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利用者:Maria hayashi/sandbox

ザ・ストリーター

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ザ・ストリーターは有限会社アクセルが制作・販売していたバイクの走り屋に特化した取材映像と投稿映像などを番組化したビデオシリーズ。1995年にパイロット版が発売され、96年から98年までザ・ストリーターVOL,1~ザ・ストリーターVOL.6、ザ・ストリーター外伝(市販・レンタル)、ストリートパダイスの計8巻が制作された。

走り屋の起源

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わが国で公道において暴走行為を行う者たちを、1960年代頃は「カミナリ族」と呼んでいたが、1970年代以降「暴走族」として扱われるようになった。そのころの日本のバイク業界は黎明期から成熟期を迎え、市場は世界に向けて各社が次々と大型バイクを発表していった。1961年にホンダがドリームCB750FOUR、71年にスズキがGT750、72年にヤマハがTX750を相次いで発売し“ナナハン”の全盛期が到来した。(当時はメーカー自主規制により、750ccが国内仕様最大の排気量だった)高校生の主人公がノーヘルでナナハンを乗り回す少年漫画「750ライダー」の大ヒットなどもあり暴走族の中でも“ナナハン”をはじめとする大型バイクの人気が高く、それにともなう事故や騒音公害は社会問題だった。1975年(昭和50年)10月1日、道路交通法の改正が施行され、自動二輪車に限定制度が定められ、中型自動二輪限定及び小型自動二輪限定免許が設けられる。このカテゴリー分けの、もっとも問題だった点は、「小型二輪免許」と「中型二輪免許」は教習所で取得できるが、400cc超えの「大型二輪免許」のみ、教習所での取得制度を“無し”としたことだ。つまり、「大型二輪免)」の取得方法を、普通自動車免許と同様に18歳以上とし、教習所での取得が認めらず試験場での“一発試験”のみとしたことだ。この一発試験の合格率は5%以下と言われ、合格者は排気量の限定無しの『限定解除』というスタンプを押印した運転免許証を持つことができた。その結果、国内では、中型二輪免許で乗れる400ccや250cc市場が活気付き、「カワサキZ400FX」や「ホンダCBX400F」などの名車が誕生した。しかし、道交法の改正は「暴走族」対策にはならず、75年当時警察庁が確認していた暴走族は全国で570団体約3万人とされバイクでの暴走行為以上にグループ間での凶器で武装しての抗争事件が多発し凶悪化していった。78年の道交法改正でバイクのヘルメット着用が、一般道路、高速道路を問わずに義務化され、さらに「共同危険行為等禁止規定」が新設され、警察の取締りも厳しくなっていった。このころから、元来のカミナリ族の嗜好に相当する、運転技術を重視するスタイルの者が、仲間うちで「街道レーサー」と呼ばれた後に「走り屋」を自称した。「暴走族」とは違って集団で街を徘徊するのではなく、人里離れた(=障害物となる他の交通が少ない)山道などを好み運転技術や車の動力性能に重きを置く傾向を持つ。走り屋は レースやラリーなどの競技を意識したものが多く、バイクの場合、峠道などのウィンディングロードをサーキットのコーナーに見たててコーナリング技術を競う「峠型」と、湾岸エリアなどの舗装された平地上にパイロンを置くなどしてコーナーを模してジムカーナ的な技術を競う「湾岸系」の2つに大別される。ほかに、第三京浜国道や首都高湾岸線などの直線でトップスピードを競う「高速型」もいるが、「高速型」自らを走り屋とは称さない。自動車の場合、ラリーストが夜間に林道などで無許可の練習走行を行うことも広い意味での「走り屋」に含まれ、バイクの場合にもオフロードバイクの林道走行者は存在するが、彼らも自らを「走り屋」とは言わない。

走り屋全盛期

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1980年代初頭から始まった日本のバイクブームは、日本の角川映画の「汚れた英雄」の大ヒット、週刊少年サンデーの「ふたり鷹」、週刊少年マガジンの「バリバリ伝説」、汚れた英雄で主役のスタントを演じたレーサー平忠彦を「資生堂 TECH21」がスポンサード、レースがメジャーなイベントになり、それにともない芸能人がレースに参加したりとロードレースブームが起こった。ロードレース世界選手権のトップカテゴリーで2スト500ccが全盛であったため、ホンダNS400R、ヤマハRZV500R、スズキRG500Γ/RG400Γ、レーサーのイメージをそのままに発売されたが、市販車として人気の中心にあったのはそのテクノロジーをフィードバックした中型排気量がレーサーレプリカと呼ばれブームを牽引した。ブームの初期はヤマハRZ250に始まり、その対抗馬としてホンダがMVX250Fを投入し水冷2ストロークエンジン市場が活気づいていった。その後スズキRG250Γがフランコウンチーニの人気ともに登場し大ヒット、翌年ホンダはフルカウルのNS250R/ノンカウルのFを投入、さらに翌年ヤマハが純レーシングマシンであるTZ250の公道仕様とも言えるハイスペックモデル TZR250を発表した。4ストロークの場合は、当時国内最高峰レースだった鈴鹿八耐レースの前座であった鈴鹿四時間耐久ロードレースのレギュレーションが2st/250ccまたは4st/400ccの市販車あったため、ホンダCBX400FやカワサキZ400GPなどの直四バイクが競い合った。この4耐人気を受け市販車レースF3レースが全日本化され、一気に400㏄のレプリカマシンが市場を席捲した。ホンダVFR400R、スズキGSX-R400、ヤマハFZR400、カワサキZXR400は、限定解除が難しい時代の実質のトップエンドとしてセールスされていた。このように素人がバイクレースに馴染む土壌ができた80年代半ばではあったが、実際のサーキット場を走るのは一握りで、多くのレプリカユーザーは公道で走りを極めることになる。峠や湾岸の走り屋スポットには主にコーナリング技術を競う走り屋とそのテクニックを見物するギャラリーで賑わった。そんな時代1986年に二輪車の走り屋を対象に特化したオートバイ雑誌バリバリマシンが平和出版から創刊された。他のバイク雑誌がマシンを中心に構成されていたのに対してバリバリマシンは、マシンの乗り手である走り屋にスポットをあて、峠や湾岸エリアへの現地取材を行う一方で、走り屋からの投稿写真を多用する構成が特徴的だった。そのため、全国各地の走り屋スポットに、その場所を代表する走り屋チームや人物が出現し、誌上ではタレント並みの人気者もいた。

ゲームの発売からアングラビデオへ

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4輪車の走り屋ゲーム「首都高バトル」をヒットさせたBPSが、実在のバイクの走り屋を実在の公道で競わせるスーパーファミコンゲームが96年3月に発売された。このゲームの企画協力者がのちの有限会社アクセルの社長となる川瀨清司であった。川瀨は自らも大型バイクを駈る走り屋で当時は東京海上火災保険のサラリーマンだった。川瀨は全国各地の走り屋スポットを選定し、その主となる走り屋の有名人をスカウトしてゲームキャラとして参加出演するオファーを取り付けた。その企画の過程で全国の走り屋の活動シーンを8ミリビデオに収録し、それを編集した通称「スパヤバビデオ」が仲間内で出回りだす。スパヤバとはスーパーにヤバい走り屋のビデオで、各地の走り屋の走行シーンを1本30分ほどにBGMに乗せて編集し、PART1からPART5まで制作され、多いものは300本ほどダビングされ出回ったとされる。完全なアングラビデオで、すべて無許可撮影、BGMも著作権侵害、事故シーンも警察の取締りシーン、最高速の実写撮影など、現在なら犯罪となるような内容も含まれており、それが人気をよんだ。


ザ・ストリーターの発売と廃刊

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スパヤバビデオはいわゆるアングラビデオだったが口コミで全国的に広がったことから、川瀨は本格的に市販ビデオを制作・販売するために有限会社アクセルが設立した。これを機に川瀨は10年務めた東京海上火災を退社し、有限会社アクセルの社長兼ザ・ストリーターのプロデューサーに就任した。ザ・ストリーターのディレクターはTBS報道局の契約社員で走り屋でもあある川瀨の妻が務めた。製品は半数がバリバリマシンの公告などによる通信販売で、残りが全国のバイクショップに置かれた。価格は内容時間50分で3,600円。当時の販売ビデオとしては低額な設定だった。ザ・ストリーターとして市場に置かれるようになってからは、バイクの違法改造や集団での迷惑行為をどう扱うかが川瀨の悩みどころであったが、走り屋のステージをサーキット場を貸し切ることでイベント化し、あくまでサーキット内での走行や改造行為とし、チーム名や個人名をクレジットした。しかし、本当に人気なのは峠の過激な走行シーンだったが、これは投稿作品を収録するという、ニュース映像的扱いとした。この当時の市販ビデオはコピーガードをかけてダビングを防止するのが一般的だあったが、素材の取材テープが8㎜などの民生品のため画質が下がることを勘案しコピーガードは付けなかった。それでも1人に1巻購入してもらうために、1巻ごとにシリアルナンバー入りのカードを付属し、サーキットイベントの参加申し込みや投稿の際に使用させることに使用した。このような工夫と圧倒的な口コミ力でザ・ストリーターVOL.1は1万本の売り上げを記録し、レンタル品としてTSUTAYAに置かれたザ・ストリーター外伝は総数2万3千本のヒットとなった。インターネットのない時代の販売物ビデオとしては異例の人気を博したと言える。このように一部のライダーの間でヒットしたザ・ストリーターであったが、走り屋ブームの下火に伴い98年に幕を閉じた。その後、ディレクターを務めていた川瀨の妻の話によると、97年のいわゆる京都議定書で「終わった」と思ったと語っている。この時期に相次いで2ストロークバイクが廃盤になり、インターネットの普及に伴い2000年以降はバイクの役目が限定的なものになった。郵便配達のカブの需要はあっても、バイク便の需要は少ない。川瀨の妻は2012年に電気自動車に乗り始めバイクから降りている。「時代には抗えません」なお、アクセルの社長であった川瀨清司はザ・ストリーターの廃盤前に病死したとされている。