利用者:Omaemona1982/下書き9
ドイツ保守党 Deutschkonservative Partei | |
---|---|
成立年月日 | 1876年6月7日 |
前身政党 | 保守党 (プロイセン) |
解散年月日 | 1918年11月 |
解散理由 | 自由保守党などと合併して新党結成 |
後継政党 | ドイツ国家人民党 |
本部所在地 | ベルリン |
政治的思想・立場 |
保守主義 君主制擁護[1] 保護貿易主義[1] 反自由主義[2] 反社会主義[2] 反ユダヤ主義[2] |
機関紙 | 十字章新聞 |
ドイツ保守党(ドイツほしゅとう、ドイツ語: Deutschkonservative Partei、略称DKP)は、帝政期のドイツの保守政党。1876年にプロイセンの保守党を中心にして結党された。ユンカーなど地主を中心に支持され、とりわけプロイセンにおいて大きな影響力を保持し続けた。第一次世界大戦後の1918年に自由保守党(FKP)などと合併してドイツ国家人民党(DNVP)に改組された。
党史
[編集]前身
[編集]プロイセン王国の保守党を前身とする。同党は主としてエルベ川以東の大地主貴族ユンカーを支持基盤としたが、近代化・工業化の進展に伴う農業の地位低下で経済的に大きな打撃を被り、守勢にたたざるを得なくなった[3]。
またゲルラッハ兄弟をはじめとするプロイセン保守派は、国制理論からプロイセン国制の維持を最重要視しており、「より大きいプロイセン」は許容できてもプロイセンが「ドイツ帝国」に吸収されることは拒否した。彼らが支持するのはオーストリア帝国を含みつつ、プロイセンが指導的立場に立つ領邦国家の連合体だった。そのため正統主義に反する普墺戦争やハノーファー王国などの併合、ホルシュタイン問題の処理といったプロイセン首相オットー・フォン・ビスマルクによるドイツ統一事業を「上からの革命」として拒否する立場を取っていた[1][4]。
こうした立場のため、プロイセンの保守党は1871年のドイツ帝国建設前後の頃にはその影響力を著しく低下させていた[1][5]。1873年の段階で同党はプロイセン衆議院では30議席、帝国議会では21議席を持つにすぎず、「自由主義という酒を飲み干すよう強要される」事態にまで追い込まれていた[4]。他方1871年以降も同党はプロイセンにおいて権力に通じるポストを多数保持し続けたし、またヴィルヘルム1世は「ドイツ皇帝」になったといっても依然プロイセン国王にして大元帥にして福音派国教会最高教父でもあるため、彼らはヴィルヘルム1世に絶対的忠誠を誓い続けていた[6]。
ドイツ保守党の結党
[編集]帝国建設直後の頃からプロイセンの保守党内ではオットー・フォン・ヘルドルフ、ヴィルヘルム・フォン・ラウフハウプト、フリードリヒ・ヴィルヘルム・ツー・リンブルク=シュティルム伯爵といった議員らが保守原理主義とは手を切ってビスマルク体制の下での新たな道を模索するようになった[5]。彼らが中心となって1870年代半ばになるとプロイセンの保守党内にもビスマルクや「ドイツ」に対する後ろ向きな態度から脱却しようという機運が高まった[3]。折しも1873年以降の不況の影響で保護貿易論が高まっており、ビスマルクも1875年終わり頃からこれまでの自由主義的態度を弱めて保守化し、保護貿易主義へ舵を切り始めていた時期だった。そのためビスマルクの支援を受けて1876年7月に「ドイツ保守党」が創設される運びとなった[7]。
この「ドイツ保守党」はその名の通りプロイセンの保守党だけではなく、ドイツの保守諸勢力が結集する形での創設となった[8]。党の結党声明に署名した27人のうち14人までが非プロイセン人であり、ベルリンの選挙協会執行委員会のメンバー選出も党が全階層・全ドイツ地域を代表していることをアピールするためにある程度多様な人的構成が行われた。しかし南西ドイツ諸邦国の保守派は「プロイセンの反動政党」に加わったことが知れると社会経済的ボイコットを受けると恐れて選挙協会への正式参加を望まない者が多かった。そのため同党の基盤は依然としてプロイセンの東エルベ大地主貴族ユンカーであり、プロイセン保守党時代から大きな党構成の変化を起こさなかった[9]。
創設に際してドイツ保守党は綱領を制定し、東エルベ地域重視、君主制維持、宗派別宗教教育の強化、経済の無制限の自由への反対、ドイツ社会主義労働者党(SAPD)に断固たる闘争を挑むこと等が盛り込まれた[1]。
ビスマルク政府との関係
[編集]ドイツ保守党の最初の党首となったヘルドルフは「ほとんど自由保守党的なレベルまで」の親ビスマルク政府的態度をとったが、党内にはフィリップ・フォン・ナトゥディウスやハンス・フーゴ・フォン・クライスト=リッツォウなどそれに反発する右派も依然として根強かった。彼らはドイツ保守党の綱領はあまりにも「国民的」「非教会的」であると批判し、ビスマルクを無条件に支持することの危険性を説いた。ヘルドルフが党内右派を完全に抑え込めなかったために政府は「国家を支える党」としての保守党の潜在力を認めつつも保守党との関係が安定しなかった。結局ビスマルクと保守党の関係改善は不完全に終わり、政府と党指導部の間においてのみ行われた[10]。
1879年から1880年にかけて国民自由党(NLP)は、ビスマルク支持の保護貿易派とビスマルク反対派の自由貿易派に分裂し、後者は党を去ることになった。以降ドイツ保守党とドイツ帝国党(プロイセンでの党名は自由保守党)(DRP,FKP)と国民自由党はビスマルクの与党的勢力を構成するようになった[11]。帝国議会議員選挙は小選挙区制で過半数を獲得した候補がいない時は上位者2名による決選投票が行われる選挙制度になっていたため、決選投票に備えて選挙協力が必要だった。ビスマルクは1887年に保守党、帝国党、国民自由党に「三党のうち前回選挙で勝利した政党がある選挙区は、その党の候補者をその他の二党が支援し、それ以外の選挙区では統一候補を擁立する」という協定を結ばせた。そのためこの3党は「カルテル」と呼ばれるようになった[12]。
1880年代になると保守党内では反主流派の立場から党主流派のビスマルク追従を批判する動きが強まった。保守党内の独自組織となったアドルフ・シュテッカーを中心とするキリスト教社会労働者党(1881年以降キリスト教社会党と改名)やヴィルヘルム・ヨアヒム・フォン・ハマーシュタイン率いる十字新聞派(Kreuzzeitungspartei)、ロベルト・フォン・プットカマー、グスタフ・フォン・ゴスラー、アルフレート・フォン・ヴァルダーゼーといったビスマルクに批判的になっていた保守派閣僚、プロイセン衆議院の保守党右派議員、党指導部に批判的な地方活動家などがその中心だった[13]。
彼らはビスマルク時代の洗礼を受けたがゆえに、もはやゲルラッハ世代のようなドイツ統一に反対するような正統主義こそ捨て去っていたが、「キリスト教精神によって活性化されていない保守主義には何の価値もない。なぜなら真の保守理念の永遠の真理はキリスト教の中にあるからである」と主張してキリスト教社会保守主義に走り、ビスマルクと国民自由党の結託により推進された「際限なき経済自由主義」「冷酷で拝金主義的なマンチェスター主義」がキリスト教社会を破壊し、下層民の困窮化をもたらしたと批判し、キリスト教論理に基づく社会政策を熱心に訴えた[13]。特に大衆化路線を取ったキリスト教社会党はキリスト教社会を破壊している大資本として「ユダヤ金融資本」を敵視し、反ユダヤ主義を強めた[14]。こうした反主流派の動きは単なる反動ではなく社会政策によって保守党を大衆政党へと発展させようとする動きでもあった[14]。
ヘルドルフ保守党指導部とキリスト教社会党や十字新聞派の対立は80年代を通じて続いた。1878年の関税引き上げや社会主義者鎮圧法といったビスマルクの政策の保守化は政府と自由主義派の対立をもたらし、保守党指導部の親ビスマルク方針を反主流派に対して正当化する方向に働いたが、国民自由党が1884年にハイデルベルク綱領を制定して保守的路線を取ってビスマルクに再接近するとビスマルク政府も与党カルテルを復活させたため、再び保守党内の路線対立が深まった。特に1887年のカルテル選挙の後、シュテッカーやハマーシュタインは再びビスマルクとヘルドルフ指導部批判を強めた[15]。
反主流派の台頭
[編集]1890年のビスマルクの失脚後、ヴィルヘルム2世による皇帝親政が始まり、レオ・フォン・カプリヴィが新たな帝国首相に就任した。これにより保守党内の路線対立はさらに深まった。シュテッカーら反主流派はビスマルクの辞任を「新しい時代の幕開け」として大歓迎し、皇帝が発した二月勅令の労働者保護の社会政策を支持した。それに対してヘルドルフ党指導部は社会政策は「慎重で敏感な考慮」が必要と主張して二月勅令を鵜呑みにして請求に行動することを批判した[15]。
しかしヘルドルフは、ヴィルヘルム2世やカプリヴィに対しても親政府路線を継続しようとしたことでキリスト教社会党や十字新聞派だけでなく党内多数派からも批判されるようになり、立場を悪化させた。特に1891年の農村自治体条例案はユンカーの特権削減につながるものと思われたため、その制定に協力したヘルドルフは批判に晒された。また農業関税引き下げを基調とする通商条約改定をめぐっても保守党議員団の行動は分裂。さらに1892年1月の保守的な学校法案(自由主義諸政党が強く反発していた)に対してヘルドルフは国民自由党の顔入りを伺うような対応を取ったことから党内の強い反発を受けた。同年4月にはプロイセン貴族院保守党議員団、ついで5月には衆議院議員団から辞職を要求されたヘルドルフは党首職を辞することとなった[15]。
ヘルドルフ辞職は保守党が反カプリヴィ路線を選択したことを示すと同時に80年代からキリスト教社会党によって主張されてきた社会政策や反ユダヤ主義の取り込みによる「大衆政党」化の頂点を示す物でもあった[16]。
それを示す物となったのが1892年にベルリンのティヴォリ・ホールで開催した党大会において制定されたティヴォリ綱領(Tivoli-Programm)だった。その中で穀物価格の維持や農民や手工業者など中間身分の利益擁護を強調した。またこれまでの反自由主義、反社会主義の立場に加え、反ユダヤ主義の立場も鮮明にするようになった。これは工業化の波で経済的な困窮を深めていた農村で高まる反ユダヤ主義感情に呼応した物だった。この綱領は1918年の解党まで維持されることになった[17]。
ティヴォリ綱領はキリスト教社会党や十字新聞派の勝利にも見えたが、これはこの後も続く党内紛争の一局面でしかなく、キリスト教社会党や十字新聞派はこの後急速に不利な立場へと追いやられていく[18]。
キリスト教社会党の保守党離脱
[編集]ヘルドルフ辞職後に党首となったオットー・フォン・マントイフェル男爵は、農業利益の台頭とともに反政府的志向を強めたが、他方で伝統的名望家政党を維持しようとし、ヘルドルフ時代の路線を大きく変更することには消極的だった。党指導部はキリスト教社会党が主張するような路線は過激な反ユダヤ主義者との連合をもたらし、カルテルの中で保守党を孤立させ、保守党を中央党の方へ追いやるとして批判的なままだった[19]。
また同じ頃キリスト教社会党内では、保守党の前衛たろうとしたシュテッカーの立場に清算し、労働者の立場に立つ革新政党になろうというフリードリヒ・ナウマンら「青年キリスト教社会主義派」が台頭し、党内が内紛状態となった。こうしたキリスト教社会党左派は保守党内でも批判に晒され、マントイフェル党指導部はもちろんのこと、十字新聞も1895年4月以降公然とナウマン派を批判した。彼らはナウマン派に反対しない者はもはや保守党に属するとは見なさないと主張した[20]。シュテッカーはキリスト教社会党内での指導権を維持するために保守党から離脱するか、ナウマン派を排除して保守党内に留まるかを選択しなければならなくなり、1896年2月に保守党から離脱した[20]。
キリスト教社会党や十字新聞派の衰退に拍車をかけていたのは保守党の農業利益政党化だった。保守党は1893年2月18日に大地主だけではなく中小農民にも支持地盤を広げることを目的として、党の外郭団体農業者同盟を結成していた。この団体は大地主の利益を優先的に追求しながら、大地主と中小農民の錯綜する利益を「農業利益」と称して、その擁護者であることを喧伝することによって中小農民を組織することに成功した。また中間層にも支持を広げるべく戦闘的な反ユダヤ主義イデオロギーを採用した。その結果1900年までに23万人の同盟員を数え、親政期の最大の大衆組織へと成長した。この団体を通じて保守党は大衆的地盤を獲得し、「プロイセン貴族党」から「農業利益党」へ変貌した[21]。ただし保守党内にはその変化に対する反発も根強く、伝統的な保守勢力と急進的な農業利益派の対立が生じるようになった[22]。
動きが強まった。
党内対立の激化
[編集]1894年のカプリヴィ失脚とともに「新航路」が終わると保守党は再び親政府的な勢力となり、ドイツ社会民主党(SPD)弾圧を要求してクロートヴィヒ・ツー・ホーエンローエ=シリングスフュルスト宰相(在職1894年-1900年)を支えた[23]。ベルンハルト・フォン・ビューロー宰相(在職1900年-1909年)の下では、カルテル3党は、政府の対外政策を支持するようになった自由主義左派三派(自由思想家連合、自由思想家人民党、ドイツ人民党)と「ビューロー=ブロック」と呼ばれる大連合を結んだ[24]。しかし財政改革案を巡って両保守党(保守党・帝国党)と自由主義勢力は決裂し、テオバルト・フォン・ベートマン・ホルヴェーク宰相(在職1909年-1917年)の下では両保守党と中央党による「黒青ブロック」が政府を支えることになった[25]。
しかし総じていえば、親政期を通じて帝国議会における保守党の党勢は衰退し、保守党は他の政党から孤立するようになった。帝国政府が必ずしも保守党の意に沿わない政策を取らざるをえなくなった時には保守党が厳しい政府批判を行うという局面も見られるようになった。帝国議会における保守党の比重の低下は、保守党をプロイセン地域政党化させ、その役割はプロイセン政治からの帝国政治に厳しい牽制を送るという意味合いが強くなっていった[26]。
三級選挙制度という制限選挙の下にあったプロイセン衆議院においては、保守党は、1879年以降一貫して第一党であり続け、自由保守党や国民自由党と合わせて過半数を維持し続けた。また保守党はプロイセン政府や官僚機構と緊密な人的関係を維持していたのでプロイセンの支配的勢力と言っても過言ではなかった。邦国代表から成る上院連邦参議院においては最大の大邦プロイセンが絶大な影響力を持っており、帝国宰相もプロイセン宰相を兼務するのが通常だったのでプロイセンを抑えている保守党の権力は帝国議会における議席以上に巨大だったといえる[27]。
第一次世界大戦と戦後
[編集]1914年に開戦した第一次世界大戦で保守党を筆頭とする右派政党は戦争目的論争において「勝利の平和」を唱道した。これはドイツが戦勝の結果を確保して占領地を併合することによって平和を達成するという議論である。これに対して社民党は領土併合に反対し、敵国民との和解をもって平和を達成する「和解の平和」を対置させた[28]。
ドイツ革命後の1918年12月4日、保守党、自由保守党、国民自由党右派等が結集してドイツ国家人民党(DNVP)が結成された[29]。
選挙結果
[編集]帝国議会
[編集]選挙日 | 得票 | 得票率 | 得票順位 | 獲得議席(総議席) | 議席順位 |
---|---|---|---|---|---|
1877年1月10日 | 526,000票 | 9.7% | 第3党[注釈 1] | 40議席(397議席) | 第3党[注釈 1] |
1878年7月30日 | 749,500票 | 13.0% | 第4党[注釈 2] | 59議席(397議席) | 第3党[注釈 1] |
1881年10月27日 | 830,800票 | 16.3% | 第2党[注釈 3] | 50議席(397議席) | 第3党[注釈 4] |
1884年10月28日 | 861,100票 | 15.2% | 第4党[注釈 5] | 78議席(397議席) | 第2党[注釈 3] |
1887年2月21日 | 1,147,200票 | 15.2% | 第3党[注釈 1] | 80議席(397議席) | 第3党[注釈 1] |
1890年2月20日 | 895,100票 | 12.4% | 第5党[注釈 6] | 73議席(397議席) | 第2党[注釈 3] |
1893年6月15日 | 1,038,300票 | 13.5% | 第3党[注釈 7] | 72議席(397議席) | 第2党[注釈 3] |
1898年6月16日 | 859,200票 | 11.1% | 第4党[注釈 8] | 56議席(397議席) | 第2党[注釈 3] |
1903年6月16日 | 948,500票 | 10.0% | 第4党[注釈 8] | 54議席(397議席) | 第3党[注釈 7] |
1907年1月25日 | 1,060,200票 | 9.4% | 第4党[注釈 8] | 60議席(397議席) | 第2党[注釈 3] |
1912年1月12日 | 1,126,300票 | 9.2% | 第5党[注釈 9] | 43議席(397議席) | 第4党[注釈 8] |
プロイセン衆議院
[編集]選挙年次 | 獲得議席(総議席) | 議席順位 |
---|---|---|
1876年 | 41議席(433議席) | 第4党[注釈 10] |
1879年 | 110議席(433議席) | 第1党 |
1882年 | 122議席(433議席) | 第1党 |
1885年 | 133議席(433議席) | 第1党 |
1888年 | 129議席(433議席) | 第1党 |
1893年 | 144議席(433議席) | 第1党 |
1898年 | 145議席(433議席) | 第1党 |
1903年 | 143議席(433議席) | 第1党 |
1908年 | 152議席(443議席) | 第1党 |
1913年 | 148議席(443議席) | 第1党 |
1918年 | 147議席(437議席) | 第1党 |
出典:[30] |
党首
[編集]党首である議長(Vorsitzender)は以下の通り[31]。
- 1876年-1892年、オットー・フォン・ヘルドルフ
- 1892年-1895年、フリードリヒ・グラーフ(伯爵)・ツー・リンブルク= シュティルム
- 1895年-1911年、オットー・フライヘル(男爵)・フォン・マントイフェル
- 1914年-1918年、エルンスト・フォン・ハイデブラント・ウント・デア・ラサ
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ a b c d e 国民自由党(NLP)、中央党(Zentrum)に次ぐ
- ^ 国民自由党(NLP)、中央党(Zentrum)、ドイツ帝国党(DRP)に次ぐ
- ^ a b c d e f 中央党(Zentrum)に次ぐ
- ^ 中央党(Zentrum)、ドイツ進歩党(DFP)に次ぐ
- ^ 中央党(Zentrum)、ドイツ自由思想家党(DFP)、国民自由党(NLP)に次ぐ
- ^ ドイツ社会民主党(SPD)、中央党(Zentrum)、国民自由党(NLP)、ドイツ自由思想家党(DFP)に次ぐ
- ^ a b ドイツ社会民主党(SPD)、中央党(Zentrum)に次ぐ
- ^ a b c d ドイツ社会民主党(SPD)、中央党(Zentrum)、国民自由党(NLP)に次ぐ
- ^ ドイツ社会民主党(SPD)、中央党(Zentrum)、国民自由党(NLP)、進歩人民党(FVP)に次ぐ
- ^ 国民自由党(NLP)、中央党(Zentrum)、ドイツ進歩党(DFP)に次ぐ
出典
[編集]- ^ a b c d e 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1996, p. 409.
- ^ a b c 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 9.
- ^ a b 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1996, p. 408-409.
- ^ a b 横井正信 1988, p. 42.
- ^ a b 横井正信 1988, p. 43.
- ^ ヴェーラー 1983, p. 130.
- ^ ガル 1988, p. 708.
- ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1996, p. 442.
- ^ 横井正信 1988, p. 43-44.
- ^ 横井正信 1988, p. 45-46.
- ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1996, p. 449-453.
- ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1996, p. 452.
- ^ a b 横井正信 1988, p. 48.
- ^ a b 横井正信 1988, p. 49.
- ^ a b c 横井正信 1988, p. 52.
- ^ 横井正信 1988, p. 53.
- ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1996, p. 409, 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 9-10
- ^ 横井正信 1988, p. 54.
- ^ 横井正信 1988, p. 55.
- ^ a b 横井正信 1988, p. 57.
- ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 9, 飯田芳弘 1999, p. 45, ヴェーラー 1983, p. 130
- ^ 飯田芳弘 1999, p. 45.
- ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 13.
- ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 25.
- ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1997, p. 29.
- ^ 飯田芳弘 1999, p. 46.
- ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1996, p. 414, 飯田芳弘 1999, p. 45, ヴェーラー 1983, p. 132
- ^ 林健太郎 1963, p. 7-8.
- ^ Winkler, Heinrich August (2000), Germany: The Long Road West, 1789–1933, Oxford University Press, p. 352
- ^ 成瀬治, 山田欣吾 & 木村靖二 1996, p. 416.
- ^ 秦郁彦編 2001, p. 364.
参考文献
[編集]- 飯田芳弘『指導者なきドイツ帝国―ヴィルヘルム期ライヒ政治の変容と隘路』東京大学出版会、1999年。ISBN 978-4130360968。
- ヴェーラー, ハンス・ウルリヒ 著、大野英二、肥前栄一 訳『ドイツ帝国 1871‐1918年』未來社、1983年。ISBN 978-4624110666。
- ガル, ロタール 著、大内宏一 訳『ビスマルク 白色革命家』創文社、1988年(昭和63年)。ISBN 978-4423460375。
- 成瀬治、山田欣吾、木村靖二『ドイツ史〈2〉1648年~1890年』山川出版社〈世界歴史大系〉、1996年。ISBN 978-4634461307。
- 成瀬治、山田欣吾、木村靖二『ドイツ史〈3〉1890年~現在』山川出版社〈世界歴史大系〉、1997年。ISBN 978-4634461406。
- 秦郁彦編『世界諸国の組織・制度・人事 1840―2000』東京大学出版会、2001年。ISBN 978-4130301220。
- 林健太郎『ワイマル共和国 —ヒトラーを出現させたもの—』中央公論新社〈中公新書27〉、1963年。ISBN 978-4121000279。
- 横井正信 (1988). “第2帝制下のドイツ保守党1”. 政治経済史学272 (日本政治経済史学研究所).
- 横井正信 (1989). “第2帝制下のドイツ保守党2”. 政治経済史学273 (日本政治経済史学研究所).
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