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利用者:Nami-ja/私論/沿革の書き換え方

序文

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学校や建造物、はたまた国家や各県、会社企業、市町村組織などにはその起こりから現時点までの出来事を一覧表にまとめた沿革(沿革史)が必ず付随するものです。

その「主題に強く関係した、発生した単独の事実」そのものは誰が書いても同じ内容にならざるを得ない出来事であり、通常はその単独事実を『参考文献などを見て出来事記述を転記する行為(コピーペースト含む)』に、著作権侵害は発生しません。

著作権侵害の有無を見分ける方法はいろいろありますけども、簡単な見分け方としては「誰が書いても同じ(または酷似した)内容に成り得るかどうか」です。──例えば東京タワーは1958年(昭和33年)12月7日にオープンしましたが、この「事実」に対し

1958年に東京タワーとして公開された。
1958年(昭和33年)12月7日 - 東京タワー先行公開開始。
1958年12月7日、東京タワーの名称でプレオープンが開始された。

…といった書き方が出来ますが、これらは全て元になる資料を「東京タワーの沿革史」に依存していますけども、発生した事実そのものを転記する際に出典内容とこれらが一致してしまっても、「書き方をいくら変更しても、伝えている内容は全て同じ事実」ですので著作権侵害にはなりません。こういった事例は、普段新聞報道ニュースなどをご覧になられている際、『別のテレビ局なのに同じ見出しになっている事例』を見て実例としてご存知だと思います。

問題となるのは「発生した事実を伝える『複数年次に渡る年表、沿革史そのもののレイアウトや、統一的な言葉の選び方』に対してです。

事実の書き方自体には上述のようにいくつかの言葉の選び方、伝え方がありますが、「誰もが見やすく分かりやすいように、文言や年表、年譜に統一性を与えて全文を読み解きやすくしよう」という意図を持って年表全体の書き方が統一されている場合、それは「執筆者の創作性そのもので、誰が書いても『必ず』同じに成り得る部分ではないもの」ですから、ここに『創作性』が発生します。

下記にも例を挙げますが、同じ市内の小学校の沿革史を取っても、各校で沿革史の記述方法は、年号を昭16、平5、などと簡略化表記したり、西暦に統一したり、西暦と年号を併記したり、などと各校個別に文言の選択に違いがあり、またその表記形式もHTMLで表組みしたり、単に文章と半角・全角スペースの組み合わせで列表を作ったりと、全く統一化されていません。こういった「レイアウトと文言の選択」が、執筆者が読者のことを考えて読みやすく配慮した証であり、著作物に該当する創作性の論拠となります。

ですので「他人、または他組織が作り上げた沿革史の全文または全体を丸ごとコピーペーストしてウィキペディアの記事に持ち込んだ場合は著作権侵害」となりWP:DEL#B-1に基づきWikipedia:削除依頼が必要になります。

適切な書き換え方

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──しかし、沿革史の書き換え、沿革史を元に内容を『自分の言葉で要約し直す』と一言で言っても、「既に完全な一覧となっているものをバラバラにして再構成する」という手法は実務的な手順を想起しづらいものでしょうから、以下に例を挙げて説明して行きます。

明治6年 五所小学校創立
明治7年 八幡小学校創立
明治21年 両校合併・高等科併置、八幡尋常高等小学校と改称
大正12年 9月1日大震災のため新校舎を除き大破
昭和16年 八幡国民学校と改称
昭和22年 八幡村立八幡小学校と改称
昭和30年 菊間村と合併 市原町立八幡小学校と改称
昭和38年 市制施行、市原市立八幡小学校と改称
昭和45年 白金小学校分離
昭和48年 創立100周年記念式典挙行
昭和50年 石塚小学校分離
平成5年 創立120周年記念式典挙行
平成6年 体育館大改修工事
平成14年 新校舎完成
平成15年 創立130周年記念集会挙行
平成22年 体育館耐震化工事
--市原市立八幡小学校 (2016年3月3日). “学校の沿革”. 市原市. 2017年12月12日閲覧。より、沿革史部分を全文転記。

上記が今回の例示に使用する市原市立八幡小学校の沿革全文です。──全文転記を行う際は著作権法で定められた引用の要旨に従い、上記のような「明らかに別ページから全文転記され、書き換えがされていない事実」を明示しなければいけません。これに従わずウィキペディア上にそのまま転記を行ってしまいますと「ウィキペディアは誰でも自由に内容を編集可能なウェブサイト」ですので、『転記を行ったあなたが著作権者に成り代わって無制限編集改変許可を与えるのと同義』ですので著作権侵害になります(Wikipedia:著作権同一性保持権翻案権などを参照)

──以下本気で私論:ここら辺かなりめんどくさいので、主題解説に絶対に必須でなく転記する完全な必要性がないなら全文転記自体を忌避した方がいいです。なお、俳句や格言なんかだと大抵は著作権が切れてるので確認すれば大体は大丈夫なものが多いですけども、「遺族が権利を相続する場合」というのもあって、権利の所在がわかりづらいものもあります。

事実の内容ごとに項目を分ける(並べ替え)

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一覧沿革史のひとつひとつの事実の「結果」に着目し、『事実の並べ替え』を行う手法です。この手法に従いますと、例えば学校の創立と改称を抜粋した場合は

  • 明治6年 - 五所小学校創立。
  • 明治7年 - 八幡小学校創立。
  • 明治21年 - 両校合併。八幡尋常高等小学校と改称。
  • 昭和16年 - 八幡国民学校と改称。
  • 昭和22年 - 八幡村立八幡小学校と改称。
  • 昭和30年 - 市原町立八幡小学校と改称。
  • 昭和38年 - 市原市立八幡小学校と改称。

または

1873年(明治6年)に五所小学校が創立、翌1874年(明治7年)には八幡小学校が創立した。1888年(明治21年)にこの両校が合併し八幡尋常高等小学校と改称された。

昭和に入り、1941年(昭和16年)には八幡国民学校に改称、以後も改称は続き、戦後の1947年(昭和22年)には八幡村立八幡小学校、1955年(昭和30年)市原町立八幡小学校となり、1963年(昭和38年)に現校名の市原市立八幡小学校に改称、現在に至る。

といった書き換えが出来ます。──文章形式ですと年表の上下順に囚われませんので、更に「結果ごとに分類した加筆」を続けますと

1873年(明治6年)に学制施行により五所小学校が創立、翌1874年(明治7年)には八幡小学校が創立した。1888年(明治21年)にこの両校が合併し八幡尋常高等小学校と改称された。

昭和に入り、1941年(昭和16年)には八幡国民学校に改称、以後も改称は続き、戦後の1947年(昭和22年)の6・3制施行に伴い八幡村立八幡小学校、1955年(昭和30年)市原町立八幡小学校となり、1963年(昭和38年)に現校名の市原市立八幡小学校に改称、現在に至る。

1923年(大正12年)の関東大震災被災時には新校舎を除く建造物大破となった。

学校所在地の市町村合併はこれまでに2度発生しており、1955年(昭和30年)の菊間村との合併、そして1963年(昭和38年)に市原市の市制施行が改名理由となっている。

現校名に改称後は別小学校への児童分離が2回あり、1度目は1970年(昭和45年)の市原市立白金小学校の分離、2度目は1975年(昭和50年)の市原市立石塚小学校分離である。

この間、1973年(昭和48年)には創立100周年を迎え記念式典を挙行しており、平成に入り1993年(平成5年)には創立120周年記念式典、2003年(平成15年)には創立130周年式典を挙行した。

翌1994年(平成6年)からは併設体育館の大改修工事を開始し、2010年(平成22年)には体育館の耐震化工事も行っている。

また、校舎は2002年(平成14年)に新校舎が完成している。

という文章解説に『変換』出来ます。これは、【1】創立と改称の経歴【2】関東大震災の被災【3】市町村合併による改称の解説【4】校区分離の回数【5】周年記念式典(その時点での創立からの経過年数)【6】体育館と校舎の改修詳細、という風に事実ごとに分類して解説を行っています。

年表にない学制6・3制市原市市制施行、といった加筆文言には「個別に沿革史とは別の出典情報源を与えて記述の信頼性を更に高める加筆」を施します(WP:V)。

元々の記述に事実を継ぎ足す(詳細化)

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年表形式をそのまま使っても、「別の資料から分かる事実を継ぎ足す」という方法で事実を変化させずに詳細化することで、元の内容から改訂を施すことが出来ます。前節の文章記述を年譜に再変換しますと、

  • 1873年(明治6年) - 学制施行により五所小学校が創立。
  • 1874年(明治7年) - 八幡小学校が創立。
  • 1888年(明治21年) - 上述2校が合併、高等科を併設し尋常高等小学校となり八幡尋常高等小学校と改称。
  • 1923年(大正12年) - 関東大震災にて校舎が被災、新校舎を除く建造物大破。
  • 1941年(昭和16年) - 国民学校令施行に伴い八幡国民学校に改称。
  • 1947年(昭和22年) - 6・3制施行に伴い八幡村立八幡小学校に改称。
  • 1955年(昭和30年) - 菊間村と合併し市原町町制施行に伴い市原町立八幡小学校に改称。
  • 1963年(昭和38年) - 市原市市制施行に伴い市原市立八幡小学校に改称、現在に至る。
  • 1970年(昭和45年) - 本校から市原市立白金小学校が分離。
  • 1973年(昭和48年) - 創立100周年を迎え記念式典を挙行。
  • 1975年(昭和50年) - 市原市立石塚小学校分離。
  • 1993年(平成5年) - 創立120周年記念式典。
  • 1994年(平成6年) - 併設体育館の大改修工事を開始。
  • 2002年(平成14年) - 新校舎が完成。
  • 2003年(平成15年) - 創立130周年式典を挙行。
  • 2010年(平成22年) - 体育館の耐震化工事。

……となります。

リンクして誘導する(転記しない)

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沿革が公式HP上などの読者からも容易に確認出来る場所で公開されているのならば、それをただウィキペディア上に転記する行為は『劣化コピーをウィキペディア上に作成する行為』であり、WP:IINFOで明確に禁止されている無差別情報収集行為です。

ウィキペディア上で学校記事を作成する理由が「ないから作った」「公式HP上に沿革があったから(著作権侵害を犯してでも)全文転記した」といった安易な理由では困ります。

ウィキペディア上に百科事典記事として学校記事を解説するのであれば、多くの「学校沿革以外の、学校に無関係な新聞社や公的機関などによる二次情報源からの情報を集めてから作る」のが主筋で、沿革史は学校の歴史そのものですけども、学校の歴史をぺたりと学校記事中に貼ってそれで終わり、というのは「その学校は歴史以外に特記すべき事項が全くない、どこにでもあるありふれた学校である」と認めてしまうようなものです。──そうではなく、他の情報源も探して歴史以外の特記事項を探し、加筆するように努めて下さい。

そうした加筆の結果、学校に関するそういった二次情報源からの情報が満ちてきて、学校の歴史に関する記述が相対的に減った場合は単に外部リンクで沿革史に読者を誘導するか、創立記念日の出典として沿革史を指定するなどで済むでしょう。

──学校を語る上で沿革は外すべきでない重要な情報ではありますが、それをウィキペディア上に劣化コピーしてまで重複記述する必要性はそれほど高くない、『誰にでも見られる場所にあるものをウィキペディア上に劣化コピーして立派な記事を書いたつもりで自己満足に浸る』のではなく、読者のためになる情報をたくさん集めて読者に読み応えを与えようとした場合、沿革歴史の占める割合はそう大きなものではない、というお話です。

まとめ

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どの方法に沿っても改訂可能な事実は伝わったかと思いますので、あとはご自身の書き方のスタイルやWikipedia:スタイルマニュアルなどに合わせて「事実の列挙から『自分の言葉で』内容を解説する文章を創作する行為」に慣れていけば、また違ったご自身の編集加筆スタイルを確立出来るもの、と思います。

上記はほんの一例であり、大元の資料が研究文書や論文、データベースなどであった場合はまた違った書き方が必要になりますが「著作権に配慮して書き換えが必要で、読者に正確に伝えるために資料が必須で、読者が理解しやすいように自分が難解な資料を紐解いて平易化するのだ」と考えれば全てに応用が効くものである、と思います。