利用者:Omotecho/カール・ルードヴィッヒ・エンゲル
Omotecho/カール・ルードヴィッヒ・エンゲル | |
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エンゲルの肖像(ヨハン・エリック・リンド作) | |
生誕 |
ヨハン・カール・ルードウィヒ・エンゲル ドイツ語: Johann Carl Ludwig Engel 1778年7月3日 ベルリン(シャルロッテンベルク) |
死没 |
1840年5月14日 ヘルシンキ |
国籍 | / |
出身校 | ベルリン建築学校 |
職業 | 建築家 |
配偶者 |
シャルロッテ・ゾフィー・バルト ドイツ語: Charlotte Sophie Barth Engel(1782年–1831年)[1] |
子供 | |
建築物 |
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プロジェクト | ヘルシンキ都心部の復興事業 |
カール・ルードウィヒ・エンゲル(ドイツ語: Carl Ludvig Engel 1778年7月3日 – 1840年5月14日)はドイツの建築家。代表作はフィンランドのヘルシンキ都心に集中するとおり、19世紀後半に大火で失われたヘルシンキの復興に貢献した人物である[2]。同市の元老院広場とその四辺に接する建物群とヘルシンキ大聖堂[3]、また行政関連の議事堂(現・国会議事堂)と市庁舎、文教関連の作品では国立図書館とヘルシンキ大学本館が含まれる。ヨハン・カール・ルードウィヒ・エンゲル(ドイツ語: Johann Carl Ludwig Engel)ともいう。
経歴
[編集]カール・ルードヴィヒ・エンゲルは1778年、ベルリンのシャルロッテンベルク生まれで一家の生業はレンガ職人であった。おそらくはその仕事を手伝ううちに建築の仕事に出会ったと考えられ、ベルリン建築学校(Berlin Institute of Architecture)に進むと[4][リンク切れ]、プロイセンの建築物保守管理に携わった。1806年、国家がナポレオン勢に敗北して公職から追放されたエンゲルは、1808年にタリンの建築士に応募して合格する(現在のエストニア)。本拠地を現在のサンクトベテルブルクに移して新古典主義の帝政様式の建物群に囲まれたエンゲルは、間もなくロシアの支配が母国にも及び、フィンランドが大公国として新たな統治段階を経験する様子を国外から感じていた。
タリンで1809年から仕事を始めても、コートゥ通り8番の宮殿[注 1]のほかは仕事の受注が増えないままだったエンゲルは、数年で再び転職を考えた。エストニア時代のエンゲル作品は、おそらくケルヌの邸宅も含まれると考えられる。
フィンランドのトゥルクに移ったエンゲルは実業家に雇われて1814年から1年あまり働き、ここでヘルシンキ復興事業を率いるヨハン・アルブレヒト・エレンストロームと面識を得た。
おりからヘルシンキはフィンランド大公国の首都に昇格した直後であり、エレンストロームは自分の公共事業を補佐する有能な建築家を探していた。エンゲルにとっては職業人として決定的な転機であったはずであるが、この時点ではフィンランドに本拠を移さず、1815年3月にいったんサンクトペテルブルクに戻ると、民間の仕事を始める。
いよいよ生まれ故郷に戻ろうとした1816年、エレンストロームはエンゲルをヘルシンキに呼び寄せる手はずを整えていた。この人事案をアレクサンドル1世皇帝 に奏上し、エンゲルにはその2月、ヘルシンキ市再建委員会の顧問建築士の辞令が発せられた。本人が「これも短期の任命だろう」と予想したとしても[要出典]不思議はないが、エンゲルは終生、ヘルシンキに腰を落ち着けた。
ヘルシンキで手がけた建築物の第1号が完成に近づいた1819年–1820年の時期に、エンゲルは昇進して大公国のお抱え建築士総代の立場を固め、依頼される建築案は増えていった。公共施設ばかりか民間の建物や私邸も含まれ、1824年には立場がきわまり、フィンランド全土の建築管理統括に着任して全国の主要な州の公共建築を統括するよう辞令が発布された[5]。建築現場はフィンランド各地に広がっていくが、それでもエンゲルは当初、プロイセンで再び働きたいという望みを捨てきれずにこの職分を辞退しており - その背景にはイタリア出身のカルロ・バッシ初代代表が没し、プロイセンの建築士総代が空席であったことがあった。
エンゲルは建築管理統括時代に数々の重要な建築計画を監督しており、中規模の建築群にカンッピ地区というヘルシンキ第4の地域のヘルシンキ旧教会(Helsinki Old Church 1826年完成)、ヘルシンキ国立劇場(Engels Teater 1827年完成)などがある。その1827年に都心部を焼き尽くすトゥルク大火が発生、エンゲルは都市復興計画の責任者に任命された[要出典]。
エンゲルの死没地はヘルシンキ、1840年5月14日に落命した[1]。埋葬地はヘルシンキ公設墓地である[1]。
家族
[編集]1810年にシャルロッテ・ゾフィー・バルト(ドイツ語: Charlotte Sophie Barth Engel 1782年–1831年)と結婚、子供は娘エミリー(ドイツ語: Emilie Charlotte Engel 1812年–1840年)、息子はカール・アレクサンドル(ドイツ語: Carl Alexander Engel 1818年–1843年)とヨハン・ヴィルヘルム(ドイツ語: Johan Wilhelm Engel 1821年–1849年)がある[1]。
主な著作
[編集]発行年順。
- Engel, Carl Ludvig (1970) (ドイツ語). Carl Ludwig Engel : Ausstellung in Berlin im Oktober 1970, veranstaltet vom Suomen Rakunnustaiteen Museo [カール・ルートヴィヒ・エンゲル展:1970年10月ベルリン、フィンランド建築博物館主催]. Helsinki: Suomen Rakennustaiteen Museo [フィンランド建築博物館]
- 電子書籍版 Wickberg, Nils Erik (1970). Zusammenarbeit mit der Kunstbibliothek der Staatlichen Museen Preussischer Kulturbesitz [協力:プロイセン州立文化遺産美術館付属美術図書館]. ed (ドイツ語). Carl Ludwig Engel : Ausstellung in Berlin im Oktober 1970, veranstaltet vom Suomen Rakennustaiteen Museo (Finnisches Architektur-Museum) [カール・ルートヴィヒ・エンゲル展:1970年10月ベルリン、フィンランド建築博物館主催] (電子書籍 ed.). Berlin: Kunstbibliothek
- Engel, Carl Ludvig; Sinisalo, Jarkko (1982) (ドイツ語). Bemerkungen über die Art in Petersburg zu bauen, und über die Beschaffenheit der Baumaterialien [サンクトペテルブルクの建築手法と建材の性質に関する考察]. Helsinki: Museovirasto [博物館庁]. OCLC 476576473. ISBN 9789519074740, 9519074740
- Engel, Carl Ludwig; Wickberg, Nils Erik (1989) (フィンランド語). C.L. Engel : 芬: Kirjeet = 諾: Brev = 独: Briefe. Helsinki: Helsinki-seura [ヘルシンキ協会]. OCLC 93645193. ISBN 9789519418056, 9519418059 ニルス・エリック・ウィクバーグ著。題名は3言語で『手紙 = 手紙 = 書簡』。
- Alin, Taavetti; Törrö, Risto; Estberg, Ulla Pedersen (2012). Kulttuurikeskus G18. ed (フィンランド語). Näyttely "Carl Ludvig Engel: Koti Helsingissä - Sydän Berliinissä" [カール・ルートヴィヒ・エンゲル展: ヘルシンキの家 - ベルリンの心]. Carl Ludwig Engel 挿絵. Schildts(会場:文化センター G18。会期:2012年1月12日–同月29日)
- 別題:スウェーデン語: C.L. Engel - Hemmet I Helsingfors, HjäRtat I Berlin.
ギャラリー
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ヘルシンキ大学本館
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ヘルシンキ市庁舎。開設当初はホテルであった(1833年)
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聖ヨハネ教会(ハミナ)
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クロサアリ邸 (1810年頃)
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クオピオ・リセウム高等学校(1826年、クオピオ)
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エケロー税関兼郵便局(1828年)
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ヘルシンキ聖三位一体教会 (英語版)(1826年)
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ラプア聖堂 (英語版)(1827年)
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サフラティ村の教会(1829年)
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リエクサの鐘楼(1836年)
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アラヤルヴィ教会 (英語版)(1836年頃)
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ノキア教会 (英語版)(1837年)
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カイヴォフオネというレストラン (英語版)(1838年)
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ポリ旧市庁舎 (英語版)(1841年)
参考文献
[編集]主な執筆者、編者の順。
- Engel, Carl Ludvig (1990). . ed (フィンランド語). Carl Ludvig Engel 1778-1840 : näyttely Helsingin Tuomiokirkon kryptassa 7.8.-14.9.1990 [ヘルシンキ大聖堂の地下室における展覧会 1990年9月14日–8月7日]. ヘルシンキ: Opetusministeriö [教育省] ヘルシンキ大聖堂の展覧会図録。ヘンリク・リリウス編集(奥付=515頁)、参考文献一覧(506-513頁)。
- Engel, Carl Ludvig (1990). Pöykkö, Kalevi. ed. Carl Ludvig Engel 1778-1840 : pääkaupungin arkkitehti [首都の建築家]. Memoria, 6. Helsingin kaupunginmuseo [ヘルシンキ市立博物館]. OCLC 57924004. ISBN 9789517720311, 9517720319 カレヴィ・ペイッコ 編、参考文献(146-152頁)
脚注
[編集]注
[編集]- ^ この宮殿はエストニア法務庁舎に転用されている。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g “Carl Ludvig Engel” (英語). findagrave.com. Find a Grave. 2024年9月20日閲覧。 “家族: 伴侶=Charlotte Sophie Barth Engel(1782–1831、1810年結婚) 子供=Emilie Charlotte Engel(1812–1840)、Carl Alexander Engel(1818–1843)、Johan Wilhelm Engel(1821–1849) 埋葬地:Hietaniemi Cemetery(ヘルシンキ公設墓地)Helsinki, Helsinki Municipality, Uusimaa, Finland 区画番号:03-19-261”
- ^ Pöykkö 1990, p. 146-152
- ^ Engel, Lilius 1990, p. 515
- ^ “Carl Ludvig Engel”. Great Buildings Online. 2004年10月10日閲覧。
- ^ “C. L. Engel's collection of letters and drawings” (英語). Memory of the World. 2024年9月20日閲覧。