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金沢大学

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歴史

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角間への総合移転

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1975年(昭和50年)ごろ、城内キャンパスにおいて理学部および教養部校舎の増築問題があったが、建物の新増築を行うにあたって、文化庁の許可を得て発掘調査を行う必要があった。大学側と文化庁などが折衝を行ったが、1978年(昭和53年)6月には文化庁側が「文化財保護の見地から城内地区での永久建物は建築できない。」という意向が示され、城内地区での新増築を断念した[1]

大学は、1977年(昭和52年)からキャンパス問題の検討に着手した[2]。まず、同年1月に、法文学部内に3つの学部の分離改組を前提とした、法文学部将来計画検討委員会が発足した[3]。同年7月には、将来計画検討委員会(以下将来委員会とする)に、キャンパス問題に関する専門委員会(以下キャンパス問題専門委員会とする)が設置された[3]

1978年7月に開催された第4回キャンパス問題専門委員会において、法文学部の改組に伴うキャンパス問題の検討を促進し、大学全体の将来計画に基づくキャンパス問題については、別途長期的展望に立って検討を進めることを決定した[4]。同年11月には、法文学部教授会は、新しいキャンパスを城外に求めたうえで、1980年度(昭和55年度)に文・法・経済の3学部創設を目指すことを決定し、続いて理学部も城外に移転することを学部会で決定した[5]。1978年11月に開催された第8回キャンパス問題専門委員会は、「昭和55年度法文学部改組発足を前提にしつつも金沢大学の移転は、総合移転であるべきである」という結論に達した[6]。そして第8回将来委員会において、総合移転の方向性と、これに伴う敷地に関する関係機関との折衝開始を示した基本方針が了承され、その後評議会で正式に承認された[7]

1978年12月には、大学学長から、石川県知事及び金沢市長へ移転候補地の推薦への斡旋の依頼が行われた[8]1979年(昭和54年)3月には、石川県及び金沢市から「神谷内・月浦地区」、「角間・奥卯辰地区」、「金川地区」、「三子牛・内川地区」の四候補地が提示された[9]。現地調査や各部局からの意見・要望を踏まえた上で、「三子牛地区」、「金川地区」、「角間地区(金川A地区を含む。)[注釈 1]」を総合移転候補地とし、これらの候補地が精査の結果、不適の場合を考慮し、新たな候補地を用意すべき努力を開始する旨が、同年6月の評議会で確認された[10][11]。その後、同年7月の臨時評議会において、金沢大学として総合移転に関する最終的な意思決定が行われた[12][13]。そして、1980年文部省概算要求において、法文学部改組及び総合整備移転調査費が盛り込まれた[14]

1979年11月に開催された第11回キャンパス問題専門委員会では、三子牛地区について自衛隊演習地(国有地)の取得は極めて困難として候補地から除外し、その後臨時評議会において金川地区と角間地区の両地区を移転候補地とした[15][13]。同年12月には、将来計画検討委員会に「総合移転実施特別委員会」が設置され[13]、1980年4月には、石川県及び金沢市が「金沢大学総合移転対策本部」を設置した[13]

一方、教養部は当初から「移転を考えていない」との立場をとっており[16]、1979年7月の臨時評議会において総合移転の意思決定をする際にも、教養部は城内キャンパスに残留するとされていた[12]。しかし、文部省は、教養部を除いた移転は認められないという態度を示した[17]。大学側は審議の結果、「教養部の移転に関しては、教養部の自主的判断を尊重する。」ことを決定した[18]

1980年11月に開催された臨時評議会では、総合移転の移転候補地選定について意見を一致させることができなかった。そのため多数決によって、候補地について「角間地区を選定する」と決定し、土地取得面積を200 ha、うちその第一段階として1981年度の概算要求において91 haを要求するとした[19]。しかし、文部省側は「教養部を含めない91 haの土地取得費の概算要求は全く不可能である」とする見解を示し[20]、1980年12月に閣議決定された政府予算案では、「金沢大学総合整備移転調査費」は計上されたものの、土地取得費30億円余りの計上は見送られた[21]

このような経緯を踏まえ、1981年3月13日に開催された臨時評議会では、教養部の移転問題を含めて協議が行われた[22]。そして同年3月20日の臨時評議会において、「金沢大学は、その統合的充実発展のため、医学部および同附属病院を除き、速やかに角間地区200 haに移転統合しなければならない」とする学長所信が了承された[23][24]。これを受けた文部省は一定の理解と評価をしたが、同時に積極的な全学一致の体制がなければ、大蔵省を説得し移転の実現を図ることが困難な状況にあることを示した[25]。その後、同年5月に行われた臨時評議会では、賛成多数で金沢大学総合移転を決議した[26][24]。一方、同年4月、教養部会は論議の結果、「学長が教養部の意向を無視した評議会の運営を行ったことについて、強く抗議する。」と結論付けた[27]

1982年度(昭和57年度)から、政府予算に総合移転の用地取得費が計上され[28][26]1984年(昭和59年)3月から、用地の購入を開始した[29]。1984年10月29日には、総合移転整備事業の起工式が、角間町の移転用地で行われた[28][29]1986年(昭和61年)6月28日には、新たに大学門前町となる、金沢市若松・鈴見地区整理事業の起工式が行われた[30]。そして、1989年(平成元年)7月31日に総合移転第一次移転部局の文学部・法学部・経済学部棟、及び附属図書館、大学会館が完成し、同年8月に新キャンパスへの移転が進められ、同年10月5日に竣工式が挙行されることになる[31]1992年(平成4年)9月には、理学部棟、教育学部棟が角間キャンパスに移転した[32]

教養部の移転に関しては、教養部会の同意を得られなかったものの、1989年6月に開催された評議会において、教養部校舎の新営を含めた1990年度概算要求が了承された[33]。その後、1989年から1990年(平成2年)にかけて、教養部校舎の新営を含めた移転問題について、教養部会を中心において議論が行われたが、1990年11月に審議が打ち切られている[34]

その間も、教養部校舎の実施設計と校舎建設は進められてた。最終的には1992年4月14日の教養部会において、「今や移転せざるを得ない」という内容の「『総合移転」問題に関する教養部会声明」が全会一致で承認され、同年4月17日の評議会でこの声明が読み上げられたことで、教養部の角間移転が本格的に動き出し、1993年(平成5年)9月に角間キャンパスへの移転が完了した[35]

その後、1995年(平成7年)2月には本部棟が角間キャンパスへ移転し同年5月に総合移転第一期事業記念式典が開催された[36]2004年(平成16年)には薬学部及び工学部の一部が移転、2005年(平成17年)には工学部の大半が移転し、総合移転第二期事業が完了した[37]

2023年(令和5年)12月に策定された『金沢大学角間キャンパスマスタープラン』においては、2070年ごろ、総合移転第一期において建設された建物の改築整備を行うとしており、改築に当たっては、角間地区での改築のみならず、再移転整備の必要性も選択肢の一つとしている[38]

脚注

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注釈

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  1. ^ 地図については、『金沢大学五十年史通史編」693, 710頁を参照。

出典

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  1. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、675頁。 
  2. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、686頁。 
  3. ^ a b 「年表」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、1294頁。 
  4. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、673, 687頁。 
  5. ^ 「年表」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、1295頁。 
  6. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、687-689頁。 
  7. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、673, 690-691頁。 
  8. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、691頁。 
  9. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、692頁。 
  10. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、695-704頁。 
  11. ^ 「年表」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、1295-1296頁。 
  12. ^ a b 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、703-704頁。 
  13. ^ a b c d 「年表」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、1296頁。 
  14. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、704-705頁。 
  15. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、708-709頁。 
  16. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、690頁。 
  17. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、716頁。 
  18. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、717頁。 
  19. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、718-720頁。 
  20. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、720頁。 
  21. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、722頁。 
  22. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、724-726頁。 
  23. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、726頁。 
  24. ^ a b 「年表」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、1297頁。 
  25. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、727頁。 
  26. ^ a b 「年表」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、1297頁。 
  27. ^ 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、727-728頁。 
  28. ^ a b 「第7章総合移転」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、735頁。 
  29. ^ a b 「年表」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、1298頁。 
  30. ^ 「年表」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、1299頁。 
  31. ^ 「年表」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、1302頁。 
  32. ^ 「年表」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、1304頁。 
  33. ^ 『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、741-742頁。 
  34. ^ 『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、742-751頁。 
  35. ^ 「年表」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、752-753頁。 
  36. ^ 「年表」『金沢大学五十年史通史編』金沢大学創立50周年記念事業後援会、2001年8月31日、1306頁。 
  37. ^ 「年表」『金沢大学創基150年史』金沢大学創基150年史編纂部会、2012年5月30日、129頁。ISBN 9784833018739 
  38. ^ 『金沢大学角間キャンパスマスタープラン』”. 金沢大学. p. 42 (2023年12月). 2023年12月22日閲覧。