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利用者:Omotecho/sandbox/ウィルヘルミナ・ヴォン・ハッリウィル

Omotecho/sandbox/ウィルヘルミナ・ヴォン・ハッリウィル

アンナ・フレデリカ・ウィルヘルミナ・フォン・ハッリウィル: Anna Fridrica Wilhelmina von Hallwyl、旧姓ケンプ : Kempe, 1844年10月1日&ndssh;1930年7月25日)はスウェーデンの伯爵夫人。美術品収集に人生をかけ、そのコレクションから日用品まで一切の持ち物を国に寄贈した人物である。かつてハッリウィル家が暮らしたストックホルム市内の建物は博物館になり、ゆかりの品々を一般公開している。

経歴[編集]

ヴィルヘルミナはストックホルムの裕福な材木商ヴィルヘルム・ケンプ(リュスネ・ウォスナAB経営 Ljusne-Woxna AB)の一人娘として生まれ、遺産相続人となる[1]。20歳でスイス人将校ヴァルター・フォン・ハッリヴィル伯爵(1839–1921年)と結婚、伯爵はスウェーデンで暮らす約束を守り[2]義父の後を継いで材木業を取り仕切ると、やがてスウェーデン立法府の閣僚になる(初代内閣1897年–1905年)[3]

金持ちの娘として独身時代からヴィルヘルミナ・ケンプは美術品や骨董品の収集に傾倒し、両親との旅先であちこちを訪れては品物を手に入れていく。結婚後も美しいもののコレクション熱は続き、一生を通じて収集を続ける[3]。その内訳はヨーロッパと東アジアの美術品や装飾品に加え、刀剣や甲冑、本や手稿の写本も多数あった。

ハッリウィル博物館の磁器展示室

Ericslund邸(Trosa郊外)でしばらく暮らしたハッリウィル夫妻はストックホルムに家を借りて移ると、やがて自宅用マンション(タウンハウス)を建てるためイザック・グスタフ・クラソンに依頼する。邸宅は現在のハッリウィル博物館であり、ストックホルム中心部のベルツェリー公園(Berzelii Park)に隣接した用地で1893年に建て始め1898年に完成する。クラソンは建物のファサードヴェネツィア風に装飾し、内部に入ると居室はそれぞれ歴史的なスタイルを取り入れて部屋ごとに内装を変えてあった[3]。当初、絵画やタペストリーは部屋や廊下の壁を飾ったたものの点数が増え続けたため、とうとう屋根裏部屋を改装して絵画専用の展示室に使うことにした[4]

建物そのものと内部に収められた品々はまとめてすべて、スウェーデン国家に寄贈されることになる。1921年に発表された計画では伯爵夫人の没後の遺贈とされ、伯爵夫人が亡くなった1930年以降、美術品と家財道具を台帳に登録する作業に1938年までかかり、その間は一般公開をしていない。台帳づくりを優先した意図は、ある時代の素封家の住まいと所有の品々をまるごと1軒分、残されたとおりに記録し保存することにあった。美術品や骨董品など高価な品はもちろん、家族や使用人の日常を彩った道具として、同時代の家具、カーテンなどのテキスタイル類、衣服や台所道具、果ては事務用品や文房具類まで、ありとあらゆるものを台帳に登録してある[5]。なかには古いしきたりを反映するごく私的な記念の品として、伯爵のひげを少し切って編みあげた形見、あるいは一切れだけ残しておいた夫妻のウェディングケーキなどもあった[2]

ハッリウィル家では伯爵夫人の生前から、コレクションが増えるたびに記録を付けていた。1909年以降は美術品の分野ごとに専門家を雇い、ヨーロッパ絵画、中国の青銅器、ヨーロッパと東アジアの磁器など台帳に付けると掲載点数5万点の詳細な記録が整っていく。それを出版物として1926年から発行しはじめ、夫人の没後、1957年に合計79巻で完結する[3][6]

ハッリウィル家は北スイスのアールガウ州に先祖代々の居城としてハッリウィル城(Schloss Hallwil)を維持しており、夫人は基金(Hallwil-Stiftung)を作ると城の成り立ちの考古学調査と修復を手配した[3]。また遺贈目録にはハッリウィル記念民俗学教授職として、北方民族博物館 (スウェーデン) (英語){{訳語疑問点|date=2020年7月}}ならびにストックホルム大学に寄付講座を設けている[注 1]

ハッリウィル家には娘が3人あり(4人目は夭折)、三女のイルマ(1873年–1959年)は名士に嫁いでスコーネ地方で暮らし、長女エバ・ヴォン・エッカーマン(1866年–1960年)は社会活動家で慈善家である[2]。二女エレン(1867年–1952年)は彫刻家で、外交官ヘンリック・デ・マーレとの間にもうけた息子ロルフ・デ・マーレは長じてスウェーデン・バレエ団を創設する。離婚劇で世間を騒がせたエレンは、美術史家のジョニー・ルースヴァルと再婚した[2]

脚注[編集]

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  1. ^ 出典資料「von Hallwyl, Wilhelmina」[7]の典拠は、寄贈を申し入れた書簡である[8]

出典[編集]

  1. ^ Nordisk familjebok 1909, pp. 1157–1158「第10巻」
  2. ^ a b c d Hallwylska museet 2020. 引用エラー: 無効な <ref> タグ; name "FOOTNOTEHallwylska_museet2020"が異なる内容で複数回定義されています
  3. ^ a b c d e SBL & ????, p. 68「von Hallwyl, Wilhelmina」
  4. ^ Roosval 1938, p. 329.
  5. ^ Roosval 1938, p. 327.
  6. ^ Roosval 1938, p. 333.
  7. ^ SBL & ????, p. 69「von Hallwyl, Wilhelmina」
  8. ^ Fataburen 1920, p. 5 ff.

参考文献[編集]

  • “Redogörelse för Nordiska museets utveckling och förvaltning år 1919” (スウェーデン語). Fataburen. 5 (1918-21). p. 5 ff 
  • ハッリウィル博物館の公式サイト Hallwyl House” (英語). Hallwylska museet. 2020-??-??閲覧。
  • The Family
  • Hallwyl House

外部リンク[編集]

ハッリウィル博物館公式サイト(英語)

[[Category:1930年没]] [[Category:1844年生]] [[Category:美術品収集家]] [[Category:スウェーデンにおける死]] [[Category:スイス貴族の家系]]