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警察の捜査
[編集]捜査方針の変遷
[編集]上記のように、この事件の捜査に関しては、下山の死因が自殺か他殺かの判断が変遷していった。まずは、7月6日のその「他殺説」は東京大学法医学教室の「死後轢断説」の鑑定によって、下山は先に殺害され、その後に機関車に轢断されたことが示唆されると、日本政府を始め、世論は一斉に「他殺説」になびいていったが、この時点において警視庁は、「死因はまだ判明しない」「他殺の疑いはあるが断定できない」と拙速な判断はせず慎重であった[1]。しかし、7月7日に警視庁で初の合同捜査会議が開催されたが、その会議では意見を述べた捜査一課の全21刑事のうち、他殺もしくは他殺の可能性が高いと考えていた刑事が11人、自殺が4人、残りが不明もしくは5分5分であり、世論の流れと同様に他殺と考えていた刑事が多かった[2]。
初の合同捜査会議の決定により、捜査一課は所轄の警察署の捜査員の支援を受けて、第一現場(三越周辺)と第二現場(死体発見現場周辺)の聞き込みを開始した。三越周辺で聞き込みしていた刑事は下山らしき人物が2~3人の男に追われていたという証言を掴むと、この男たちが誘拐者ではないかと色めき立ったが、その目撃談のすぐ後に、下山と思しき人物が、三越の外でライターのガスの補充をしたという証言もあって、その不可思議な行動に頭をひねっていた。一方で、死体発見現場周辺では次々と下山と思しき人物の目撃談があっており、三越周辺の目撃談は次第に重要性が低下していくことになる[3]。特に7日に聞き込みした「末広旅館」女将の詳細な証言が、大きく捜査の流れを変えることになった。報道で事件を知った「末広旅館」の女将は、休憩した人物が下山に間違いないと確信すると、所轄の西新井警察署に届け出た[4]。その後捜査一課の刑事が聞き込みにきたが、「末広旅館」の女将の証言の重要性に驚き、一旦聞き込みを終えると、神妙な顔をして「末広旅館」を後にした。その光景をみていた毎日新聞の記者がただ事ではないと察すると、ベテランの事件記者が「末広旅館」の女将を取材したが、女将は記者をその風貌から刑事と誤認して、先ほどの捜査一課の刑事に話した目撃証言を洗いざらい話してしまった。この毎日新聞のスクープは翌8日の紙面を大きく飾り、この後、毎日新聞は自殺説の方向で報道するようになり、他殺説をとる朝日新聞や毎日新聞と紙面上で激しく対立していくこととなった[5]。
7月9日には東京大学法医学教室が「局部を蹴上げられたためのショック死」と下山は殺害されたとの見解を公表し、毎日新聞以外のマスコミや世論は一層他殺説が主流となっていったが、毎日新聞は東京大学法医学教室の主張する「死後轢断説」に疑問を呈していた慶応義塾大学中館の見解を紙面で紹介し、この後、東京大学の「死後轢断説」と慶応義塾大学などの「生前轢断説」が激しく対立していくこととなった[6]。その頃、世論の喧騒に構わず捜査一課は地道な地取り捜査を続けており、さらに多くの現場周辺での下山の目撃情報を聞き込んでいた。その間、上記の通り、下山油など、他殺を疑わせるような事象も発見されたが、捜査一課は地道な地取りによって、自殺と考える様になっていった。福井盛太検事総長は、この事件を公安事件と捉えている旨の発言をしており、東京地検も検事総長の発言に沿って、捜査一課に他殺重点の捜査をしろとか盛んに捜査介入していたが、捜査一課は新刑事訴訟法の施行もあって検察の意向通りには動かなかった[7]。
7月21日には、最高検察庁、東京地検、警察による合同捜査会議が開催された。ここで東京地検が、疑義あるところを解明するとして、自殺説、他殺説両方の根拠や疑問点をまとめた資料を作成して、出席者に配布した。(この資料はのちに流出して、足立区立郷土博物館が入手し保存している[8]。詳細は#その他参照)東京地検とすれば、自殺説に傾斜していく捜査一課に釘を刺す目論見もあったが、逆に最高検察庁から会議に参加した木内曽益次長検事は自殺という印象を強めている[9]。この日の深夜23時からと翌22日の午前10時から合計7時間半にも渡って、捜査本部部長の坂本と捜査一課の首脳陣が「生前轢断」を主張している名古屋医科大学の小宮と面談しており、東大法医学教室が主張している「死後轢断」の検体に繋がった解剖所見についての意見を聞いている[10]。
自殺説に傾斜しつつある捜査本部に対して、他殺説を主張する東大法医学教室と朝日新聞記者の矢田は、上記の通り、線路上とロープ小屋に血痕を発見、これに同じく他殺説を主張していた東京地検が飛びついた[11]。東京地検と東大法医学部は、捜査一課に何の連絡もなく、血痕の捜査を開始し、その話を聞いた捜査一課の刑事たちは驚いたが[12]、この血痕の捜査には、労働組合、思想団体等の捜査をして特に成果のなかった捜査二課二係が[13]、坂本の「万全の捜査を」という方針によって加わっている。この後、捜査二課二係は東京地検の方針に従って捜査を継続していくことになる[14]。さらに、東大法医学教室で「下山油」と染料が下田の衣類から検出されると、東京地検と捜査二課二係はその捜査に集中していくようになった[15]。
捜査一課は東京地検が自分たちを出し抜いて進めている血痕や「下山油」の捜査にも冷静で、7月28日の夜には、東京地検の「ロープ小屋」から線路を伝って下山の遺体を轢断現場に置いたという推定を検証するため、下山の遺体に見立てた同じ重さの砂袋を使って4人がかりで運搬実験を行った[16]。この実験を見た、朝日新聞記者の矢田は、自分と東大法医学教室に対する当てつけのデモンストレーションだと嘲笑ったが[17]、何度も実験を重ねた結果、犯人たちが4人がかりで下山の遺体を運搬して轢断現場に置き、その後にロープ小屋まで帰るためには15分~20分かかるため、捜査一課の聞き込みにより判明した、午前0時前後に轢断現場付近を通行した7人もの通行者が、この異様な作業光景に全く気が付かなかったとは考えにくいという判断に至り、捜査一課は下山の遺体が運搬された事実はないと判断した[18]。
捜査結果公表の中止
[編集]8月1日には捜査本部での合同捜査会議が開催された。7月7日の捜査会議では他殺を疑っていた刑事の方が多かった捜査一課であったが、この会議においては発言者全員が自殺であると断言した。また、東京地検に協力し他殺説で捜査していた捜査二課二係の吉武も意見を述べているが、他殺の裏付捜査をしてきたが「労働組合関係、共産党関係、朝鮮人関係、資金関係、女性関係」などの捜査において、風評程度の話はあったが他殺を疑わせるようなことは何も出なかったとのことであった[19]。8月3日には、「死後轢断」を主張している捜査本部は東大法医学教室と会議を開催した。捜査一課からは、慶応義塾大学などから異論も出ている「死後轢断」を妄信する必要はないという意見もあったが、捜査本部としては、東大法医学教室の権威や、東京地検も東大法医学教室の鑑定を支持していることもあって、さすがに無視するわけにもいかず、自殺との捜査結果を公表するにあたって東大側の見解を確認しようということになった[20]。
この会議には警視庁からは坂本刑事部長、堀崎一課長と各係長、松本二課長と各係長、塚本鑑識課長、東京地検からは山内刑事部長、布施首席検事以下担当検事3人、東大法医学教室からは古畑、桑島、秋谷といった、この事件捜査の主要関係者のほぼ全員が参加していた。さらには東大からは精神科医内村祐之教授の代理人も参加していた。これは、米子医科大学学長の下田光造名誉教授から、「初老期うつ憂症」による自殺ではないかとの助言もあって、捜査一課は下山の自殺は精神的な問題が原因であると判断しており、その
- ^ 佐藤一 1976, p. 18
- ^ 佐藤一 1976, p. 23
- ^ 矢田喜美雄 1973, p. 179
- ^ 柴田哲孝 2005, p. 103
- ^ 佐藤一 1976, p. 38
- ^ 佐藤一 1976, p. 68
- ^ 佐藤一 1976, p. 148
- ^ “下山事件関係資料|足立区”. 2024年8月24日閲覧。
- ^ 佐藤一 1976, p. 150
- ^ 佐藤一 1976, p. 150
- ^ 矢田喜美雄 1973, p. 116
- ^ 佐藤一 1976, p. 171
- ^ 佐藤一 1976, p. 160
- ^ 平塚 2004, p. 248
- ^ 矢田喜美雄 1973, p. 155
- ^ 佐藤一 1976, p. 172
- ^ 矢田喜美雄 1973, p. 135
- ^ 佐藤一 1976, p. 174
- ^ 佐藤一 1976, p. 185
- ^ 佐藤一 1976, p. 186