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利用者:Nardog/Antandrus氏によるウィキペディアにおける行動に関する考察

推奨される対処法を交えた、ウィキペディアにおける行動に関するいくつかの考察。

  1. 誰かが検閲の被害を大声で訴えるとき、その人物はよからぬことをしているとみてほぼ間違いない。
  2. 人の人生において情熱が途絶えることは珍しくないにもかかわらず、引退する人の多くはその原因としてサイトやそこで活動する人々を責める。刺激的なものとはいつかそうでなくなるものだ。これはべつに悲観的でも悲劇的でもない。誰しも新たな刺激が必要だ。人生において変わらないものなどなく、ウィキペディアでの活動も例外ではない。「飛び立つ悦びに口づけを送る者は 永遠の夜明けに生きる」[1]。ここでのひとときを楽しみなさい。そして、ここを去った後にすることも。
  3. 問題ある編集者は荒らしよりもはるかにコミュニティの時間を浪費する。ときどきよい編集も行うが絶えず口論し、脅し、侮辱し、不満を漏らし、やがて追放される者は、百科事典の執筆に費やせた何百という時間を他の利用者から奪っていく。これは論争が人を惹きつけることに一部起因する。問題ある編集者に効率よく対処するのはサイトをよりよくするうえで非常に効果的であると同時に、非常に難しい。
  4. 間違ったと感じることに対する報復欲を欠かさない人々は、できるだけ早く、そしてできるだけ波風を立てずにサイトから取り除かれなければならない。
  5. 2005年後半頃からウィキペディアン、とりわけ新規参加者において、記事への投稿よりも利用者ページ、利用者空間用ウィジェット、署名などのデザインに凝る傾向が見られる。これはおそらくよい傾向ではないが、変わることもないだろう。最も優秀な記事投稿者はしばしばこれらをおろそかにし、その逆も然りである。
  6. 最初の編集が利用者ページの荒らしやノートでの激しい個人攻撃である登録利用者は、速やかに無言で無期限ブロックすべきである。
  7. ある利用者の最初と2番目の編集が自分の利用者ページとノートの新規作成である場合、3番目の編集は荒らしか個人攻撃になるだろう。こうしたアカウントを擁護する人が出てくるのは加担でも悪意でもなく、経験不足である。
  8. 匿名IPやソックパペットを使って利用者ページを荒らしたり激しい個人攻撃を残したりするのはとりわけ忌むべき臆病さである。誰かに問題があるなら公の場で解決を図ればいい。
  9. 単一目的編集者中立的な観点を維持する関心や能力があることはほぼないといってよい。さらに、探せば通例利益相反英語版が出てくるものだ。
  10. ある観点が極端で百科事典にそぐわないものであればあるほど、ソックパペットによる支持は集まりやすい。
  11. ある編集者が本当に中立的な観点で執筆しているのであれば、その編集者の観点が何なのか編集からは判断不可能でなくてはならない。これは政治関連の分野で最も明白だが、どこでも通用する[2]
  12. ウィキペディアは百科事典である。ウィキペディアンの本分はそれを執筆することである。それ以外のことはすべて二の次だ。
  13. ウィキペディアンの本分が百科事典を執筆することである以上、主たる活動が執筆の妨害である利用者は誰であれできるだけ痛みを伴わない方法でサイトから取り除かれなければならない。最良の方法は、他所にいた方が幸せだと説き伏せ、幸運を祈ること。最悪の方法は、袋叩きにして怒らせること。だがいかなる方法であれ取り除かれなければならない。
  14. 虚栄心の種類をすべて挙げるのは不可能だ(ラ・ロシュフコー、No. 506)。
  15. ウィキペディアの最大の敵は虚栄心が傷つけられた者である。それは自分自身に関する記事を編集しようとしてコントロールに失敗したプチ有名人かもしれないし、愛着のある事柄について苦心して書いた記事がコミュニティによって削除された者や、特定の観点を持ち込もうとしてコミュニティに拒絶された者かもしれない。彼らは自分の虚栄心が不満の原因だということにまさにその虚栄心のせいで気づけないので、しばしば検閲、言論の自由、自分に対する共謀などといったより崇高な道徳的概念を自身の運動を正当化するものとして口にする。
  16. 一部の荒らしやPOVプッシャーは時間をおいて対処するのが効果的である。編集させておいて1、2時間後、あるいは翌日差し戻すのがよい。荒らしは飽きっぽく、しばらく反撃するのを控えた方が他所へ行く可能性が高い(明らかな荒らしはただちに差し戻すべきだが)。この戦略は極右サイトや特定の観点を持ち込んで抗争を望む集団に対してとりわけ有効である。
  17. 陰謀集団は確かに存在する。それは百科事典が卑しい人間や戯言を書き込む者から守られなければならないという考えの下に集結した編集者の中核集団である。
  18. 誰かが自分の利用者ページにコミュニティやその一部を非難する文章を書いたとき、その人物の『ウィキ悲劇』第5章は始まっている。それはその人物がサイトから立ち去るか排除される場面で終わる。
  19. 管理者伝言板、コメント依頼、裁定依頼、また時として管理者立候補は、高速道路の事故現場の野次馬のようなものである。誰もが事故を目に焼きつけようと首を伸ばし、上下線の流れを妨げる。事故が起こるたび百科事典への投稿は滞る。
  20. あまり気づかれないが、全体的に論争が増えた一因は、ほとんどの重要な事柄の記事がすでに書かれていることにある。重要なトピックについて一から記事を書くというような「刺激的な」作業はあまり残されておらず、論争はその代わりに得られる刺激の筆頭だ。初々しい日々は過ぎ去り、本当に大変な作業は人間の交際のように最初の刺激が途絶えた後にやって来るものである。
  21. 知恵のある愚か者ほど厄介な愚か者はない[3]
  22. ウィキキャリアの初頭から管理者になりたいと公言する人はおそらく管理者になるべきではない。管理者になることは新参者が夢見るトロフィーなどではなく、認められたウィキペディアンが携わる責務として接されるべきである。最良の管理者とは選ばれた者であり、3か月の基準値や一定の編集回数を首を長くして待つ者ではない。管理者はトロフィーではなく、それを輝くバッジのようにつけたがる者に注意せよ。
  23. 人類の持つあらゆる美徳と悪徳がウィキペディアにはある。その悪徳や分断や政治に耐えられないからとコミュニティから逃げる者は、人生の別の場面で同じ悪徳や分断や政治に直面するだろう[4]
  24. 昔ながらの百科事典的なトピックの記事への、とりわけ授業時間中の匿名の編集は、大衆文化関連の編集よりも荒らしである可能性がずっと高い。
  25. 荒らしや激しい個人攻撃は金・土曜の夜に急増する。前向きに考えよう。少なくとも彼らは飲酒運転はしていない。
  26. 荒らしに侮辱されたら、それは自分が正しいことをしているという信頼できる指標である[5]
  27. よくある荒らしの一つが、何か、誰か、あるいはどこかが「ゲイだ」というものだ。これはウィキペディアの荒らしの大半を成す思春期男性の一般的かつ不可避な性的不安を反映したもの。にきびと同じぐらい普遍的なものだ。差し戻し無視せよ。
  28. 作成者と同じ名前の新規記事はほぼ必ずCSD A7として即時削除対象である。「利用者空間化」――これらの記事を利用者ページに移動すること――はやや情けのあるアプローチだが、うまくいかないことも多い。
  29. よい人間がサイトを去るのは日常茶飯事である。幸いなのは、よい人間がサイトに新規参加するのも日常茶飯事なこと。悪い人間も現れては消える。こうした往来を気にせずサイトは生き延びていく。
  30. 今の最良の投稿者も最初は粗末な編集を行ったものだ。新規参加者に優しく接しなさい。たとえ何年も同じ間違いを見るのが忍耐を試しても。忍耐は最も過小評価された美徳の一つであり、注意欠陥障害の現代においては最も稀なものの一つでもある。
  31. コミュニティを声高に糾弾する人はほぼ常に自分も同罪でありかつそれが見えていない。
  32. ブロックされたらまず自分に落ち度がある可能性を考えよ。権力の乱用やら検閲やらを叫ぶ前に、ブロックされない行動をとればよいのだ。一度もブロックされずにウィキペディアに多大な貢献をしてきた編集者は何千といる。そんなに難しいことではない。
  33. 最初の編集が差し戻され、差し戻した者の会話ページに長大な罵詈雑言を残す人物が、ウィキペディアの編集者に向いている可能性は著しく低い。いくら難しいとはいえ、エゴは可能な限り持ち込まないでおく必要がある。ここでは誰もが編集できるばかりでなく誰もが実際に編集するので、善意ある編集の差し戻しは日常の一部である。
  34. ある集団、とくに管理者たちがあることについて合意すると、必ず1人または数人その集団を中傷する反対者が出てくる。彼らにとって、同じ考えを持った集団――とりわけ自分に対して影響力があると感じられる集団――はすべて邪悪に見えるのだ。WP:CABALを参照のこと。
  35. ときどきエゴに穴を開けられるのはいいことだ。何年にもわたって何万回という編集を行うと、やがて当初意図あるいは期待した以上のエゴを作業に注入してしまうものだ。これは全くもって自然なことだが、その意図せぬ結果として自分の投稿に所有感を覚えることや、不誠実さ、時として傲慢さをもって即座に反応してしまうことがある。自分の編集が差し戻されて要約に嫌味を書かれた? 気にするな。どこかで陰口を叩かれた? 気にするな。最初のうちは辛いが、こうしたことを受け流せるのは強さと成熟の証でもある。長い目で見れば得しかない。やり返すのは信用を下げるばかりか、自分のいらだちとそれに応じた過剰反応のリスク、そして触発を増幅するだけである。
  36. 怒りを感じると、善意ある編集とそうでないのを見分けるのがとみに難しくなる。怒りが去るのを待ってからその決断を下すべし。善意ある編集を荒らし対策ツールや「rvv」といった要約で差し戻すことの結果は予想しがたく、おそらく味方や信頼を得ることはない。原則として、怒っている時は編集しないこと。自分を取り戻すまで待つべし。
  37. 誰かが「管理者の乱用」を叫ぶとき、それはおそらく正しい――その人物は管理者を乱用している。ブロックが行われたならば、ただちに金切り声で管理者の不正を叫ぶソックパペットの一群が訪れることだろう。
  38. ベテラン投稿者の編集はできるだけ大目に見よ。差し戻さなければいけない場合は、丁寧に説明し、妥協の余地を探ること。単純に先方が間違っている場合はしつこく言わないこと。避けられる対立が原因のベテラン投稿者の流出はこのサイトにとって最大の脅威の一つである。1年以上ここにいて多大な貢献をした人々はこのサイトの最大の財産であり、これはどれだけ強調してもしすぎることはない。
  39. しつこく卑劣で偏執的な荒らしに攻撃されるのは快いものではないが、彼らの一部はきわめて惨めな人々であることを覚えておくとよい。彼らは苦しんでいる。彼らの生活は地獄なのだ。しばしば自分の衝動が抑えられず、正気ではない。初めは反撃したくなるものだが、少しの思いやりが有用だ。控えよ。報復しないことは強さの印であり、事を荒立てない反応は実際人の役に立つかもしれない[6]
  40. 「引退」した編集者――とりわけ疲れから去った者や、サイトに目新しさや楽しみ、見返りがなくなった者――の中には永久にサイトを去る者もいる。だが怒りの中でサイトを離れた者は永久に去ってはいないかもしれない。自分を不当に扱ったと感じる人々に対する「復讐」のために戻ってくるだろう。彼らが帰還時に行う行為はこのサイトにおいてとりわけ卑劣で、サイトの目的に鑑みとりわけ逆行的な類である。この手の行動は管理者立候補やビューロクラット立候補、コメント依頼、裁定依頼、各種伝言板で最もよく見られる。こうした恨みを抱えた編集者は時としてソックパペットとして戻ってくるが、元の名前を使う勇敢な者もいる。だがあらゆる復讐と同様、それは標的以上に自分を傷つける。自らを卑下と悪言に晒すからだ。単なる気晴らしのために他人を苦しめることほど忌むべき行為はないが、残念ながら気晴らしはありがちな動機でもある。
  41. 乾燥した季節になると放火が増えるように、ウィキペディアで論争があるたび対立を深めさせ破滅を楽しむ編集者が出てくる。そのような状況では同じ名前を繰り返し見るかもしれない。上に記したように、すぐには誰も読まない記事の執筆や推敲や出典強化よりも、気の利いた嫌味を投げかけて高揚感やプライドを感じる方が一部の人にとってはずっと容易であり、ずっと気持ちよいのだ。論争にはコカインと同じくらい中毒性があり、ウィキペディアの礼儀の方針は残念ながらそもそも礼儀を守り報復しない強さを持っている人にしか効果がない。臆病さにとって匿名性は勃起不全にとってのバイアグラである。
  42. ウィキペディアンには権威に対する反感を持っている者が多い。その反感こそ多くの人がウィキペディアに惹かれる理由である。管理者になったらこれを肝に銘じるとよい。あなたはちょうど彼らが最も毛嫌いする存在になってしまったかもしれないからだ。そしてどんなによい仕事をしても、彼らはたった一つの過ちを見つけ出してあなたを叩くだろう。彼らの存在はそういうものとして受け入れるのが最善だ。彼らは往々にして最も有能な記事投稿者であり、ウィキペディアが万人に開かれたものである以上この状況は変わらない。
  43. それと関連する点が、ウィキペディアがしばしば「リベラルバイアス」を持っているという告発を受けることだ。ウィキペディアの持つバイアスはすべて自主参加であることに起因する。ここにいる人々は皆オープンコンテントのプロジェクトに貢献したいと思うからここにいるのだ。その特性からここには「リバタリアン左派」が多く集まる。
  44. 荒らしに攻撃されたなら、彼らの悪口のチョイスがあなたよりも彼らの方を多く物語っていて、それが同情の機会であるということを思い出しなさい。彼らは自らが傷つく――そしておそらく過去に傷ついた――言葉を投げかけているのだ。『アラバマ物語』でハーパー・リーがうまく表現している。「誰かにとって悪口である言葉を投げかけられるのは決して侮辱ではない。その人物がいかに惨めかを露にするだけで、傷つくことではない」。唯一注文をつけるなら、傷つきはするかもしれないということ。だが危害はない。
  45. 「妬みは憎しみよりも鎮めにくい」。しつこい嫌がらせの動機の一つとして見落とされがちなのが、加害者が被害者の持つ何かを求めているということだ。人望、情熱、教育、スキル、知識……何か。それは通常被害者に落ち度があると主張することによってごまかされているが、そのごまかしにはしばしば対等に見られたいという思いがうかがえる。嫌がらせがしつこければしつこいほど、加害者は自己に対する不安を無意識のうちに見せている。
  46. 問題を起こしているとみられる怪しいアカウントに適用すべき2問テスト。1) この人物は百科事典の執筆に貢献しているか? 2) そうでなければ、この人物は百科事典の執筆に貢献している人々の邪魔をしているか? 答えがそれぞれ「ノー」「イエス」であれば、ただちにブロックして先に進むべし。
  47. 「しっくいの代わりにうるしを得たり」[7]。地球上ナショナリストのいない場所はない。彼らはデマゴーグのカモであり、征服者の道具であり、ウィキペディアの悪しき疫病である。重要だが見落とされていた人物について長い記事を書こうものなら、ナショナリストが道徳に訴えて名前の綴り、出生地、血筋、エスニシティ、分類など何かしらに文句をつけてくるだろう。「前向きに」捉えよう。彼らのおかげで軍需産業従事者は食べていける。いつか地球が放射性の塵に覆われたとき、彼らの亡霊は宣う。「これもそう悪くない。『奴ら』が報いを受けたのだ」。まともな諸君は、彼らのことは無視して全人類の善き市民となろう。人類の怒れるささくれではなく。
  48. 自分の利用者ページに嫌いな編集者のリストを掲げる人は先が長くない。密接に関連する#18を参照。
  49. ネット上の他の場所に攻撃ページを作成されるのは荒らしからもらえる最高の賛辞である。それはあなたが正しいことをしている証であると同時に、彼らからもらえる屈服の告白に限りなく近いものでもある。ウィキ上での中傷と同様、悪言は言われた者より言った者の方を多く物語る。そうしたページはあなたの功績の記念碑だと思って無視すべし。
  50. コントロールの問題を抱える者がウィキペディアに来るのは、閉所恐怖症患者が炭鉱労働者になるようなものである。にもかかわらず彼らがここに珍しくないことは、怒りや苦しみを与える場所を求めてしまう、慢性的に不満を持つ者のあまりにも人間らしい性の痛ましいリマインダーである。
  51. 万が一荒らしのブロックや排除、問題投稿者の追放を楽しむようになったら――サイトから怪物を追い払うことに時間をとられすぎるようになったら――追い出した者と同じ穴の狢にならぬよう注意せよ。荒らしに対抗しすぎると集中力や感受性、嗜好を破壊しかねない。荒らし対策の経験が長い人ほど短気だったりするのは驚くべきことではない。この傾向に抗う最高の手段は、ウィキペディアの外でも充実した生活を送るなど他の習慣を持つことだ。
  52. あなたがアクティブな投稿者なら、荒らしや追放された編集者、精神障害者があなたを疎ませるだろう。気にせずよい仕事を続けること。恨みは彼らのような人間にならないことで晴らしなさい[8]
  53. 嫌味が弱者たちの反抗である[9]ように、攻撃サイトはウィキペディアの編集で落第した無能者たちの泣き言である。彼らは取るに足らない。美しく役に立つものの創造を続け、この世に善行を広めなさい。恨みや復讐に心を奪われた者には憐れみをかけ、自分が彼らと違うことに感謝するとよい。
  54. 優秀な模範ほど耐えがたいものはない[10]。他人に好かれたければ、たまにはヘマをして謝ること。
  55. 皆いじめっ子に立ち向かうのはいいことだと思っている。それは――テストステロンないしお好みの怒り増進物質の影響下を除いて――思うより難しいばかりか、自分自身がいじめっ子になりかねない。ダライ・ラマも言っている。「不正に出遭ったら強い姿勢を持ちなさい。しかし悪意を伴ってはいけない」
  56. かつてフロイトも観察したように、人間は愛されている時が最も勇敢である。逆に、孤独な人ほど臆病であり、彼らの怒りほど激しい怒りはない。ウィキペディアは孤独な人であふれている。
  57. 「切られた虫は鋤を赦す」[11]。荒らしや追放された編集者は反応を引き出そうとあなたにしつこく嫌がらせをするかもしれない。気にするな。彼らもいつか飽きる。鋤はもう通った。
  58. 自らの美徳を愛でるあまり、それが悪徳になったときそれと気づけない者に注意せよ。自らの弁才を愛でるあまり、それが自家撞着になったときそれと気づけない者にも。前者は自分の過ちを一切認めず、しかし他人の人間なら誰しも犯しかねない判断ミスに対し謝罪を要求する。後者はPOVプッシャーの中でも最も盲目で手に負えないタイプである。言葉の巧みさは美徳とも知恵とも比例しない。
  59. ある編集者が記事への投稿をやめてWikipedia名前空間やノート、裁定ケースでしか投稿しなくなり、その大半が対立を始めるか深めるものであるとき、その編集者は引退が近い。引退には主系列星と同様、矮星となり徐々に投稿を減らし、明るさを失い、時間をかけて消えゆくものもあれば、全方位に塵とガスをまき散らす猛烈な超新星爆発もある。
  60. 百科事典にふさわしいトピックにまつわる、よく調べられ、網羅的で、出典に満ちた記事を書くよりも、利用者ページから「コイツきめぇw」という文言を除去する方がずっと心からの感謝を得やすい。何年も「執筆する」ウィキペディアンでい続けるには、釈迦も言うように「称賛にも非難にも耳を貸さない」のがいちばんよい。称賛への無関心は凡人にとって容易ではないが、何万という名もない読者があなたの無関心を必要としている。称賛を期待すれば#59に挙げたいずれかの運命で燃え尽きるほかない。ここでの作業は真面目に取り組んでいいし、その成果を誇りに思ってもいい。だがそれを吹聴してはいけない。
  61. ウィキペディアンが伝言板や裁定ケース、論争の多い記事のノートに入り浸りすぎると、ウィキペディアは機能不全で無能で絶望的だという結論に至る可能性が高い。ウィキペディアンがひとたびこの気づきを得ると、その利用者ページは迫り来るウィキペディアの崩壊を予言する私論を掲載することだろう。この症状の最善の治療法は、そうした場所に入り浸るのをやめて本当に百科事典的なトピックの記事をいくつか読み、それらの品質の高さに気づくことである。同様に、あるテーブルを亜原子レベルで見れば、その大半が何もない空間で構成されており、そこを無数の小さな粒子が無作為で定義不可能な位置を無軌道に飛び交っているのが見えるだろう。もっと近くで見れば、嫌がらせのように姿形を変えてくるかもしれない[12]。だが離れればまたテーブルが見えてくるはずだ。これはなかなか悪くない百科事典だ。紛争地帯から離れてみればそれに気づくだろう。
  62. たとえ世界平和が訪れ、ライオンが羊と床を共にしても、追放された利用者が自分の落ち度に気づくことはない。「腐敗した管理者たち」や「陰謀集団」を引き合いに出す運動はすべて同じ底なしの愚行の源泉から来ている。「自分が間違うなんてありえない。だから奴らが間違っているにちがいない」[13]
  63. 拙い編集者が感じられるほど多く厄介に感じられるのは一種の選択バイアスであり、伝言板で過ごす時間が長ければ長いほど状況は悪く見える。それは路上で遭遇する拙いドライバーに似ている。目的地に着く頃には道中出くわした2、3人の拙いドライバーは覚えているかもしれないが、ミスをせずあなたの注意を免れた何百というまともなドライバーは覚えてない。拙い編集者1人の影には99のまともな編集者がいるかもしれないが、彼らは修羅場のスレッドには顔を出さず、怒りのメッセージであなたの会話ページを汚すこともないから気づかないのだ。
  64. 被害者ぶる行為は人を小さくする。追放された利用者は戻ってきて陰謀や個人的復讐のそしりを大声で叫ぶときこれに気づかない。それはより真剣な扱いに帰結しない。むしろ自分を小さくし、おとしめ、毎回より些細で滑稽な存在にする。それはリチャード・マシスンの『縮みゆく人間』を思い起こさせる。そう、あの色々な読みができる実存的映画だ。人類史上最大の百科事典の執筆に貢献する代わりに、彼らは爪楊枝で想像上のクモと戦っている。
  65. 荒らしを100%駆除する唯一の方法はブラウザのタブを閉じることである。ワンクリックで済む。でも難しいでしょ?
  66. この百科事典をよりよくするのであればどんな編集もよい編集である。「変更を公開」をクリックする前に必ず自問すること。「今自分が編集ボックスで行ったことはこの百科事典をよりよくするか?」
  67. 新しい百科事典記事はいまだに書かれているが、各種伝言板のすったもんだの側ではわざわざ自分から見に行かないとそれに気づけない。もっと重要なことに、まず気にしないといけない。
  68. 荒廃した建物は直すより燃やす方が簡単だ。エゴが大きければ大きいほど燃やしたい衝動も大きくなる。
  69. 現在起こっている現実の紛争よりもその紛争に関する記事編集の方がストレスだと気づいた時は、一旦休憩する時だ。自分の編集が「rvv」として忘却の彼方に追いやられるのは武装組織に家族を皆殺しにされるほど悪いことではなく、時としてそのことを考えるのも重要だ。
  70. 一度本当に愛を失ったものを再び愛するのは不可能だ[14]。引退したり疲れや苦い思いから去ったりしていた編集者はまた編集するかもしれないが、かつて持っていた情熱を取り戻すことはない。戻ってくるたび活力と滞在期間は減っていく。
  71. ウィキペディアの存在は、この世界には壊したい人よりも築きたい人の方が多いことの巨大な証左である。そうでなければ何年も前に荒らしが我々を凌駕し壊滅させていただろう。
  72. 「真実」とは大層な言葉である。突然「真実」を持っている、知っている、あるいは主張する編集者、そして「真実」を利用者名に含める編集者は、おそらく百科事典にふさわしくないことをしている。そして主張が激しければ激しいほど、それは訝るに値する[15]
  73. 勤勉なウィキペディアの編集者によく投げかけられる侮蔑が「まともな生活がない」というものである。マイナーな領域で広範に記事を書けば、そのトピックに関して世界で最もよく読まれた書き手になれるかもしれない。もっと「まともでない」生活を送る方法は、ネット上の数少ない自分より他人の役に立っている人を罵ることを含め色々あるが、そのような侮蔑を投げかける人は必ず皮肉に対して鈍感なものである。
  74. 憎しみが大きければ大きいほど、何が真実かに対する興味は小さくなる。これは政治においても、偏執的なソックマスターにも通用し、陰謀論の隠し味でもある。どれでもいいから陰謀論を一つよく見てみるとよい。核心に憎しみがあるはずだ。
  75. ウィキペディアにはあらゆることに関する伝言板がある――能力を除いて。
  76. 荒らし対策、そして追放された利用者を見つけるのが上手くなったなら――そのうちの数人や、ましてや1人を専門とするようになったなら――自分の存在が唯一彼らを惹きつけていて、身を引いてあとは他人に任せるのがサイトにとって最善だということに気づくかもしれない。エイハブになる必要はない、どのみち白鯨ではなくアブにすぎないのだから。「汝はハエ叩きになる運命ではない」[16]
  77. 自分が賢者になったと思う瞬間に注意せよ。ちょうど愚者になったかもしれない。

私も他人と同じく――ひょっとしたら他人以上に――虚栄心に動かされやすいのであって、この考察の掲載は自分がこれらの行動よりも優れていると示そうとするものではありません。

関連項目

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脚注

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  1. ^ ウィリアム・ブレイク「永遠」
  2. ^ 「意見を持つことは物書きの関心事ではない」ウィリアム・バトラー・イェイツ
  3. ^ "Il n'y a point de sots si incommodes que ceux qui ont de l'esprit." フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー『箴言集』No. 451
  4. ^ 「自らの悪から逃げるのは可能だが、他人の悪から逃げるのは不可能であり、愚かだ」マルクス・アウレリウス『自省録』
  5. ^ 「愚者の叱責に耳を傾けよ。それは勲章である」(ウィリアム・ブレイク「地獄の格言」)
  6. ^ 「我々の敵の隠された歴史を知ることができるなら、あらゆる敵意をなげうつに値するだけの悲しみと苦悩が一人一人の人生に見つかるだろう」ヘンリー・ワズワース・ロングフェローティク・ナット・ハン『微笑みを生きる』にて引用。
  7. ^ 創世記 11:3
  8. ^ アウレリウス『自省録』
  9. ^ ジョン・ノールズ『友だち』
  10. ^ マーク・トウェイン雑録
  11. ^ ウィリアム・ブレイク『天国と地獄の結婚』
  12. ^ ヴェルナー・ハイゼンベルクはウィキペディアンではなかったが、よく観察すれば同時にウィキペディアンでもあったかもしれない。
  13. ^ ザ・真実も参照
  14. ^ "Il est impossible d'aimer une seconde fois ce qu'on a véritablement cessé d'aimer." フランソワ・ド・ラ・ロシュフコー『箴言集』No. 286
  15. ^ 「真実への異常な情熱は100対1の確率で短気か野望か驕りである」ジョナサン・スウィフト "Thoughts on Religion"。
  16. ^ ニーチェ『ツァラトゥストラはこう語った』「市場の蝿」