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wikitableだとやはりモバイルで見るとズレる。
中国
名称 | 場所 | 説明 |
趙雲廟 |
河北省 正定県 |
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子龍広場 |
〃 |
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常山公園 | 〃 |
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子龍桟橋 | 〃 |
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臨城趙雲墓 | 同省 邢台市 |
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中国馬鎮 | 同省 承徳市 |
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後趙雲堡村 | 同省 邯鄲市 |
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頤和園 |
北京市 | |
長坂坡公園 | 当陽市 |
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荊州古城 歴史文化旅遊区 |
湖北省 荊州市 |
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南陽趙雲墓 | 湖南省 南陽市 |
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関口趙侯祠 | 桂陽県 |
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白帝城 |
重慶市 奉節県 |
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大邑趙雲墓 | 四川省 大邑県 |
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静恵山公園 | 〃 |
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成都武侯祠 |
〃 |
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和平街 | 〃 |
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富楽山公園 |
同省 綿陽市 |
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台湾
名称 | 場所 | 説明 |
佳里子龍廟 永昌宮 |
台南市 佳里区 |
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日本
名称 | 場所 | 説明 |
八坂神社(益子) | 栃木県 益子町 |
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宝登山神社 |
埼玉県 長瀞町 |
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KOBE 鉄人三国志 ギャラリー |
神戸市 長田区 |
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マレーシア
名称 | 場所 | 説明 |
北海船仔頭天福宮 | Bagan Ajam |
|
麻坡鳳威宮 | Muar Johor |
公孫瓚配下時代
- 主騎:騎兵隊長を差す。 当時、劉備が従えていた騎兵『幽州烏丸雑胡騎』を任されていたと考えられる[14]。「田楷の救援に向かうため、劉備の主騎として随行した」[15]と正史に書かれるが、田楷の救援は①191年(青洲)[16]と②193年(徐州)[17]の2回あり、正史の記述ではどちらのことを差しているのかは不明で、『趙雲別伝』では公孫瓚に仕えた時期から①を差していると考えられ、その後「兄の喪に服すために劉備の下を去った」[18]と書かれるが、これがいつの時期の出来事なのかは書かれておらず、そのため正しい在任期間は不明である[注 1]。
劉備配下時代
- 牙門将軍:劉備が新設して置いた官[19]。 208年長坂の戦いで評価され任命される[20]。定員1名。蜀では正史において同じ人物でも『牙門将』『牙門将軍』と表記揺れが見られるが、蜀の『牙門将』は『牙門将軍』のことを差すと考えられる[21][22]。『趙雲別伝』ではのちに偏将軍になっており、そのため正しい在任期間は不明。牙門将軍を参照。
- 翊軍将軍:劉備が新設して置いた官[23]。定員1名。 「翊」の字には「とびこえる」「助ける」「補佐する」[24]などの意味があるが、どのような将軍職だったのかは不明。趙雲と霍弋の二人だけが就任している。翊軍将軍になった時期が正史(214年)と『華陽国志』(219年)で違いがみられるため、正しい在任期間は不明。翊軍将軍を参照。
趙雲別伝記載
- 桂陽太守:趙範から交代。太守を参照。
- 留営司馬:劉備が新設して置いた官[26]。 荊州に留め置かれた時[27]に任命される[28]。 当時劉備はまだ開府をしていなかったため、「留府」ではなく「留営」になったと考えられる。周思源は「「衛戍(駐屯地)の司令官」兼「公安局長」のようなもので、本拠地(公安(県))を安定させる役職であり、公安の管理と宮中(孫夫人)のことも任せられた重要な役職」と解説している[29]。
- 江州督:対呉戦争時に任命される。定員1名。都督を参照。
劉禅配下時代
- 中護軍:禁軍と武官の人事選抜を司り諸将を統率[30][31]。中護軍を参照。
- 征南将軍:四征将軍のひとつ。方面軍司令官。定員は1名。四征将軍を参照。
- 鎮東将軍:四鎮将軍のひとつ。方面軍司令官。定員は1名。就任時期不明。鎮東将軍を参照。
- 鎮軍将軍:劉備が新設して置いた官[32]。定員は1名。 第一次北伐後に鎮東将軍から降格後に就任。鎮軍将軍を参照。
出典、参考書籍の整理
早めにしたい。
個人の評価の節
翻訳が一部怪しいので放置中
- 朱軾:趙雲・関羽・張飛・馬超・黃忠、強者を併称して五虎將。陳寿は、趙雲の剛強で勇猛なところを灌嬰と滕公にたとえたが、これは趙雲のすべてを言い尽くしたものではない。趙雲は知略が深く、度量が広く、公孫瓚の反乱の際、使者とのやり取りでその才を見せた。劉備との関係は、鄧禹が光武帝に仕えたように、先見の明があった。当陽での護衛は、麦飯豆粥を煮るような手間を惜しまないほど徹底していたし、漢中の戦では、戦況を転換させるような巧みな戦略を立てた。夏侯蘭を推薦し、自分と親しくなることを避け、岑彭のように韓歆を有用な人物と見抜き、馬武のように旧部下を率いようとしなかった。趙範からの結婚の申し出や田園の贈与などを固く拒み、憂国の念を抱き公務に励む様子は、呉漢が妻が多くの田地を買ったことを怒ったという故事に似ている。要するに、趙雲の計略や戦略は、特に出兵を諫める言論に際立っていた。その見解は、諸葛亮の平生の用兵と大筋において似ており、もし趙雲が生きていれば、大将軍の地位は姜維ではなく趙雲に与えられただろう[33]。
- 楊伯嵒:「一身すべて胆(趙子龍は曹軍を撃って多くの死者が出た。先主が戦いの場所を見に来て、子龍に言った。)」[34]
長すぎるから省略したやつの全文
- 魏裔介:「論ずるに曰く、昭烈(劉備)は涿鹿の地で起ち上がり、一旅の兵を率いて、曹孟徳(曹操)、袁本初(袁紹)、劉景升(劉表)、呂奉先(呂布)の間で苦難を乗り越え、ついに天下を三分する基業を築いた。西南の文武の佐命は、諸葛亮、関羽、張飛を以て先とするが、しかしながら、(「先」の訳し先が多分間違ってる気がするからもう一度調べて考える)私は趙雲を見るに、大節が磊々として、ただの名将というだけでなく、誠に古の大臣と呼ぶにふさわしい。長坂の戦いにおいて、趙雲がいなければ、劉禅(阿斗)と母子は危うかったであろう。北山の戦において、趙雲がいなければ、勝利を得られなかったであろう。漢中において、昭烈(劉備)は趙雲を称えて、「子龍の一身はすべて胆である」と言った。私が思うに、胆とは忠義が集まったものである。忠義が性から発せなければ、どうしてこのような胆を持つことができようか。また、成都に田宅を構えようとしなかったのは、霍去病の言葉を引いて、「匈奴を滅ぼさぬうちに、どうして家を構えることができましょう。今の国賊は匈奴ばかりではない。天下が定まるまで安んじることはできない。天下が定まれば、それぞれ故郷に戻って耕すべきです」と言ったことは、まさにその通りである。また、先主(劉備)が東征しようとしたときに諫め、「国賊は曹操であって孫権ではない。関中を図り、河渭の上流から凶賊を討つべきである」と言った。その識見は特に素晴らしい。惜しいことに、先主は諫言を聞き入れず、独断で進んだために敗れ、王業が中絶してしまったことは、まことに嘆かわしい。趙雲の言葉を採用して、孫権を捨てて関中、秦隴(長安と涼州)を奪取していれば、漢室は興隆したであろう。(投稿済み部分)先主は人を見る目はあったが、用兵の識見は時勢や権謀術数に暗かったため、自ら軍を率いるとしばしば敗れた。しかし趙雲のような優れた武将を、微賤の身から見出して終生信頼し合ったことは、先主の大きな功績である。史書に記された趙雲の功績は、古今に輝き、陳寿は趙雲を灌嬰や滕公に匹敵する人物と評した。」[35]
何焯みたいにイカした批判がもっとあると思ったら(今の所)なかった。易さんはまだ生温い。
大邑の墓
うろ覚え:山の名前はたしか銀屏が正しい。錦屏は羅貫中の創作(要出典元確認)
伝統芸術の節
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吉貝武聖殿のやつ
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交趾陶趙雲像
民間伝承の節
- 臨城の民間伝承載せなかった分の話が壹讀に一部のあらすじが載っているから使うか検討。
- 白馬(加筆)←飲馬桶と龍退治追加程度に留める。
- 白馬に関するやついっぱいあるからこれはもう最後にしよう。
京劇・演義の節
- 平話も調べて追加したり削ったりする。(馬商人・黄色い太った馬)
- ビジュアルについては二松学HPに推論が載っているのは確認済み。
古跡・施設節
優先度:低
- 趙雲絡みはちょっとしか存在しないって聴いていたけど軽はずみで調べたらめちゃくちゃあるやないかい。
- うろ覚え:後趙雲堡村は駐屯以外に別の説(演義に感銘を受けて肖った)を住人のおじいさんが語っている(要出典元確認)
追加・使うか検討中
史書とか地方紙とか
- 『名賢氏族言行類稿』 「蜀志」 ←賢人・名士などの言動を姓名順に並べた本(漢中の一身是胆)
- 『天中記』 ← 医学の本みたいなやつ。胆について(漢中の一身是胆)
- 『御定淵鑑類函』 巻二百十五 ←辞典みたいなもの。騎兵について(主騎)
- 『大清一統志』 巻十八 ←趙雲廟修繕記録。ほかに武神伝説に趙雲廟の一番古い話あり。
- 『資治通鑑』 ←なんかいろいろ載ってる
論文
- 矢野主税『望の意義について』 ←郡望のところに使うかどうかで見送ったやつ
- 橋本典子『天中記に見える医経の引用について』 ←天中記の説明
研究
- 子龍文化研究会とか
- ^ 石川 2020, p. 56.
- ^ 『正定県子龍広場』 Wayback Machine.
“正定县子龙广场”. 石家荘市園林局. 2024年6月21日閲覧。 - ^ 『中国馬鎮』 Wayback Machine.
元サイト:“中国马镇旅游度假区”. www.chinahorsetown.com. 2024年7月13日閲覧。 - ^ 『後趙雲堡村』 Wayback Machine.
元サイト:“河北省邯郸市肥乡区辛安镇后赵云堡村”. 博雅地名网. 2010年5月1日閲覧。 - ^ 『子龍村』 Wayback Machine.
元サイト:“子龙村_村名片_湖北省宜昌市当阳市玉泉街道子龙村”. tye3.com. 2024年7月9日閲覧。 - ^ 『関口趙侯祠』 Wayback Machine.
元サイト:“关口赵侯祠”. 博雅地名网. 2024年9月1日閲覧。 - ^ 葉 2023, pp. 305–389.
- ^ “北海船仔頭天福宫”. facebook. 2022年7月3日閲覧。
- ^ “新南向宗教交流 台湾趙子龍文化協会訪大馬収穫豊”. 台湾好新聞 TaiwanHot.net. 2019年11月1日閲覧。
- ^ a b c 葉 2023, p. 417.
- ^ [『清潔海濱路原名為子龍街 黄俊松盼議員争取重新正名』] Wayback Machine.
元サイト:“清潔海濱路原名為子龍街 黃俊松盼議員爭取重新正名”. 光明日報. 2023年10月1日閲覧。 - ^ [『柔佛州麻坡県鳯威宮』] Wayback Machine.
元サイト:“柔佛州麻坡县凤威宫”. 柔佛州麻坡县凤威宫. 2020年2月2日閲覧。 - ^ 『新南向宗教交流 台湾趙子龍文化協会訪大馬収穫豊』 Wayback Machine.
元サイト:“麻坡玉封顺平宫”. facebook. 2017年6月13日閲覧。 - ^ 趙春陽『完美武将:趙雲』江蘇鳳凰文芸出版社、2019年。p.17。
- ^ 『三国志』巻36 趙雲伝, "瓚遣先主為田楷拒袁紹,雲遂隨從,為先主主騎。"
- ^ 『三国志』巻32 先主伝, "為賊所破,往奔中郎將公孫瓚,瓚表為別部司馬,使與青州刺史田楷以拒冀州牧袁紹。"
- ^ 『三国志』巻32 先主伝, "袁紹攻公孫瓚,先主與田楷東屯齊。曹公征徐州,徐州牧陶謙遣使告急於田楷,楷與先主俱救之。"
- ^ 引用エラー: 無効な
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タグです。「:82
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ 吉田誠夫『中国職官辞典』日外アソシエーツ株式会社、2020年。p.46。
- ^ 『三国志』巻36 趙雲伝, "及先主為曹公所追於當陽長阪,棄妻子南走,雲身抱弱子,即後主也,保護甘夫人,即後主母也,皆得免難。遷為牙門将軍。"
- ^ 沈伯俊、譚良嘯『三国志演義大辞典(日本語版)』潮出版社、1996年。p.32。
- ^ 小南一郎訳、陳寿、裴松之注『正史三国志 8 呉書III』筑摩書房、1993年。p.289。
- ^ 吉田 2020, p. 626.
- ^ “「翊」”. 漢字辞典オンライン. 2024年9月16日閲覧。
- ^ 中国の思想刊行委員会『全人名事典』徳間書店、1994年。p.428。
- ^ 吉田 2020, p. 16.
- ^ 『三国志』巻36 趙雲伝, "先主入蜀,雲留荊州。"
- ^ 引用エラー: 無効な
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タグです。「:92
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ 周思源『正説三国人物』03 趙雲、CCTV10『百家講壇』
- ^ 吉田 2020, p. 441.
- ^
- ^ 吉田 2020, p. 464.
- ^ 『史伝三編』 巻十七 「名臣伝・九・漢」, "論曰:雲与闗張及馬超、黄忠,号五虎将陳寿以其強,摰壮猛比於灌滕,此未足以尽趙雲也。雲智深而量雅,其応対公孫有冦,恂答使者之詞令焉,其結託昭烈,有鄧禹游京師之先見焉。当陽之保●,過於麦飯豆粥之勤,漢中之権,畧捷於転車張幟之巧,薦夏侯蘭而不自近,岑彭之言,韓歆可用馬武之不将旧部曲也,却趙範之婚辞、田園之賜祭,遵之憂国奉公,呉漢之怒妻子多買田宅也,要其訏謨碩画,尤在諌伐。呉数言,葢与武侯平生用兵,大指相類,使之尚在,大将軍之任,不以属文偉伯約矣。" ●=草冠+言+隻
- ^ 『六帖補』 巻十四 「武勇」, "一身都是膽〈趙子龍射曹瞞軍、死者甚衆、引去先主、明日自來視戰處、曰子龍〉"
- ^ 『兼済堂文集』 巻十四 「趙子龍論」 , "論曰、昭烈崛起涿鹿、提一旅之師、崎嶇於、曹孟徳,袁本初,劉景升,呂奉先之間、卒能三分鼎足剏業、西南文武佐命自以諸葛,闗張為、先然吾観趙順平。大節磊磊、非特名将、誠可謂古之大臣也。 当陽長阪之役、非順平則阿斗母子不免於厄。 北山之戦、非順平則不能有。 漢中故昭烈称之、曰、子竜一身都是胆也。余謂胆者忠義之聚也。非忠義発於性生烏有如是之胆哉。而其不欲居成都田宅、引霍去病之言曰、「匈奴未滅、何以家為。今国賊非但匈奴、未可求安湏天下、都定各反桑梓帰耕故土」乃其宜耳。 又其諌先主東伐、曰、「国賊是曹操非孫権也。謂宜早図闗中因河渭上流以討兇逆」其識尤偉惜先主違諌自用以致敗、衂王業中頽良可嘆也。 倘用順平之言舎、孫権而取闗中,秦隴、響応漢室可興矣。 蓋先主生平頗有知人之明而用兵之識暗於、時勢権謀故其自将也。往往致敗而順平之将、畧亦未竟、其所長然、先主能知、順平於微賤、以是終身感契、得自奮発史冊功績、焜燿古今、陳寿以為灌滕之徒果其儔乎。"
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