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良峯氏
概要
良峯氏は肥後国球磨郡中央部(現熊本県球磨郡錦町・あさぎり町および熊本県人吉市)を中心に割拠していた一族である。主たる姓は平河。平安時代末期から南北朝時代にかけて活躍するが、以後は衰微し、室町時代末期には相良氏の被官となる。
歴史
「良峯姓由緒書」によれば、良峯氏は桓武天皇の皇子、良峯(良岑)安世を初代とするという。康平六年に良峯師種が肥後国へ下向し、その後荒田寺(現熊本県球磨郡錦町―以下特記なき限り県名・郡名は省略―木上字荒田にある荒田寺か)別当となった良峯依高の4人の子息、深田太郎盛高・山田次郎東高・平河三郎師高(隆)・横瀬四郎高実が、現あさぎり町深田・現山江村山田・現錦町木上・現多良木町黒肥地字大園付近?にそれぞれ分立したが、このうち3男である平河師高が惣領となったことから、以後良峯氏は「平河」を自身の姓とする。4子分立の具体的な日付は不明だが、前掲の由緒書には久安元年、平河師高により有智山寺(現あさぎり町深田西にある内山萬福寺)が建立されたとあり、これより以前には遡るものとみられる。
文治三年六月十六日、師高は源頼朝より所領を安堵された。
文治五年七月十七日には師高の次男平河師貞が京都大番役へ勤仕し、その功績を認められて建久三年、肥後国球磨庄安富領内の三善・西村両所の預所職を安堵される。
建久八年に球磨郡で荘園整理が行われると、平河師貞は肥後国球磨郡(以下特記なき国名・郡名は省略)永吉・西村(現相良村柳瀬字西村か)両所の地頭職に任ぜられた。この頃になると一族の分立はさらに進んでいたようで、建永二年に四郎師忠という人物が登場する。この人物は少なくとも目良生(現錦町木上字目郎か)・永池(現あさぎり町免田西字永池か)とほか一所を領地しており、貞永元年九月には惣家師良の幕府へ提出した書状に連署するほどの一族、目良生村地頭師頼の先祖だと考えられる。なおこの貞永元年連署状には、師貞の子平河次郎師良・前述の目良生村地頭師頼のほか、中神村(現人吉市中神町か)地頭良高・平野村(現錦町字平野か)地頭師久の両名がいたらしく、平河氏一族が中球磨地方に広範な勢力を有していたことが窺える。
師良の次は平河三郎良貞(または良氏)、法名を観蓮と号し、建長二年に領地を継承する。同五年には師良の子良円(俗名不詳)も領地を譲られている。
建長三年、永吉地頭職が初めて押領される。当時球磨郡内には西村の地がもう1箇所(現錦町西一帯か)あり、須恵尼が地頭職を有していたが、元仁二年/嘉禄元年、大江広元から鎌倉御領預所職を引き継いだ藤原実春が、狼藉の咎により西村地頭職を須恵尼より召し上げて賀来又二郎(法名念阿)に給した際、平河氏の領分であった永吉地頭職まで併せて給したことが原因であった。一度は収束したとみられるが、文永二年に再び混領が行われ、良貞は平河四郎師時とともに提訴し、弘安六年七月三日、「(須恵氏の西村と)永吉庄の西村は別の土地である」という判決を得て勝訴した。時の引付頭人だった北条業時は、永吉庄の地頭ならびに名主職を良貞らへ返付するよう命じる。同年十月、鎌倉御領預所職は少弐景資に給され、同八年、霜月騒動に伴う景資の滅亡後に同職を継いだ名越宗長も同九年、西村のことは先例にならって領掌せよと命じるが、宗長の代官であった竹井次良右衛門(法名行性)は命令を無視(平河氏の言い分によれば当時の引付奉行であった越中次郎(法名郡連)と行性が結託したという)、弘安六年の幕府決定を否定してしまう。
これを受けて良貞は正応二年、行性・郡連を相手に相論を展開するが、しかしおそらくは敗訴したため、今度は平河弥五郎(法名道照)が幕府へ越訴する。永仁年中、この案件は惣越訴御内へ移管され、担当奉行の諏方左衛門(法名直性)が審理に入るも、直性は途中で異動となり、代わって担当した二番御手の奉行明石民部大夫(法名行連)が元亨元年、道照の言い分を却下したため、道照は翌年改めて越訴に及んでいるが、その後の裁判の行方については史料の欠如から判明していない。
以後の平河氏の動向は、相良氏との関係を中心としたものに移行していく。
両者の関係が史料上最初に確認されるのは、建長四年三月二十五日付の「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」である。相良長頼の子長貞が「平河三郎」を名乗るとあるものの、平河氏の名は「師」や「貞」が多く、「長」を名に持つ人物は認められないため誰のことを指しているのかは判らない。前述の平河三郎良貞を指している可能性もあるが、史料上は確認できない。
次いで見受けられるのは文治二年三月付の「人吉庄南方松延名田数得田米田付け雑物等実検注進状」で、人吉庄内松延名の預所として「良峯師種」の名がある。
さらに文治二年四月三日付の「息女阿夜仁譲与状案」では、「入道蓮仏」(相良長頼)の娘である尼妙阿(俗名牛)が、人吉庄南方寅岡名地頭職を娘の良峯氏(俗名阿夜、先の「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」によれば法名光妙)へ譲渡しており、妙阿の嫁ぎ先が良峯氏であったことを窺わせている。同様のことは暦応三年の「良峯氏女代広安軍忠状」にも表れており、相良氏と良峯氏との間で婚姻関係が進展していったことが伺える。
南北朝期に入ると、争乱の世相を表すかのように合戦の記事が多くなる。
貞和二年九月二日、筑後経尚の八代出陣に際し、人吉庄一部地頭平河小三郎師頼(前述の良峯師種の子孫か?)が従軍、葦北庄田河(現葦北郡芦北町田川か)内の関所にて合戦に及び、同十五日には右太股を負傷するなど奮戦している。
文和元年には平河三郎貞世・八郎貞家兄弟が、六月九日豊前国赤庄(現福岡県田川郡赤村か)内の笠松・八月七日大宰府(現福岡県太宰府市の大宰府政庁を指すか)近郊の吉野と転戦した後神嶽城を守護し、十一月十二日の椿忠隈(現福岡県嘉穂郡穂波町の椿および忠隈か)合戦に際して兄貞世が戦死、弟貞家も右足甲に傷を負った。しかし貞家は二十四日の大宰府合戦に加わって峯薬師堂城を攻略し、敗走する敵を竹曲まで追撃した際左手首をさらに負傷したが、そのまま浦城(現福岡県太宰府市連歌屋2丁目の浦ノ城、もしくは同浦城の岩屋城)攻略に参加している。さらに同二年正月二十二日の合戦の際にも活躍し、二月二日の菊池後攻め合戦(針摺原の戦いか)にも参戦している。一貫して北朝方の年号を用いていること、筑後経尚に従軍していることから、この時期の平河氏は少弐氏の傘下にいたことが伺える。
一方で、平河氏が肥後国外にも所領を有していたことが確認できる。日向国真幸院(現宮崎県えびの市内か)などを給された平河又三郎師里、同国三俣院(現宮崎県北諸県郡三股町か)内の地を給された平河小三郎師頼などで、彼らは康永四年、近隣領主との間に濫妨沙汰を引き起こし、そのことを訴えるべく上洛した使者を待ち伏せして殺害に及んでいる。
しかしその後、「相良定頼并一族等所領注文」に見られるように、平河氏は永吉庄の半分175町を相良定頼へ給される形で失ってしまう。これは永吉庄、すなわち平河氏が少弐頼尚に属していたためであり、具体的な時期について明言はないが、同状には「一色殿御下文目録」との裏書が認められることから作成年代は建武三年の一色範氏九州赴任から、延文三年の一色直氏上洛までの間に想定される。加えて「相良氏系図」によれば、相良定頼は正平十二年に日向国の地を賜ったとあり、前出の注文には「(少弐)頼尚跡」は永吉庄のほか日向国にも及んでいたことが記されていることから、これらの少弐頼尚没官領が定頼へ給されたのであれば、平河氏が永吉庄の半分を失ったのはこのとき、すなわち延文二年/正平十二年である可能性が指摘できよう。
これを裏づける可能性として、面田氏の存在がある。藤原姓を名乗る面田氏は、文和二年九月二十八日、和泉国二条堀河院の東にて面田を名字とし、その後安芸国を経て文安六年に球磨郡永吉庄内の面田村(現あさぎり町免田か)へ移ってきたというが、球磨郡内における面田氏の所領は自身が下向してくる以前の延文三年九月二十八日にまで遡り、いずれも「孫三郎あと」「又三郎のあと」「五郎三郎あと」などの没官領であることを窺わせている。
以降、平河氏は相良氏の下風へ立たされる。永和元年八月十二日、菊池郡水嶋(現熊本県菊池市七城町水島か)に在陣し、近郊の目野嶽(現熊本県山鹿市鹿央町米野岳か)を経て肥前国横大路(現佐賀県神埼市神崎町の横大路城か)・小城(佐賀県小城市小城町の小城城か)と転戦している平河左衛門尉師頼は、(相良)近江守前頼をして「惣領」と称している。さらに応永二年には平河尾能三郎が相良実長より名字書出を受け(高頼)、同三十四年には平河式部が相良前続から人吉庄屋な瀬(現相良村柳瀬か)・永吉庄深田(現あさぎり町深田か)などの各所で給分を受けており、相良氏の被官と化していることが確認される。
年号 | 月日 | 記事 | 出典 |
---|---|---|---|
康平6 | この年 | 良峯師澄、肥後国球磨郡へ下向という | 『求麻外史』 |
久寿元 | この年 | 平河三郎師高(隆)、現熊本県球磨郡あさぎり町深田西に有智山寺(内山萬福寺)を建立という | 「平河文書」12 |
文治3 | 6.16 | 平河師高、源頼朝より所領を安堵されるという | 「平河文書」4・5 |
文治5 | 7.17 | 平河次郎師貞、京都大番役へ勤仕するよう命ぜられるという | 「平河文書」4・5 |
建久2 | 5.3 | (平川師高、領地を子息師貞へ譲与) | 「平河文書」1 |
建久3 | この年 | 平河師貞、大江広元より肥後国球磨庄安富領内三善ならびに西村両所の預所職を安堵されるという | 「平河文書」4・5 |
建久8 | この年 | 鎌倉御領永吉300(350の誤記)町地頭に「良峯師高子息平紀(河の誤写か)平次」の名あり | 「相良家文書」2 |
建永2 | 3.14 | 平河四郎師忠、領内の目良生・永池ほか一所分の所当を京都へ送るよう命ぜられる | 「永池文書」1 |
承久2 | この年 | 永吉検済目録帳等事に地頭「良峯師良」の名ありという | 「平河文書」4 |
嘉禄元 | この年 | 永吉預所職、大江広元より近衛中将羽林(藤原)実春朝臣へ移るという | 「平河文書」4・5 |
貞永元 | 9.11 | 平河次郎師良・目良生村地頭師頼・中神村地頭良高・平野村地頭師久、連署状を提出という | 「平河文書」4・5 |
暦仁2 | この年 | 永吉検済目録帳等事に地頭「良峯師良」の名ありという | 「平河文書」4 |
建長2 | この年 | 平河師良、子息三郎良貞(法名観蓮)へ領地を譲与という | 「平河文書」4・5 |
建長3 | この年 | 永吉預所近衛中将羽林(藤原)実春朝臣、永吉地頭職を押領という | 「平河文書」4・5 |
建長4 | 3.25 | (「人吉庄南方寅岡名地頭職相伝系図」に「平河三郎長頼」の名あり) | 「平河文書」2 |
建長5 | この年 | 平河師良、子息良円(俗名不詳)へ永吉庄内青山村の田地を譲与 | 「平河文書」3 |
文永2 | この年 | 平河良貞・四郎師時、永吉の混領を受け羽林(藤原)実春と相論という | 「平河文書」4・5 |
弘安6 | 7.3 | 平河良貞、羽林実春との相論に勝訴 | 「平河文書」4・5 |
10月 | 永吉預所職、羽林実春より豊前前司少弐景資へ移るという | 「平河文書」4・5 | |
弘安8 | この年 | 平河良氏(貞)、(大)宰府にて勤仕という | 「平河文書」4・5 |
この年 | 永吉預所職、霜月騒動によって少弐景資より備前前司名越宗長へ移るという | 「平河文書」5 | |
弘安9 | この年 | 名越宗長の代官竹井二良右衛門(法名行性)、弘安6年の判決を否定 | 「平河文書」5 |
正応2 | この年 | 平河良貞、行性・引付奉行越中次郎(法名郡連)と相論 | 「平河文書」5 |
永仁年中 | 平河弥五郎(法名道照)の幕府への越訴、惣越訴御内へ移管される | 「平河文書」5 | |
徳治2 | 3月 | 人吉庄松延名の預所に「良峯師種」の名あり | 「相良家文書」37 |
文保2 | 4.3 | 相良長頼の娘牛(法名妙阿)、人吉庄南方寅岡名地頭職を娘阿夜(良峯氏、法名光妙)へ譲与 | 「相良家文書」48 |
元亨元 | 5月 | 引付奉行明石民部大夫(法名行連)、平河道照の越訴を棄却 | 「平河文書」5 |
元亨2 | この年 | 平河道照、改めて幕府へ提訴 | 「平河文書」5 |
嘉暦元 | 9.25 | (平河宮内左衛門?)観覚の「すミ殿」宛て書状あり | 「相良家文書」50 |
建武3 | 4.22~ | 相良定頼、南朝方へ呼応した相良経頼・橘佐渡八郎らを山田城で迎撃、小枝城へ追い詰める | 「相良家文書」82 |
暦応3 | 6.19 | 多良木孫三郎・内河彦三郎以下の南朝方、木上城へ籠城 | 「相良家文書」91 |
8.6 | 相良孫次郎定長・八郎景宗、筑後経尚の経頼一党討伐に際し荒狩倉城から小枝城まで同行 | 「相良家文書」102・103 | |
8.10 | 相良十郎三郎助広(良峯氏の父)、築地原合戦で戦死 | 「相良家文書」96 | |
12.10 | これより先、相良定長・景宗、木上・山田など永吉庄内の諸城を警固 | 「相良家文書」104・105 | |
康永4 | 9.6 | 日向国馬関田庄預所平河又三郎師里ら、同国吉田村にて濫妨に及ぶ | 「相良家文書」119 |
9.16 | 平河弥三郎、師里らの濫妨を提訴すべく上洛中の坂兵部房覚英を備後国内で殺害 | 「相良家文書」119 | |
文和元 | 6.9 | 平河三郎貞世・八郎貞家兄弟、豊前赤笠松討伐に参加 | 「平河文書」6・7 |
8.7 | 平河貞世・貞家、筑前宰府防衛に参加 | 「平河文書」6・7 | |
11.12 | 平河貞世、筑前椿忠隈合戦にて戦死(貞家は負傷) | 「平河文書」6・7 | |
11.24 | 平河貞家、筑前宰府合戦に参加 | 「平河文書」6・7 | |
文和2 | 2.2 | 平河貞家、肥後菊池後攻(針摺原の戦いか)に参加 | 「平河文書」6・7 |
文和3 | 11.1 | これより先、相良孫三郎定長、南朝方の球磨郡侵攻に際し永里村及び深田城において合戦 | 「相良家文書」162 |
正平12 | この年 | 相良定頼、日向国内の地を賜るという | 「相良系図」 |
この年? | (平)河左近允、永吉庄半分175町を失う | 「相良系図」 | |
延文3 | 9.28 | 「免田坪付帳」(球磨郡における面田氏所領の初見) | 「免田文書」1 |
永和元 | 10.16 | 平河三郎左衛門尉師頼、相良前頼に従って肥後国菊池郡水嶋に在陣 | 「永池文書」2 |
永和3 | 10.28 | 平川兵庫允師門、相良右頼・前頼らとともに北朝方への一揆契約に連名(「平川」姓の初見) | 「禰寝文書」2 |
応永2 | 12.23 | 平河尾能三郎、相良実長より名字書出を受ける(高頼) | 「永池文書」3 |
応永34 | 4.7 | 平河式部、相良前続より所領を給分される | 「平河文書」8・9 |
永享10 | 3月 | 平河氏の面田氏への給分あり(これより先か) | 「免田文書」4 |
文安6 | 肥後国球磨郡永吉庄面田に面田氏下向すという | 「免田文書」4 | |
寛正3 | 12.9 | 平河助八、相良長続より名字書出を受ける(師詮) | 「永池文書」4 |
文明2 | 3.25 | 平河氏の面田氏への給分あり(これより先か) | 「免田文書」7 |
文明17 | 2月 | 平川但馬守、相良為続より所領を給分される | 「平河文書」10 |
長享元 | 12.23 | 平河三郎、相良長輔(長毎)より名字書出を受ける(高吉) | 「永池文書」5 |
天文11 | 11.25 | 相良永池三郎、相良長唯(義滋)より名字書出を受ける(長順) | 「永池文書」6 |
永禄2 | 5.23 | 相良頼房(義陽)より平川与三衛門尉宛て書状あり | 「平河文書」11 |
天正19 | 9.20 | 相良永池助七、相良頼房(義陽)より名字書出を受ける(頼忠) | 「永池文書」7 |