利用者:Omotecho/sandbox/アントワン・セヴルギン
アントワン・セヴルギン Antoin Sevruguin | |
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ウィーンで撮影(1880年以前) | |
生誕 |
1851年[1] イラン、在テヘランロシア大使館 |
死没 |
1933年 イラン、テヘラン |
後援者 | ナーセロッディーン・シャー |
アントワン・セヴルギン(ペルシア語: آنتوان سورگین 1851年-1933年)はガージャール朝イランの写真家である。
前半生
[編集]ロシア人とアルメニア系ジョージア人の両親のあいだに、イランの在テヘンロシア大使館で生まれた。こだくさんの家庭であったが、ロシア人外交官だった父から年金の分与を拒まれた母は、ジョージアに帰り子供を育て上げる。父が落馬事故でなくなると、画家志望だったセヴルギンは家族を養うために、写真家の道を選ぶ。きょうだいに手伝わせてテヘラン市内に写真館を開いた。
著名人
[編集]写真の大部分は1870年から1930年にわたり撮影した。母語の他にもいくつか部族語や外国語が話せたことから、イランのさまざまな社会階層や部族と意思疎通ができ、宮廷やハレム、一般人まで被写体にした。またモスク他の宗教建築の写真は、ペルシャ(当時)で活躍するヨーロッパ系の写真家と対比された。統治者のナーセロッディーン・シャー(在位1846年-1896年)は特に写真好きで、王室の建物や行事など次々に撮影の注文が入った。
風景写真
[編集]セヴルギンはペルシャ各地を旅して写真を撮り、同時代のイランのすがたを記録していく。まだ規模の小さかったテヘランの身近な光景を示し、今では変わってしまった歴史的な建造物や橋、風景をとらえている。
民族学の資料写真
[編集]人物写真には、ヨーロッパ人がいだく昔ながらの類型的な東洋人のイメージを表現したものもあるが、それでも金を出して買おうとする客を魅了した。今日の目で見ると、それぞれの地域の民族衣裳の歴史を記録した、資料的価値が認められる。
19世紀の写真館では、民族グループごとに典型的な職業を見つけ、その肖像をフランス語で「タイプ」と呼ぶ類型として売り物にしていた。ペルシャ文化に親しみのないヨーロッパ人はそれらの写真を見ると、異文化の民族衣裳や手工芸、宗教を外見だけでも理解することができた。当時は民族固有の衣裳の写真を、民族学研究に使う手法として通用した。多くのヨーロッパの民族学博物館は科学的収蔵品としてセヴルギンの写真をこぞって買い求めた。バザールの商人、ズルカーナ(レスリング学校)の生徒、修道僧、タジーイエ劇場につめかけた観衆、シーア派の儀式に参列する人々などの主題に人気があった。セヴルギンは人物写真を使い、「Types persans」(ペルシャ人のタイプ写真)という文字入りの絵葉書を作って売り出し、人気を集めた。
また被写体としてどんな社会階級や民族であってもカメラの前に立たせ、ペルシャ王族ばかりでなく物乞いも、イラン人もヨーロッパ人も、野良で働く農民も、織物の仕事をする女性も、将校も宗教関係者も、あるいはゾロアスター教徒、キリスト教徒のアルメニア人、遊牧民のロル族、ジョージア人、クルド人、シャサバン、クルド人、ギラキ人にレンズを向けた。
写真館
[編集]写真館はアラ・アルダワラ通りという、他にも写真館のある目抜き通りにあった。セヴルギンの店に行くと地元の人も撮ってもらえたし、背景画の前でポーズをつけた写真が手に入った。ほとんどの写真はガラス乾板から卵白紙に焼きつけたもので、セヴルギンの名前を配したロゴが片面に印刷されていた。ペルシャ(当時)に住んでいた多くの西洋人や旅行者は日記にセヴルギンのことを記し、写真をお土産に買った。西洋の言語でつづるのが難しかったようで、19世紀の観光客はしばしば名前のつづりを間違えた。たとえばSevraguine、Sevrugin、Sevriogin、Segruvian、Serunianなどが残されている。名前は音訳してセヴルジョーギン(Sevr-joe-gien)と綴ることにした。
焼失
[編集]1908年、モハンマド・アリー・シャー配下のコサック(実権掌握は1907年-1909年)がラシュトの憲法主義者で知事だったザヒル・ダウラ殺害を目論み、誤って店を爆撃する。セヴルギンの家を含む通り全体が焼け、多数の作品が焼失した。
その時点までにセヴルギンは7000枚以上の写真を撮影しているが、助かったのは2000枚にすぎない。旧ガージャール朝に関連する多数の人物を被写体にした作品は「国の理想からかけ離れた西洋かぶれの表現」という理由をつけられ、レザー・パフラヴィー(在職1925年-1941年)は火災を免れた画像を没収させた[2]。
遺産
[編集]腎臓疾患でセヴルギンが亡くなったのち、その写真はもう一度、世間の脚光を浴びる。妻ルイーズ・グルジェニアンとの間に生まれた子ども7人のうち、娘メアリーはムハンマド・レザ・シャー・パフラヴィ(在職1941年-1979年)との交流を介し、父セヴルギンの写真の一部を取り戻した。ネガのうち696枚が現存する[2]。
ギャラリー
[編集]-
テヘランのくず拾い]]
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ハレムでくつろぐ女性ふたりと子ども(ブルックリン美術館所蔵)
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ウラジーミル・コソゴフスキー。ペルシャ・コサック旅団司令官。(テヘラン、1900年)
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銀製の装身具をつけた少女
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生きたライオンをつれたイラン人の男性
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軍事大臣レザー・パフラヴィー
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出典
[編集]- ^ “Sevruguin (Antoin) photographs”. Online Archive of California. 10 June 2019閲覧。
- ^ a b “SEVRUGUIN, ANTOIN”. Encyclopaedia Iranica (July 20, 2003). 2020年9月30日閲覧。
関連項目
[編集]関連文献
[編集]- L.A. Ferydoun Barjesteh van Waalwijk van Doorn, Gillian M.Vogelsang-Eastwood (eds.), Sevruguin's Iran / Iran az negah Sevruguin, Late nineteenth century photographs of Iran from the National Museum of Ethnology in Leiden, Netherlands, Teheran/Rotterdam 1378/1999.
- Bohrer, Frederick N., ED. Sevruguin and the Persian Image. London: University of Washington Press, 1999.
- Iraj Afshar, "Some remarks on the early history of photography in Iran". Qajar Iran; political, social and cultural change, 1800-1925. E.Bosworth, C. Hillenbrand (eds.), Edinburgh 1983, p. 262.
- Iraj Afshar, Ganjine-ye aks-haye Iran. hamrah-e tarikhche-ye vorud-e akkasi be (Iran, A treasury of early Iranian Photographs together with a concise account of how photography was first introduced in Iran), Teheran 1371/1992.
外部リンク
[編集]- セヴルギンの作品集 [リンク切れ](アーカイブ版)ジオシティーズ
- マイロン・べメト・スミス蒐集品より「セヴルギン作品集」。Subseries 2.12
- スティーヴン・アルピー蒐集品より「セヴルギン作品集」
- セヴルギンが撮影した東洋の写真:アルメニア在住のペルシャ系移民
- セヴェルギンの写真 フィーア美術館、サックラー美術館アーカイブより。(アメリカ、スミソニアン協会)
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