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利用者:Omotecho/sandbox/ジョン・ルイス (人権活動家)

ジョン・ルイス
John Robert Lewis
アメリカ合衆国下院議員
ジョージア州
連邦議員選挙5区選出
任期
1987年1月3日 – 2020年7月17日
前任者ウィキ・ファウラー(英語)
後任者後任者なし
委員長
学生非暴力協調委員会(英語)
(SNCC)
任期
1963年 – 1966年
前任者チャールズ・マクデュー(英語)
後任者ストークリー・カーマイケル(英語)
個人情報
生誕ジョン・ロバート・ルイス
(1940-02-21) 1940年2月21日
アメリカ合衆国の旗 アメリカ アラバマ州トロイ
死没2020年7月17日(2020-07-17)(80歳没)
アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国 ジョージア州アトランタ
政党民主党
配偶者リリアン・マイルズ(Lillian Miles)(1968年-2012年)(死別)
子供1
出身校アメリカン・バプティスト神学校
: American Baptist College
フィスク大学
宗教バプテスト教会(キリスト教)

ジョン・ロバート・ルイス英語: John Robert Lewis, 1940年2月21日–2020年7月17日[1])はアメリカの政治家で公民権運動の指導者である。1987年にジョージア州連邦議員選挙5区から議会に入り、連邦議会下院および同上下両院ジョージア州選出連邦議員の代表を務める。

概要

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ワシントン大行進(1963年)を率いた「ビッグ・シックス」と呼ばれる各団体の代表のひとり。公民権運動の要職を歴任、法律のもと認められていたアメリカの人種隔離(英語版)撤廃のため行動を起こす。

民主党員として1986年に初当選、下院で17期務める。また経歴の長さによりジョージア州選出連邦議員の代表に任じられた。選挙地盤はアトランタ都市圏の北部4分の3にわたる。民主党下院議員の代表のほか、1991年より院内代表幹事(英語)、2003年から上級院内代表幹事(英語)を務めた。

2011年オバマ大統領(当時)から自由勲章を授与されるなど、名誉学位や顕彰を多数受ける。

ルイスは2016年銃規制改革の推進を目指す「2016年アメリカ連邦議会の民主党上下両院議員の座り込み」デモ(英語版)を主導している。

アメリカの週刊誌『タイム』はルイスを2017年の「1年で最も影響力のある人物トップ100」に選んだ[2]

誕生から青年期まで

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ジョン・ルイスは1940年にアメリカ南部のアラバマ州トロイに生まれ、母ウィリーメイ・カーター、父エディ・ルイスがもうけた子ども10人の最年長である。両親はアラバマ州パイク郡の小作農で、ルイスが6歳までに実際に会った白人は2人だけという。成長して家族とともにトロイ市内に出かけると、公共図書館などで初めて人種差別やアパルトヘイトを体験した。北部の都市部に住む親戚から、北部では学校や企業、バスなどの公共交通機関に肌の色に基づく差別がないことを教わる。11歳でおじに引き取られるとニューヨーク州第2の都市バッファローに移り、初めてトロイの人種偏見(肌の色による差別)に気づくことになる。15歳になる1955年、ラジオでマーティン・ルーサー・キング牧師のバス・ボイコットの演説を初めて耳にし、やがて17歳で人権擁護運動の母と言われたローザ・パークスに面会すると、キングと初めて会うのは18歳のときである。

学生運動とSNCC

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ナッシュビルの学生運動

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ルイスは進学のためナッシュビルに移り、アメリカン・バプテスト神学校を卒業するとフィスク大学宗教学哲学学士号を取得する。学生時代はナッシュビルで公民権運動が盛んな時期にあたり、ルイスも繁華街から離れたレストランで座り込みデモを組織するなど、学生非暴力協調委員会(SNCC= Student Nonviolent Coordinating Committee)のメンバーとしていくつもの活動に参加した。ナッシュビル都心部の食事どころに人種による客の扱いを改めさせようと瞑想運動を始め、非暴力運動の参加者として逮捕されたり投獄も数回経験しながら、レストランに人種隔離をやめさせる成果へと結びつける。ルイスはまたバスに乗り、公民権と人種平等を訴える活動を手伝うなど、人種差別のほか非暴力的な抗議に取り組む人々をまとめている。

クラーク記念ユナイテッドメソジスト教会の地下では、まだ神学生だったジェームズ・ローソン牧師(James Lawson)とケリー・ミラー・スミス牧師(Kelly Miller Smith)が講義を行い、招待された学生のなかにルイスがいた。多くの同世代の大学生とともに非暴力の哲学と規律を学び、提唱と実践に進んでいく。

フリーダム・ライド

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ルイスは1961年に13名の「フリーダム・ライダー」の一員に加わる。これはアメリカの公民権運動のひとつの典型で、同じバスの乗客を白人と黒人で席を隔離して座らせた決まりを無視し、異なる人種が隣り合って相席することを指す。初代のフリーダム・ライダーは白人7名と黒人6名からなり、ワシントンD.C.からニューオーリンズまで長距離バスで移動する計画である。当時、旧連邦州の複数の州は公共交通機関で黒人と白人が相席することを法律で禁じていた。裁判も起こしたが被告のバージニア州側が主張する乗客の人種隔離の妥当性を論破できず敗訴しており、フリーダム・ライドの趣旨は連邦政府に圧力をかけて連邦最高裁判所の審議に持ち込ませ、その訴訟は違憲であると認めさせることにあった。

フリーダムライド運動はまた、法を守る市民の行動は暴力の的にされるべきではないと訴えかけ、政府はそれに否定的な態度で応じた。連邦政府はフリーダム・ライダーの保護を人種差別主義の評判が高いアラバマ州警察に依頼するのみで、具体的な施策は行わない。ジョン・ケネディ政権はクーリングオフを要請し、フリーダム・ライドを一時的にやめるように求めている。

アメリカ南部ではジョン・ルイスほか非暴力のフリーダム・ライドに関与した人々が狙われ、怒った暴徒に襲われたり逮捕されたり、一部の人は繰り返し投獄され、ルイス自身が初の投獄者であった。21歳のときにサウスカロライナ州でフリーダム・ライド中に暴力を受けたときは、白人専用の待合室に入ろうとしたところ白人2人に殴られて顔を負傷、肋骨を蹴られた。そのわずか2週間後、ルイスはミシシッピ州ジャクソンへ向かってフリーダム・ライドに参加、暴力を受けても粘り強く忍耐力を尽くすと表明した。

「私たちは自分の生命が脅かされるかもしれないとわかっていても、後戻りはしないと覚悟を決めしました。」

フリーダム・ライドでミシシッピ州に入ったルイスはサンフラワー郡で再び逮捕され、40日間、獄につながれている。

CNNテレビは「フリーダム・ライド40周年」の特集番組でジョン・ルイスにインタビューし、ルイスと初代のフリーダム・ライダー12名がどのような暴力を受けたか回想を放送している。アラバマ州 バーミングハムでは袋だたきにあい、同州の首都モンゴメリーでは怒った暴徒がバスを襲い、ルイスは木箱に叩きつけられたという。ルイスは事件を思い出して言った。

「あの時は暴力があまりに激しく、死を覚悟したほどです。私はグレイハウンドのバス停に横たわったまま気を失いました。」

暴力の激しさを懸念した主宰者COREがフリーダム・ライドの実行を断念しかけたときも、ジョン・ルイスとダイアン・ナッシュ英語版はナッシュビルの学生に予定どおり運動を引き継ぐよう説得し、結局はフリーダム・ライドを介して非暴力の抗議運動は続き、公民権獲得と人種隔離の撤廃が成功していく。

48年後の同じ日にあたる2009年2月、PBSテレビの番組でルイスは元KKKの党員だったデンバーのアーウィン・ウィルソンの謝罪を受け入れた。

脚注

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注釈

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出典

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== 外部リンク ==

インタビュー

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リンク先は原則として英語版。

非営利団体
先代
チャールズ・マクデュー(英語)

}}

学生非暴力調査委員会委員長(英語)
1963年–1966年
次代
ストーキー・カーマイケル(英語)
アメリカ合衆国下院
先代
ウィキ・ファウラー(英語)
ジョージア州州選出下院議員
ジョージア州州5区

1987年–2020年
次代
空席
党職
先代
ディヴィッド・ボニア(英語)
下院民主党上級主任院内幹事(英語)
1991年–2019年
次代
セドリック・リッチモンド(英語)
下院院内幹事、Assistant Majority Whipとして



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