしくじってしまう。語り手はここで唐突に話を終えるが、それはおそらくこの逸話がペルシア人の前に膝を屈したエジプトの歴史の序文であるからだろう[27]。
脚注
[編集]注釈
[編集]a ^: Nektanebos や Nakhtnebefも[28]
b ^: J. von Beckerath & A. Dodsonによる。360–343 BC は N. Grimalに、 359/58–342/41 BC は D. Arnoldにみられる[29]
出典
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- ^ クレイトン 1999, p. 260.
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- ^ Grimal, p. 374
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- ^ “XXXth Dynasty”. Narmer.pl. March 2, 2011閲覧。
参考文献
[編集]- ピーター・クレイトン著、吉村作治監修、藤沢邦子訳『古代エジプト ファラオ歴代誌』創元社、1999年。ISBN 4422215124。