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利用者:Maris stella/cateLGBT

 ΕΡΩΣ (W.A. Bouguereau)

問題

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まず、削除依頼で、「LGBT 関係の人物カテゴリ」を議論することはできないが、しかし、この問題については、ある程度の系統性を持った議論が必要で、ここに「プロジェクト」があるので、この場で、「LGBT人物関係」のカテゴリをどう考えるか、話を行い、例えば、わたしが何故、「LGBT関係カテゴリ」の作成に反対するのかその理由を述べたくも思います。また、カテゴリが必要だと主張し、削除審議で「賛成票」を入れる方は、何故「賛成」なのかを明らかにして戴きたくも思います。以下、たいへん長文ですが、これぐらい述べないと理解されない可能性があり、述べても、理解しない方もいるでしょう。仕方ありませんが。(なお、この文書は「参考資料」として、他の人の編集を避けるため、利用者ページのサブページに置きます)。--Maris stella 2007年6月8日 (金) 11:11 (UTC)

LGBT の概念の欧米POV性

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最初に、そもそも「LGBT」とは何なのか、ということを考えるというか共通認識がないと話にならないとも思います。LGBTは記事がありますが、現在リダイレクトで、性的少数者へと繋がっています。では、性的少数者とは何なのかです。具体的には、ゲイ・レズ(男性同性愛者と女性同性愛者)の同性愛者、そして両性愛者が最初の LGB で、最後の T はトランスジェンダーです。問題は、これらの人たちは性的少数者なのか、ということです。

記事を読む限り、そこに記されていることは、欧米での話が中心で、様々な色を組み合わせたシンボル・フラグも欧米で使用されているものです。つまり、「LGBT」というのは、北米及び西欧における「性に関する抑圧や差別的概念への抵抗」と「その為の権利主張の社会運動」という意味を持っています。このことについては、異論はないと思えます。

ところで、では、このような「LGBTの概念」や「権利社会運動」が、世界的に見て、グローバルに見て、一般性を持つのかという問題があります。日本語版では、やはり日本がメインに来ますが、日本において、こういう概念や運動が一般性を持つのかということが疑問になります。更に、アフリカの諸社会ではどうか、中国では、インドでは、イスラム世界ではどうか、という問題もあります。これについて:

  1. 欧米では、LGBTは一般的な概念で権利の社会運動である。
  2. 非欧米世界では、LGBTとは何かということが、そもそも曖昧で存在しない。
  3. しかし、欧米で主流となっている人権運動はやがてグローバル基準となるはずである。
  4. 日本語版でも、このグローバル化に遅れてはならない。
  5. そこで、日本語版でも、欧米版に並んで、とりわけ英語版に範を取って、「LGBTの人物カテゴリ」を作成すべきだ。
  6. しかし、これに対する反論として、LGBTは北米と西欧の社会の文化伝統や社会構造、価値観などと密接に関係したもので、他の社会や文化では、同じものはない、という反論が可能である。日本では、欧米の模倣が盛んで、その他の社会や文化でも模倣がある。しかし、日本においても、LGBTまたは性的少数者というのは、それほどに明確な概念や社会運動として成立しているのか、成立し得るのか、この点が大きな疑問でしょう。

LGBT の問題や概念、社会権利運動は欧米に固有のものだと考えます。日本や他の諸社会で類似したことがあっても、それは文化背景の違いや、社会構造の違いから、ファッションか、または見た目の類似性に過ぎず、本質的には別のものだと思います。この場合、LGBTは欧米には存在するが、グローバルには存在しないという意見です。存在しないというのは、明確にそれと思えるものが見あたらないからです。「存在する」という意見の方は、存在する証拠・典拠を出してほしいです。ファッションや一部の上滑りしている導入以外に、どれぐらい諸社会で意味があるかです。

LGBT 概念と世界的な性のありよう

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LGBT というのは、レズ・ゲイ・バイセクシュアル・トランスジェンダーの略なのですが、最初の三つは性的指向で、第四のトランスジェンダーは、性自認(ジェンダー・アイデンティティ)の問題で、トランスジェンダーの人のなかで、また異性愛同性愛両性愛があります。これらを一緒にするのは、「性的少数者」という括りからだと言えます。しかし、そういう括りに妥当性があるのかです。

次に、性的指向としての異性愛とか同性愛は、先天的な要素があるようで、しかし、これは色々な議論があり、後天的な要因の方が大きいとも言えます。何故なら、「真性同性愛」というのはあるいは遺伝的な素因があるかも知れないとしても、同性愛は、人間の発達途上で、普通誰もが通過するとも言えるからです。同性への好感とか友情とか憧れとか恋慕とかは、性的な指向または嗜好としての同性愛とどう違うのか、一般の人の場合は、厳密には区別が付かないと云うのがあります。連続しているのです。

欧米以外の社会においては、人は発達に応じて、同性愛や両性愛の段階を経験し、やがて結婚して異性愛になるという発達のモデルがあります。このことは色々な書籍に記されていますが、A・ストーの少し古い本であるが、『性的逸脱』(岩波書店)においては、フロイト派精神分析の理論を活用しながらも、それに捕らわれない「性の逸脱」を記述して、「成熟とは、異性との対等な愛情関係を築くこと」で、その段階に至るまでに、人は同性愛や両性愛を経験するとされています。

実際のところ、この「成熟」の達成は極めて難しく、多くの人は、両性愛であるというのが実情であるというのがストーが述べていることで、また古今東西の世界中の社会やその文化の研究からも、両性愛が一般であるという考えが出ています。同性愛を宗教的・道徳的禁忌として強く意識するのは、欧米のキリスト教的文化の社会で、そのキリスト教社会内部でも、実情として人々は、両性愛が多数であり、両性愛の人が社会的に目立つのは、同性愛的傾向の部分においてです。

LGBT の人物カテゴリの問題

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社会・文化と LGBT

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LGBTは極めて欧米的な概念で、また社会現象だと言えます。この運動を自覚的に捉えている欧米、とりわけ北米においては、自分はレズである、ゲイである、バイセクシュアルである、トランスジェンダーであると社会的に宣言公表することは、社会運動の一つの動きのなかで支えられていることだとも言えます。「LGBT運動は正義である」ならば「自己が、LGBTであることを宣言することも正義の運動の一環である」。

同性愛の禁忌などは、欧米の文化影響を受けて、日本の社会にも影響を及ぼしています。日本の社会の歴史を見ると、男色を行っていた者が犯罪者であるとか、反社会的な者で、刑罰を受けたなどという記録はありません。男色専門のものもおれば、女色も男色もありの者もおり、女色専門の者もいる。これは女性の場合もそうです。同性愛も両性愛も日本の明治初期頃までは、何も問題がなかったと言えます。他の社会でも似たようなことがあります。中国、インド、イスラム世界でも、同性愛や両性愛は犯罪ではなかった。『クールアン』にはアッラーの恵みで極楽に行った者には、人種の違う複数の美女や、美少年の小姓がかしずいてくれと書いてあります。この場合、性的な欲望を満たしてくれるという意味だと解釈するのが通常です。

日本に限って云えば、男色・女色やそのミックスに寛容であった文化に代わって、西欧的なキリスト教的禁欲主義、道徳や倫理が入ってきます。

男性の女装は欧米では、大きな問題で反社会的な行為とも見なされます。ところが日本では、女装の伝統があり、歌舞伎の女形が有名ですが、何かの機会があると、女装を楽しんでいたという伝統もあるのです(どこに出典があるかは、男娼において、若い者だけでなく、年長の男性も女装するというのが、それほど奇異でもなかったし、いまでも奇異ではないという文化が残っていることから言えます)。

LGBT というのは、日本ではそんな言葉はなかったが、現象としては古くからあり、それに対し日本の社会や文化は寛容であったというか、「変人」だとかいう評価はあっても、反社会性とか犯罪性などなかったというのがあります。

LGBT と人権問題

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ところが、LGBT という言葉や概念を導入すると問題が起こって来るのです。ペイガニズムとよく似ていて、「抑圧や弾圧があっての LGBT 人権運動」なのです。日本では、抑圧や弾圧や犯罪性の糾弾などが、LGBT の人に対してあるのかということです。女装メンズ・スカートで、変人だ、変態だという話があるかも知れません。しかし変態自体が、変態性欲の項目に書いているように、西欧から流入してきてファッションとして大正時代に流行したものです。

日本では、同性愛両性愛異性装女装など)、あるいは男性が女性になりたいとか、その反対は、犯罪でもなければ、反社会的思想・嗜好・行動でも何でもないのです。欧米では、DSM の例がそうですが、同性愛を「精神医学の診断マニュアル」で精神障害だと書いていました。いま、トランスジェンダーやトランスセクシャルが精神障害に入っていますが、これもおかしいという主張や運動があります。

北米、とりわけ英語版(またフランス語版など)のウィキペディアでは、LGBT を性的弾圧や抑圧に対する抵抗運動という認識があり、カミングアウトした人は、人権運動の流れにあって記録する必要があるという発想がおそらくあるのでしょう。

しかし、日本語版で考えると、LGBT に対し、弾圧や抑圧や人権的な制限は実はそれほどないというのが実情です。GID の手術手順(SRS)が日本ではなかなか実現しないというのは、日本が遅れているからではなく、トランスジェンダーなどの問題に対し、別の文化規範を持っているからです。

カテゴリの含意と問題

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「LGBTの人物」というカテゴリ設定そのものが、極端な欧米POVであるという事実。英語版やフランス語版では、「LGBTの人物」は、弾圧や抑制に抗して人権運動の流れのなかでカミングアウトした人たちを明示して称賛し、あるいは、LGBTは世界的に問題ないのだということを証明したいが為に、導入されているカテゴリとしか思えないのです。

しかし、LGBTの概念がそもそも明瞭でない社会、LGBTがあっても、それが反社会性とか犯罪性と関連付けられておらず、抑圧や弾圧の反人権的圧力が希薄である社会で、このカテゴリを中途半端に使うと、LGBT の否定的側面がカテゴリを貼付された人物に与えられるが、しかし、それで何かの意味があるかというと意味がないと言えます。

LGBTという社会運動に対し、中立的であろうとすれば、「LGBTの人物」というようなカテゴリがそもそも中立性を破壊しているのです。「LGBTの人物」というカテゴリの使用は、一方で、「弾圧や抑圧に抗した人」という評価の意味がある他方、弾圧や抑圧があるということからは、違う立場では「犯罪者・反社会性を表明した人物」という評価の意味もあるのです。日本語版では、前者の意味は希薄になり、単に、同性愛であった、トランスジェンダであった、というだけでこのカテゴリが使われ、そうすると、「犯罪者・反社会性」のレッテルも同時に貼っていることになります。

それ故、このようなカテゴリは、LGBT に対する弾圧や抑圧や人権侵害が顕著な社会では、人権の擁護・確立のためのカテゴリの意味があるかも知れませんが、世界的に・歴史的に見ると、一般性を持たず、日本語版だと、むしろ否定的意味しかない(覗き見趣味に堕する)ということしかないのです。--Maris stella 2007年6月8日 (金) 11:11 (UTC)

また明瞭に述べておかねばならないことは、上でも述べていますが、人は発達段階に応じて、性的指向トランスジェンダー性が変化して行きます。欧米では、自分は「同性愛者」だと宣言することは非常に重い意味を持ち、その発言には人権問題と関連した言説の責任が付いて回ります。
しかし、日本やその他の世界では、男性が「同性愛者」と名乗っても、「そのとき、そうだった」ということで、「いまは女が好き」とか、またはその反対もあり、人間の一生で、性的指向性的嗜好は変化し、欧米のような厳粛な問題として LGBT が取り上げられていない社会では、同性愛とかトランスジェンダーとか、本人がそう述べても、行動で示しても、だから永続的にそうだとはならないのです。ここからも、カテゴリとしては問題があることが明らかなのです。(体重別に人物をカテゴリ分類することがナンセンスであるのと似ているでしょう)。--Maris stella 2007年6月8日 (金) 11:11 (UTC)