利用者:Ohtani tanya/作業場2
1956年に大韓放送(HLKZ-TV/KORCAD-TV)の設立後より単発のテレビドラマ作品が放送されていたが、本格的なテレビドラマ放送は1961年の国営ソウルテレビ設立をきっかけとして始まった。1969年の文化放送設立後は連続ドラマが争うように放送されるようになった。多くの国においては映画がまず大衆に受け入れられ、それからテレビドラマが受け入れられたが、韓国においては国内事情の影響ゆえ、テレビドラマがの方が大衆娯楽として受け入れられるようになった[脚注 1]。21世紀に入ってからは、3局の地上波局に加え、tvN(tvN)やOCN、地上波3局系列のCS局、更には2011年に開局した総合編成チャンネルにより、多くの作品が制作・放送されており、そのうちのいくつかは他の国々へも輸出されている。
歴史
[編集]黎明期: 1950年代 - 1964年
[編集]韓国初のテレビ局である大韓放送の開局2か月後、30分の単発作品『天国の門』(천국의 문)が放送された。同局で演出を担当していた崔彰鳳(チェ・チャンボン)によると、この作品が韓国初のテレビドラマである[4]。『天国の門』が放送された数か月後には、90分の単発作品『死刑囚』(사형수)が制作・放送された[4]。同局が1961年に放送を休止し、放映権を引き継いだ国営ソウルテレビ(現在の韓国放送公社)が発足してからが、韓国におけるテレビドラマの本格的な始まりの時期である。発足当初はソウルテレビも30-60分程度の単発テレビドラマを制作しており、「金曜劇場」「日曜劇場」「連続時代劇」の枠にて放送していた。
5・16軍事クーデター直後に発足したソウルテレビにはテレビドラマ分野を専門とするスタッフが十分に揃っていなかったため、映画やラジオドラマの脚本家たちが動員され、脚本を分担執筆した。同局初のテレビドラマは、柳致真(ユ・チジン)の戯曲を原作として李基夏(イ・ギハ)が演出した『私も人間になるのだ』(나도 인간이 되련다)であった[5]。この頃制作された作品の中でも、金熙昌(キム・ヒチャン)が脚本を執筆し、1962年7月に放送された『ソウルとツイスト』(구두창과 트위스트)はその後何度かリメイク作品が制作されている。その他、朱泰益(チュ・テイク)の『決断』(결단、1962年放送)、金永壽(キム・ヨンス)の『家族会議』(가족회의、1962年9月放送)、韓雲史(ハン・ウンサ)の『自由の行方』(자유의 행방、1962年6月放送)といった作品もあった。一方、金石野(キム・ソギャ)の脚本を黄垠軫(ファン・ウンジン)が演出した『ソウルの路地裏』(서울의 뒷골목、1962年6月放送開始)が韓国初の連続ドラマとして制作され、以後、連続ドラマ形式の作品がテレビ番組の一ジャンルとして定着していった。
この他、李瑞求(イ・ソグ)、崔要安(チェ・ヨアン)、趙欣波(チョ・フンパ)、河有祥(ハ・ユサン)、李容璨(イ・ヨンチャン)、李根三(イ・グンサム)、鄭素影(チョン・ソヨン)、李慶載(イ・ギョンジェ)、李聖載(イ・ソンジェ)、任熙宰(イム・ヒジェ)、金東賢(キム・ドンヒョン)などの小説家・劇作家・脚本家たちが、この時期にテレビドラマ作品を発表した。第1回テレビジョン放送劇懸賞募集で入選した申泰順(シン・テスン)の『赤い風船』(빨강 풍선、1962年放送)と黄基容(ファン・ギヨン)の『鐘の愛の花を咲かせて』(종소리 사랑의 꽃을 피우다、1962年放送)といった作品も制作されている。
テレビを主活動領域とする俳優やタレントも不足していたため、これらの作品には当初映画俳優や舞台俳優たちが出演していたが、その後テレビ局専属のタレントも出演するようになった。1962年1月、第1期公募タレント(KBS第1期公募タレント)が、同年4月に第2期公募タレントが選出された。1期生には金惠子(キム・ヘジャ)、朴珠雅(パク・チュア)や鄭惠先(チョン・ヘソン)ら26名、2期生のテレビドラマ部門[脚注 2]には姜富子(カン・ブジャ)ら16名がいた。
1964年には、ソウルテレビの演出家であった金在衡(キム・ジェヒョン)により、テレビドラマにおける韓国時代劇の嚆矢的作品である『国土万里』(국토만리)が制作・放送された[6][7]。
成長期: 1965 - 1969年
[編集]東洋放送(TBC)
[編集]1964年12月に開局した東洋放送(TBC)は、事前収録により制作した初の作品『初雪』(초설)[5]に続き、韓雲史脚本・黄垠軫演出の『雪が降るのに』(눈이나리는데)を放送したが、これは韓国初の日日ドラマ形式の連続ドラマであった。
テレビドラマの放送には、通常、6-15人の出演者と複数のスタッフ陣が必要であり、ソウルテレビが行っていた生放送形式の放送に対応できる専門家が東洋放送にはいなかった。しかし同局は発足時点より準備していた録画用機材を用い、事前に複数話分を収録して放送する形式を取った。これにより、毎日決まった時間に出演者やスタッフを動員する手間を省いた他、ソウルテレビでは行われていなかった日日ドラマ形式の連続ドラマ形式で放送する事が可能になった。1話20分程度を連日放送するこの形式は、次回放送への期待を視聴者に持たせるだけでなく、メインストーリーとは別のエピソードを作品中で扱う余裕ができた。その結果ドラマ作品は幅広い視聴者層を獲得し、多くのスポンサーから多くの収入を挙げる事ができた。日日ドラマ形式の連続ドラマは、商業放送に適した形態であった。
東洋放送のテレビドラマに重点を置く方針は、やがて韓国のテレビドラマ界にひとつのブームを作り出した。脚本家たちは執筆に追われるようになり、主演級の俳優が不足して映画界や演劇界の俳優の力を借りるようになり、そして視聴者たちが他のドラマを求めてテレビのチャンネルを変える光景がありふれるようになった。
黎明期に活躍した脚本家・演出家たちはテレビドラマ界に定着していた。更に辛奉承(シン・ボンスン)、兪湖(ユ・ホ)、尹赫民(ユン・ヒョンミン)、李南燮(イ・ナムソプ)、李哲鄕(イ・チョリャン)、朴祚烈(パク・チョヨル)、徐允成(ソ・ユンソン)、田凡成(チョン・ボムソン)、金敏夫(キム・ミンブ)、趙南史(チョ・ナムサ)、秋湜(チュ・シク)などが、テレビドラマ制作の現場に携わるようになった。彼らはホームドラマ・メロドラマ・コメディドラマ・歴史劇・スリラー等のシリーズ作品、また単発作品と、あらゆるスタイルと素材を用いて作品を発表したが、東洋放送の主流は連続メロドラマであり、ソウルテレビの「実話劇場」シリーズに継ぐ視聴率を獲得した。 } 東洋放送のスタッフ陣および出演俳優は、主として演劇界とソウルテレビからスカウトされた。演劇界からは演出家の許圭(ホ・ギュ)、崔相鉉(チェ・サンヒョン)、表在淳(ピョ・ジェスン)、俳優の李順載/純才(イ・スンジェ)、羅玉珠(ナ・オクチュ)、金東勲(キム・ドンフン)らが参加、一方ソウルテレビからは演出家の黄垠軫、李基夏、金在衡ら、および俳優の金淳哲(キム・スンチョル)、金聲玉(キム・ソンオク)、呉鉉京(オ・ヒョンギョン)らが参加した。俳優陣の何人かは主役級であり、熟練した演技が要求されるメロドラマにおいても演技力を発揮し、多くの視聴者を獲得するのに貢献した。
ソウルテレビ/中央放送局(KBS)
[編集]ソウルテレビの「実話劇場」は、1964年11月に始まったドラマ放送枠である。金東賢作、キム・サンテ演出の『アバイよさらば』(아바이 잘 가오、1964年11月15日放送)が第1作目の作品であり、反共実話を原作とする単発ドラマが放送された。翌1965年からは週間連続ドラマに、1974年放送の『労働党』から連続ドラマに転換した。
「実話劇場」にて放送された作品群の特色のひとつは、映画界の主演級俳優たちが出演していた事である。脚本は辛奉承、金剛潤(キム・ガンユン)、そして金東賢の3人が交代で執筆した。放送された作品は、1965年『死火山』(사화산)、1966年『スターベリー・キム』(스타베리 김)、1967年『トルムジ』(돌무지)、『第三地帯』(제3지대/第三地帶)、1968年『250条』(250조)、『影』(그림자)1969年『指令3号』(지령 3호)、1970年『悪魔の手』(악마의 손)、そして1974年『労働党』等が成功作である。1977年には、ヨーロッパでのロケーションを行った『欧州特急』(유럽특급)が放送された。
1966年3月、同局でVTR機材が導入され、これまで生放送、そして週に4回が限度であったドラマの放送回数が増加した。開局当初から最新の機器を揃え、連続ドラマを放送していたTBCにこれまで水をあけられていたが、VTR機材の導入によりそのハンディキャップを克服したのである。
文化放送 (MBC)
[編集]1969年8月に開局したMBCはシナリオの公募を行い、原稿料80万ウォン部門で李載雨(イ・ジェウ)脚本『逆風』(역풍、1969年8月放送開始)と、200万ウォン部門で劉賢鐘(ユ・ヒョンジョン)脚本『林巨正』(임꺽정/林巨正、1972年10月放送開始)が当選した。開局後、『いつか一度くらい』(언젠가 한번쯤은、1969年8月放送開始)、『太平天下』(태평천하、1969年10月放送開始)を日日ドラマ枠にて放送したが、視聴率では他局の番組の後塵を拝する状態が続き、「MBCのドラマは睡眠薬(のように、見ているうちに眠くなる)」という笑い話が作られる程であった[8]。
1969年11月17日、MBCは金東賢脚本、表在淳演出『カエル夫』(개구리 남편)の放送を開始した。不倫を題材とした韓国初のこの作品は他局の作品に劣らぬほど視聴者の注目を集めた[8]。しかし作品中の過激な表現が放送倫理委員会で問題になり、脚本家の金東賢が謹慎処分を受けた[9]他、大統領府からも「社会全体に悪影響を及ぼす」との指摘を受けて打ち切りの形で終了した[10]。
開花期: 1970 - 1972年
[編集]国営の中央放送局、民営のTBCおよびMBCの3局が、それぞれ幅広い視聴者層の獲得と視聴率の維持のために競争を繰り広げた時期、韓国テレビドラマ界には次々と作品が誕生した。
この時期の特徴のひとつは、大河ドラマの登場およびその手法である。1970年3月にTBCで放送開始した任熙宰・李哲鄕脚本[脚注 3]、高聖源(コ・ソンウォン)演出の『お嬢様』(아씨)は、当初全100話予定の日日ドラマであった。旧韓末(李氏朝鮮末期から大韓帝国期に至る期間)から朝鮮戦争中の第3次ソウル会戦期までの期間を、波乱と苦難の中で耐えて生き抜いた女主人公の姿を描いたこの作品は、高視聴率[脚注 4]を記録しながら延長に延長を重ね、翌1971年1月、全253話にて放送終了した。1972年4月にKBSで放送された『旅路』(여로)は全211話の記録を打ち立て[12]、韓国国内に日日ドラマブームを巻き起こした。
大河ドラマ的なスタイルの復古調メロドラマは、他にも金来成(キム・ネソン)原作、李哲鄕脚色のTBC『青春劇場』(청춘극장)、史有善(サ・ユソン)脚本のTBC『兄弟』(형제)をはじめ、KBSの『壬申倭乱』(임진왜란)やTBCの『思母曲』(사모곡)等が制作・放送されたが、視聴者の関心を引き付け、高い視聴率を稼ぐ事を意識した作品が多かった。
復古調の作品以外にも多くの日日ドラマが制作・放送された。成功を修めた作品は、趙南史脚本のMBC『情』(정/情、1971年3月放送開始)、金東賢脚本のMBC『父さん』(아버지、1971年3月放送開始)、李瑞求脚本の『張禧嬪』(장희빈、1971年7月放送開始)、車凡錫(チャ・ボムソク)脚本のMBC『水車』(물레방아、1970年9月放送開始)、金志軒(キム・ジホン)脚本のMBC『道』(길、1970年11月放送開始)、安寿吉(アン・スギル)原作、金永壽脚色のKBS『北間島』(북간도、1971年10月放送開始)、兪湖脚本のTBC『鹿姫』(사슴아가씨、1972年3月放送開始)等がある。
この時期におけるもうひとつの顕著な特徴はシットコムが安定して高い視聴率を得ていた事である。1970年8月放送開始のMBC『夫婦万歳』(부부만세)は白承漢(ペク・スンハン)、金鍾達(キム・ジョンダル)、崔湖永(チェ・ホヨン)、梁仁子(ヤン・インジャ)、朴西林(パク・ソリム)らが共同で脚本を執筆したが[13]、放送回数700話を超え、多くの視聴者を引き付けながら1976年4月まで放送された。1971年12月放送開始の李聖載・李哲鄕脚本のTBC『如宝 鄭先達』(여보 정선달)は798話が制作され、1974年に放送終了した[14]。この作品は時代劇をベースに風刺や皮肉を盛り込み、『古典的諧謔劇』という評価を後に受けている[14]。1972年6月放送開始の『1統2班3番地』(1통 2반 3번지、尹赫民・李喜雨(イ・ギウ)脚本)も、当時の人気俳優であった裵三龍(ペ・サムニョン)や具鳳書(ク・ボンソ)らが出演[15]、1973年4月まで放送されている。
時代劇では、郭一路(クァク・イロ)脚本のKBS『開花百景』(개화백경、1971年7月放送開始)や、古典文学のドラマ化作品の連作であるKBS『古典シリーズ』(고전 시리즈)も、公器であるテレビ放送の使命を引き立てた。『古典シリーズ』は、1971年10月放送開始の『春香伝』(춘향전)に始まり、『沈清伝』(심청전)、『興夫伝』(흥부전)、『許生伝』(허생전)と続き第5作目の『恨中録』(한중록、1972年3月放送開始)で完結したが、最終作の『恨中録』は好評を博して8月まで放送された。
その他、金鐘達脚本のMBC『ソウルの空の下』(서울의 하늘밑、1970年5月放送開始)、尹赫民脚本の『コッドンネ 新しい町』(꽃동네 새동네、1970年12月放送開始)、李南燮脚本のKBS『息子を産んで娘を産んで』(아들낳고 딸낳고、1971年10月放送開始)、白承瓉(ペク・スンチャン)脚本の『ケチパパ』(구두쇠 아빠)、キム・ジョンファン・尹大星(ユン・デソン)、申明淳(シン・ミョンスン)、李相泫(イ・サンヒョン)、朴賛星(パク・チャンソン)らが脚本を担当し、許圭、朴鐵、柳興烈、李年憲らが演出を担当した『捜査班長』(수사반장、1971年3月6日放送開始)なども好評を博した。『コッドンネ 新しい町』はAFKN-TV(現AFN Korea)でも放送されている。
この時期、テレビドラマにて活動した演技者には、金喜俊(キム・ヒジュン)、張旭濟(チャン・ウクチェ)、崔佛岩(チェ・ブラム)、盧宙鉉(ノ・ジュヒョン)、申久(シン・グ)、田雲(チョン・ウン)、尹汝貞(ユン・ヨジョン)、呉知明(オ・ジミョン)、崔敬子(チェ・ギョンジャ)、ユ・ハナ、太賢實(テ・ヒョンシル)、鴻世美(ホン・セミ)などがあった。
タレントスカウトを巡るテレビ局間のトラブルが拡がったのもこの時期であった。そのためTBCは1972年1月、テレビ局で初めて、所属タレントの専属契約制度を採用した。この他「テレビ界で初めて」の出来事は、1970年1月のロケーション撮影(金東賢脚本のMBC『暗殺』(암살)収録中にて)、1971年8月の同時録音(韓雲史脚本のKBS『夢の国』(꿈나라)収録中にて)などである。
一方で、作品の芸術性よりも興業性を重視する風潮の故に、無難なメロドラマばかりが制作されるようになった。脚本家の道徳感覚が疑われるような不健全な内容の作品が書かれ、演出家も「稚拙な駄作」を躊躇することなくブラウン管上で演出していったのである。
変革期: 1970年代
[編集]1973年
[編集]1973年7月、文化広報部は各放送局に対し、日日ドラマの放送回数を削減するよう要請した[16]。これを受けて各局は回数の調整に着手したものの明らかな変化が見られることはなかった。
この年に制作・放送されたドラマには以下の作品等がある:
- 『波涛』(파도、KBS放送、郭一路脚本、金連鎮演出、1973年1月放送開始)
- 『世宗大王』(세종대왕、同、李恩成脚本、李正勳演出、1973年2月放送開始)
- 『実話劇場』より「九龍半島」(구룡반도、同、金東賢脚本、朴在旼演出、1972年放送開始)
- 『申師任堂』(신사임당、同、張德祚脚本、李海旭演出、1973年5月放送開始)
- 『タルレ』(달래、TBC放送、金茲林脚本、羅英世演出、1973年1月放送開始)
- 『二人の旅人』(두 나그네、同、金起八脚本、李潤煕演出、1973年2月放送開始)
- 『恨百年』(한백년、MBC放送、李哲郷脚本、柳興烈演出、1973年2月放送開始)
- 『閔妃』(민비、同、表在淳脚本、金英坤演出、1973年4月放送開始)
新年早々に放送を開始した『波涛』は、数年前に放送された『旅路』と同様の雰囲気を持つ時代劇であった[17]が、『旅路』と同じく成功を収め、主演女優の李孝春(イ・ヒョチュン)はスターにのし上がった。
1974年
[編集]この年は前年とは一転して長編現代劇が放送される機会が増加した。この年に放送された主なドラマには以下の作品がある:
- 『江南家族』(강남가족、MBC放送、金秀賢脚本、表在淳演出、1974年1月放送開始)
- 『水仙花』(수선화、同、金秀賢脚本、柳興烈演出、1974年6月放送開始)
- 『コンネ』(꽃네、TBC放送、金茲林脚本、黄垠軫演出、1974年4月放送開始)
- 『尹知敬』(、同、辛奉承脚本、金在衡演出、1974年5月放送開始)
1972年に『虹』(무지개)でテレビドラマ脚本家としてデビュー、同年全411話もの大長編となった『継母』を手掛けた金秀賢は、この年『水仙花』で視聴者の注目を集めた[18]。同作品の出演者のうち、金慈玉(キム・ジャオク)、玄錫(ヒョン・ソク)、李正吉(イ・ジョンギル)らが出演をきっかけにスターとなり[19][20][21]、うち金慈玉は第10回韓国韓国演劇映画テレビ芸術大賞で最優秀演技賞(女優)と愛読者人気賞を、玄錫は新人賞を受賞した[22]。
経済発展の様子を描いた作品もある。1967-72年に制作された映画『八道江山』シリーズのテレビドラマ化作品であるKBS『花咲く八道江山』(꽃피는 팔도강산/꽃피는 八道江山、尹赫民脚本、金秀東演出、1974年4月放送開始)は、金喜甲(キム・ヒガプ)、黄貞順(ファン・ジョンスン)扮する老夫婦が各地に住む子どもたち一家を訪ねる話である。KBSはロケーションに多くのスタッフを動員し、ソウル市内から地方に至るまで各地を巡り撮影を行った。近代化促進をうたう政府のプロパガンダ的作品であるという批判[23]がありながら高視聴率を挙げ、400話まで放送された[24]。
1975年
[編集]日日ドラマへの批判はこの年も衰える事はなく、『安寧』(안녕、MBC放送)、『パパ』(아빠、TBC放送)、『葦』(갈대、MBC放送)の3作品が「内容が退廃的である」との指摘を受けて打ち切りとなった[25]。しかしテレビ局は多くの作品を意欲的に世に送り出した。1971年に放送を開始していた『捜査班長』(MBC放送)は、第11回韓国演劇映画テレビ芸術大賞テレビ番組部門で作品賞を受賞[26]、同年9月に放送を開始した『執念』(집념、MBC放送)は翌1976年まで、全143話放送され、第12回の同賞を受賞した[27]。『執念』は1976年に映画化されてこちらも好評を博した他、脚本家の李恩成によって小説化され、こちらも後年ドラマ化された(1991年、1999年)。1975年7月に放送を開始した『花嫁日記』(신부일기)は、同年度大韓民国放送賞の大統領賞(最優秀作品賞)を受賞した[28]。
TBCはこの年、ミステリータッチの時代劇『翡翠の笛』(옥피리、辛奉承脚本、金在衡演出)、朝鮮第25代国王哲宗の波乱の生涯を描いた『王様の初恋』(임금님의 첫사랑、辛奉承脚本、金在衡演出)の他、『刑事』(형사、尹大星脚本)、『ミファ』(미화)の4作品を制作・放送した。
KBSはこの年6.25特集劇『どの韓国人』(어느 한국인、李相泫脚本、金洪鍾演出)、『戦友』(李相泫・金東賢等脚本、張亨一、チュ・デソン等演出) などの作品を制作・放送した。『どの韓国人』は大韓民国放送賞の国務総理大臣賞(優秀作品賞)を授賞している[28]。『戦友』は屋外でのロケーション撮影を多用することで作品に臨場感を持たせ、若い視聴者から好評価を得た。
1976-77年
[編集]テレビ局間の、特に日日ドラマを中心とする視聴率獲得競争はこの年も変わらず続いたが、KBSはこの時期よりこの風潮から脱却し、
1976년도에도 TV 각국간의 시청률 경쟁은 일일 및 주간 연속 드라마를 둘러싸고 치열하게 지속되었는데, KBS는 점차로 이러한 경쟁대열에서 빠져나가려는 경향을 보였다.
76년도의 주요 드라마는 TBC의 경우 《별당 아씨》(신봉승 극본, 김재형 연출)와 《맏며느리》, MBC의 《여고동창생》(김수현 극본, 이효영 연출), 《엄마의 얼굴》, 《들장미》, KBS의 《아버지와 딸》, 《전천후 사나이》, 《타향》 등이 있다.
특히 특집극 내지 단막극이 KBS의 경우에 두드러졌는데 6·25 특집극으로 《어느 한국인》(이상현 극본, 김홍종 연출)은 야심작으로 호평을 받았으며, 이 해 방송대상 국무총리상을 수상하였다.
1977년에 들어서자 각국은 드라마의 수준향상과 방향전환을 모색하는 노력을 보이기 시작했다.
드라마의 대형화에 관심을 기울이고 또 단막극의 중요성을 인식, 일일연속극에 의한 이미지 악화를 축소시키려 하였다.
이 해의 주요 일일연속극은 TBC의 《외동딸》, MBC의 《당신》 등이 있다.
한편 KBS는 일일연속극 1편을 줄이고 새로운 형식의 5부작 시스템을 도입, 연속극을 주 단위로 묶었다. 5부작은 평균적으로 호평을 받았는데, 특히 좋았던 작품으로 8·15 특집극 《나루터 3대》(한운사 극본, 임학송 연출)는 기록에 남겨도 좋을 것이다.
이 해의 작품으로 기록에 남길 만한 것은 대부분 단막극에서 나왔다.
TBC의 프로에서 《부부》 《등대지기》(나연숙 극본, 곽영범 연출), MBC의 《제3교실》, KBS의 일요사극 《맥(脈)》과 의 작품 등이 그들이다.
특히 KBS의 5부작 형식은 사회적 비판의 대상이 되고 있는 일일연속극을 지양하기 위한 시도로서 좋게 평가되고 있으며, 현재의 TV드라마 추세는 대형화·단막극화 등으로 종합할 수 있다.
注釈
[編集]- ^ 文化評論家の姜明錫は、背景事情として日韓併合時代や朝鮮戦争の存在を指摘する[1]。しかし前者に関しては、東国大学校教授のキム・ジョンウォンによる、1919年10月に公開された『義理の仇討ち』という活動写真連鎖劇(映画を大道具の代わりに背景とした演劇)に大勢の観客が押し寄せて大盛況となった事[2]や、初めて日本資本が関わらず当時の朝鮮の資本・人材だけで製作された映画『薔花紅蓮伝』(1924)の公開に連日多くの観客がやってきた事[3]への指摘も一方で存在する。
- ^ 2期生は芸能・音楽などジャンル別にタレントを選抜した。
- ^ 放送中任熙宰が病気のため降板(その後1971年3月に死去)し、李哲鄕が後を継いだ。
- ^ 総合編成チャンネルのひとつJTBC公式サイト中では70.3%であったと紹介している[11]。
文献
[編集]- ^ 姜明錫「韓国人の暮らしとテレビ・ドラマ」『Koreana』第14巻第4号、韓国国際交流財団、ソウル、2007年、p.10、ISSN 12254592。
- ^ キム・ジョンウォン「『義理の仇討ち』と連鎖劇の盛り上がり」『韓国映画史 開化期から開花期まで』(キム・ミヒョン責任編集、根本理恵訳)東京都、キネマ旬報社 pp.44-46 ISBN 978-4-87376-332-3
- ^ キム・ジョンウォン「『薔花紅蓮伝』と製作者パク・スンピル」前掲書 pp.51-52
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関連項目
[編集]外部リンク
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