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走泥社(そうでいしゃ)は、1948年に京都で結成された陶芸家のグループ[1]。伝統的な陶芸にとらわれず、実用性を伴わない「オブジェ焼き」という新たなジャンルを生み出した[2]。1998年に解散[1]。
沿革
[編集]発足時のメンバーは八木一夫、鈴木治、山田光、松井美介、叶哲夫の5人[1]。いずれも京焼の伝統的な窯業地である五条坂周辺で活動していた若手作家であった[1]。「走泥社」の名は、五条坂の書家・綾村担園が挙げた、許之衡『飲流斎説瓷』に出てくる「蚯蚓走泥紋(きゅういんそうでいもん)」という文からとられている[3]。
脚注
[編集]- ^ a b c d “MAMリサーチ007:走泥社―現代陶芸のはじまりに”. www.mori.art.museum. 2021年4月18日閲覧。
- ^ “走泥社―現代陶芸のはじまりに(森美術館)”. 美術手帖. 2021年4月18日閲覧。
- ^ 『泥象 鈴木治の世界』京都国立近代美術館、2013年、11頁。
参考文献
[編集]- 『泥象 鈴木治の世界』京都国立近代美術館、2013年。
- 『MAMリサーチ007:走泥社―現代陶芸のはじまりに』森美術館、2017年。
外部リンク
[編集]- ミニ用語解説:走泥社(そうでいしゃ) - 三重県立美術館
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走泥社
走泥社の活動は、陶芸が「オブジェ」、いわゆる立体造形のジャンルを獲得していく過程に大きな役目を果たしたという意味で、陶芸に革新をもたらしたと評されいている。(略)長い間、「器であること」が前提となっていた陶芸が、他の美術領域との接触の中でいかにその概念を獲得し得たか、という造形上の革新性において、「壺の口を閉じるか閉じないか」という選択に踏み込んだ初期の走泥社の活動が大きな役割を果たしたことは間違いないであろう。(『泥象 鈴木治の世界』京近美、2013年、10頁)
京都の五条坂は、近代以前から陶業が盛んだった場所として知られている。…
その頃、戦後の機運を背景として美術団体の結成が相次ぎ、工芸会でも当時気鋭の陶芸家・中島清を中心に「青年作陶家集団」が結成された。…彼らは展覧会でも頭角を現すが、自らの作陶と工芸界の大きな構造との間で翻弄され、グループの発展的解消として、八木を中心に「走泥社」という新たなグループを結成した。
五条坂の書家、綾村担園が挙げた挙之衝(きょしこう)の『飲流斎説瓷』に出てくる「蚯蚓走泥紋(きゅういんそうでいもん)」という文からその名を採った走泥社は、5人の小規模なグループであったが、結成した年の秋には叶と松井が抜け、八木、山田、鈴木のわずか3人のみとなった。…当時の京都では共同の大きい登り窯にそれぞれが作品を持ち寄って一度に焼くというのが普通であり、走泥社のメンバーも伝統的なやきものを作っている職人や陶芸家と同じ釜を借りていた。今となっては、土を素材とした立体造形そのものは珍しくなくなったが、この当時においては、少し壺の形を変える、あるいはこれまでにない絵付けをする、といったことがすでに伝統に対する挑戦であった。(『泥象 鈴木治の世界』京近美、2013年、11頁)