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利用者:Man who was ototoi/5

1773年版の口絵と題扉

ハリスのコヴェントガーデン・レディ目録は1757年から1795年にかけて出版された、ジョージ王朝時代のロンドンで仕事をする売春婦を年鑑の形でまとめた本である。小さめの洒落た手帳であり、印刷も出版もコヴェント・ガーデンで行われ、2シリングと6ペンスで販売された。1791年当時の記録によれば、毎年8千部程度は売れたとされている。

一年ごとに発行されるこの本は、コヴェント・ガーデンの周辺で仕事をする120人から190人の売春婦の身体的な特徴や性行為をする上での特技を項目にして目録にしてある。エロティックな文章を通じて一覧に並ぶ項目は女性たちを生々しいまでに細かく論評しており、そのほとんどが娼婦を褒め称えるものだが、中には悪い癖を批判するどころか少数だとはいえひどい扱われようの女性もいた。おそらくそれは決して正体を現さないこの目録の著者の覚えがよくなかったことを意味している。

普通はサミュエル・デリックがこの「ハリスの目録」を考案した人物とされるが、コヴェント・ガーデンで女を斡旋していたジャック・ハリスの活躍に触発されたと思われる。平凡な作家であったデリックはこの目録を1757年から彼が1769年に亡くなるまで書き続けたとされる。その後の「目録」の著者は定かでない。すべての版でH.レンジャーという男の偽名が使われて出版されたが、実際には1780年代後半から3人の男、ジョンとジェイムズ・ローチ、ジョン・エイトキンによって印刷された。

世間がロンドンの性産業に厳しくなり始め、また改革者は当局に行動を起こすよう求めだしたため、「ハリスの目録」の出版に関わった人間は1795年に罰金を科され、投獄もされた。したがってこの年に発行された版が最後になったが、その頃には内容に婉曲なところがなくなり、初期にはあった新奇さ(originality)も失われていた。現代の作家はこの「ハリスの目録」をエロティカの作品だとみなす傾向にあり、その1人の言葉を借りればこの本は「独り淫蕩にふける」ために考え出された[1]

内容

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背景

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サットン・ニコルズによるコヴェント・ガーデン(版画 1720年頃)
シェイクスピア・タバーンが北東隅(中央右)にあり、そこにジェイン・ダグラスのように悪名高い売春宿のおかみたちの建物が並ぶ。

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「ハリスのコヴェントガーデン・レディ目録」が最初に印刷されたのは1756年のクリスマス以降のことである。「H.レンジャー」なる人物によって出版されたこの年報は新聞の一面に広告が出され、コヴェントガーデンや書店で売られた。毎年出される洒落た手帳は「美しく装丁が施さていた。…十二折の当世風というやつだ」[2][nb 1]。150ページ以上あることはまずない比較的薄い本であり、コヴェント・ガーデンで仕事をする120人から190人の娼婦たちが詳細に記されていた。価格は1788年の時点で2シリング6ペンスでり、中流階級には手が届きやすかったが、労働者にとってはだいぶ高価だった[3][4]

しかし「目録」はロンドン界隈の売春婦を一覧にした最初の本というわけではなく、1660年から1661年にかけて出た5巻本の「The Wandering Whore(さまよえる娼婦)」のほうが先で、時代的にはイギリスで王政復古が起こって間もない(そして自由主義的になっている)頃だった。伝えられるところでは首都の性産業を暴露した本であり、一般にジョン・ガーフィールドの作とされるが、この本は売春婦の見つかるであろう通りを一覧にしているだけでなく、フリート通りやロング・エーカー通り、リンカーンズ・イン・フィールズなどの地域にある売春宿の住所をまとめていた[5]。「The Wandering Whore」は対話編の形をとっており「狡賢い娼婦マグダレナ、麗しの娼婦ジュリエッタ、猥らな色男フランシオン、乱暴な斡旋人グスマン」[6][7]の会話からなっていて、広く知られてはいるが遵法精神にすぐれた人々であればこの類の人間に出会うことはないという但し書きがついていた。他にも「A Catalogue of Jilts, Cracks & Prostitutes, Nightwalkers, Whores, She-friends, Kind Women and other of the Linnen-lifting Tribe」という本が1691年に出版されている。この目録に身体的特徴がまとめられている21人の女性は、スミスフィールドで聖バーソロミュー祭が開かれている間に教会のまわりで仕事をしていた。例えばメアリ・ホランドは「背が高く、しとやかで容貌に優れ、贔屓の前でははにかみ屋」だが、歓心を買うには「20ポンドかかる」。その姉妹のエリザベスはもっと安くて「金には頓着せず、夕食を奢って2ギニーも出せば上機嫌になる」とあった[8]

内容

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「ハリスの目録」を開くと扉の反対側にはいつもそれなりにエロティックだが陳腐な口絵が載り、1760年代から1780年代まで売春についての長めの注釈がついていた。この前口上によれば売春は社会のためになり、男が本質的にそなえる暴力性を和らげてくれるものだという。そして買い手は大義を忘れぬパトロンだと語って「財布の紐を緩めなさい。売春と聞いて、その崇高な決意を鈍らせてはいけない!」と述べるのである[9]。売春は18世紀ともなれば社会的に軽蔑されるのが一般的であり、1789年版の序文でも「どうしてこの自然なる本性の犠牲者が…社会から追放せんばかりに目の敵にされるのだろう、永遠に無慈悲な独裁者の手につながれたままなのだろうか」と不平を鳴らし、こう続ける。「一国の長が自分の好みにあわせ国家の道義というものを蔑ろにしている…これ以上罪深いことがあるだろうか?」[10]

ジョシュア・レノルズの「キティ・フィッシャー」(1763年前後)
イギリスの有名な高級娼婦であるフィッシャーは「ハリスの目録」で言及されたことがある

「ハリスの目録」にまとめられているのは、基本的に女性の年齢と身体的特徴(胸の大きさも含めて)さらに性行為をする上での特技であり、あるいは性器の具合が書かれていることもあった。それに付け加える形で、娼婦として何年仕事をしてきたかが書かれ、歌や踊り、会話が上手であればそれも記された。住所も載り、価格は5シリングから5ポンドまで開きがあった[11][nb 2]。様々なタイプの娼婦が一覧にされ「卑しい生まれの道を外した淫売」[9]からキティ・フィッシャールーシー・クーパーのような名だたる高級娼婦まで幅広かったが、後の版になるとただ「上品なしぐさの売春婦で賞賛に値する」[9]という簡素な文章になった。フリート通りのnumber six Hind Courtに住むドット嬢の魅力が1788年版で述べ立てられているが「立ち姿は対になったアラバスターのモニュメント」であり「肢体は均整がとれ、『境目』には豊かな『蔓草が波打ち』、『ルビーの玄関』と『繁った木立』が山の頂で冠のよう、そしてにこやかに客を中へと手招きする」とある[13]。同じ版ではダベンポート嬢の項目の前半部にやはりけばけばしい描写がされた後に、こう結ばれる。「歯は驚くほど綺麗である。背が高く、プロポーションも良い(全裸にしてみればたちまちわかる。立派な僧侶ようなそぶりでキュテラ島の儀式を行えば裸を拝んでもよいとゆるしが得られるだろうだろう)。まるで三美神に4人目がいたか、メディチ家のヴィーナスが命を吹き込まれ目の前で息づいているかと思うほどだ。…ハンナというおかみ はついているが、こちらも親切で気前が良い。しかも余計に2ギニーほど握らせたならば何も文句は言わないのである」[14]。ミドルセックス病院に近いnumber two York StreetのClicamp嬢は「one of the finest, fattest figures as fully finished for fun and frolick as fertile fancy ever formed ... fortunate for the true lovers of fat, should fate throw them into the possession of such full grown beauties.」となる[15]。しかし「ハリスの目録」の特徴をもっとよくとらえているのが、1764年版のウィルモット嬢の項である。彼女はジョージ3世の弟エドワードと色ある出会いを交わしたとされているのだ。

He gazed on her a while with eyes of transport and fondness, and gave her a world of kisses; at the close of which, in a pretended struggle, she contrived matters so artfully, that the bed-cloaths having fallen off, her naked beauties lay exposed at fiill length. The snowy orbs on her breast, by their frequent rising and failing, beat Cupid's alarm-drum to storm instantly, in case an immediate surrender should be refused. The coral-lipped mouth of love seemed with kind movements to invite, nay, to provoke an attack; while her sighs, and eyes half-closed, denoted that no farther resistance was intended. What followed, may be better imagined than described; but if we may credit Miss W-lm-t's account, she never experienced a more extensive protrusion in any amorous conflict either before or since.[16]

しかしヨーク公はこの目録で言及される多くの有名人の1人であるにすぎない。ジェイムズ・ボズウェルエルンスト・アウグスト、ウィリアム・トッド、チャールズ・ジェイムズ・フォックス、ジョージ4世、ウィリアム・ヒッキー、フランシス・ニーダム、ロバート・ウィルポールなど他にも名の知られた人物は数多い[17]

評釈

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女性がどうやってこの道に入ったのかは、目録を読む限りでは、たいてい幼心の純真さに理由があり、少女が男と約束して家を飛び出し、最後はロンドンで捨てられるといった話が添えられている。何人かには強姦について触れられており、婉曲な言い回しで「意に反して誘惑された」女性と書かれている。レノラ・ノートンもそういう風に「誘惑された」1人であり、彼女の項目にははっきり示されているが、まだ子供であったころにそういうことを経験したのだという[18]。「古い都市伝説」[19]にある群衆に囲まれる若い女性がよこしまな業者にひっかかる姿をウィリアム・ホガースは「娼婦一代記」に描いているが[20] 、現実にこういう話がなかったわけではなく、女性たちは様々な―そしてたいていは平凡な―理由から売春を生業にした。地方から出てきた人間が職を探していうちに、気付けばあくどい雇用主の慈悲にすがっていたり、後ろ暗い手段で性産業に誘い込まれたりということもあった。また「ハリスの目録」にはいかに女性が貧困から抜け出したかを述べている項目もある。ベッキー・ルフェーヴルというかつての街娼は、商才を活かして一財産を築いた。同じ事がマーシャルなどにもあてはまり、複数の版で言及されている。これら多くの女性は富裕な売春業者になり、中には金持ちの貴族と結婚したものもいた。ハリエット・パウエルはシーフォース伯ケネス・マッケンジーの妻になったし、エリザベス・アーミステッドはチャールズ・ジェイムズ・フォックスと結婚した[21]

政治的な要素を垣間見せる箇所もある。1773年版の、名高い娼婦であるベスティ・コックスに関する項目には、新しく出来たロンドン・パンテオンで上流階級の集まりに加わることを拒まれたときに、他の人間に交じってファイフ公爵が剣を抜いて、コックスを中に入れてやった様子が書かれている[nb 3]。あるいは売春を擁護する文章を含んでいる時もあった。初期の版の主張するところでは、性産業は若い女性を強姦から守り、鬱屈した既婚男性にはけ口を用意し、結婚していない若い男が「 le péche Template:ママ que la Nature désavoue(「自然に逆らう罪」つまりソドミー)」に走らぬようにしている[23]。しかし、こういった視点はレズビアニズムには向けられない。イングランドでは男性同士の性行為と異なり、レズビアンが違法になったことはなかった。キャベンディッシュ・スクエアのウィルソン嬢は「女性とはベッドを共にする仲になっても、男性のパートナーとセックスをするときのような本当の喜びは得られない」と考えたとあるし、アンとエレノア・レッドショーはタヴィストック通りで「Ladies in the Highest Keeping」に控えめなサーヴィスを提供している女性たちだった。そして他の女性たちは自分たちの行動を個人的なものに留めておくことを選んだ[24]

『コヴェント・ガーデンの市』(バルタザール・ニボット 1737年)

街娼に関して決まって聞かれる不満といえば、女たちの汚い言葉遣いだった[25]。概して一覧にあるほとんどの項目では、罵り言葉をつつしむ女性たちを好ましくみているが、「ハリスの目録」の1793年版に書かれた評は多義的な傾向がある。コーニッシュ夫人は品のよい女性だと説明されるが、時に「絶え間ないおしゃべり」という言葉が入り込むし、ジョンソン嬢の「言葉遣いの乱暴さと行儀の悪さ」に走りがちな性格でも崇拝者には困っていないように書かれる。ラッセル夫人は愛嬌があり「若年層に客が多いが、そういう人々はみだらな言葉が飛び出す悪魔の口を見るのが好きだった」とあり、崇拝されていたのも「何よりまずその品の無さで、彼女は変わった悪口の大名人だった」[26]。売春にはつきももの飲酒も厭われる要素だったが、1773年版のウィリアム夫人の項は評者の悔悟の念にあふれており、家に戻るころには「立っていられないないほど酔っ払っているために、隣人にも何のお楽しみもない」。ジェニー・カーバード嬢は1788年版によると「あまりにも酒に執着がある」。しかし全ての項目がこうした非難をしているわけではない。1793年版のハーヴェイ夫人は「たびたびワインの杯を干す」のだが変わることなく「たいへんに細やかな気遣いのできるレディーで…こすり挙げる動きも実に手際が良い」[27]。概してほとんどの項目は実際以上によく書かれているものだが、褒めているとはいえないものも含まれている。1773年版はベリー嬢を告発して「腐りかけているのか、息づかいも死人のよう」とある。売春婦はこの目録に載るために金を払っていた可能性を考慮すると、デリンジャーが言うようにこういった注釈には書き手のいらだちが現れているといえるだろう。つまり当の女性が支払いを拒んだのだ[28]。他の箇所でも買う側の目線からみた不満の度合いがみてとれる。1773年版のディーン嬢は「ひどく無頓着に」仕事をし、客が「喜んでみせている」のに、下の世話をするのに忙しい。他の女性も化粧を重ねすぎているとか、「ベッドを共にするには怠け者すぎる」といった理由でけなされている。売春婦は猥らで多情であり、セックスに飢えているといったよくある考え方と、ほとんどが金のために仕事をしているという知識が相克しており、それゆれに目録は報酬をもとめる女性を、あまりに金に執着しすぎると批判しているのだった[29]

作者

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この目録の作者が誰なのかは明らかでない。いくつかの版はサミュエル・デリックによって書かれているが[28]、この人物はいわゆる三文文士で[30] 、1724年にダブリンで生まれ、その後ロンドンに移ってまず役者になった男である。あまり成功せず、作家に転向して「The dramatic censor; being remarks upon the conduct, characters, and catastrophe of our most celebrated plays」(1752年)、「A Voyage to the Moona [31]」(1753年)、「he Battle of Lora」(1762年)などの著作を出版した。デリックは女優のJane Lessinghamと一緒に生活したが、このジェーンがサミュエル・ジョンソンやジェイムズ・ボズウェルと面識があった[32]。ボズウェルのデリック評は「それにしても下手な作家だ」というものだったが[33]、ジョンソンのほうは「デリックの作品を誰かもっと評価の定まった作家の名前で書かれていたら、とてもよいものだとみなが考えただろう」と言っている[34]

サミュエル・デリック

Hallie Rubenholdの2005年の著作「コヴェント・ガーデン・レディー」では「ハリスの目録」の背後にある世界の解釈を行っている。それによると、ジョン・ハリソン―ジャック・ハリスとしても知られている、コヴェント・ガーデンのシェイクスピアズ・ヘッド・タバーンで情報通の実業家であり斡旋人だった人物―が目録の「考案者」(originator)である。だいたい1720年から1730年ごろに生まれた[35]ハリスはコヴェントガーデンで仕事をする売春婦の情報にきわめて通じていたようで、さらには客が使うための部屋や屋敷まで借りていた。斡旋した女性や訪れた土地の記録をとっており、おおかた小さな台帳か手帳の形で持っていた[36]。かつて「シェイクスピアズ・ヘッドの回想録」を書いたことのあるデリックは、おそらく「ベッドフォード・コーヒーハウスの回想録」の共著者でもあり、シェイクスピアズ・ヘッドに馴染みがあった。前者は詳しく「給仕人ジャック…この建物で性愛の愉悦を主宰する男」を描いており、デリックは仕事をしていくなかでハリスのことを学んだのではないかとされている。二人の男のうちどちらが先に「ハリスの目録」を産み出したのかは定かでないが、おそらく謝礼を条件にハリスは名前を使わせたのだろう。そしてコヴェント・ガーデンに対する深い知識と広い人脈に助けられて、デリックは1757年に「ハリスの目録」の初版本を出すことができたのである。野心家であり志高い作家であった彼はこのような問題作に自分の名を出して公表することを好まず、したがってどの版にも名前が出なかったのだ[37]

そして「目録」はH.レンジャーという筆名で印刷、出版され、responsible for such works as Love Feasts; or the different methods of courtship in every country, throughout the known world,[1] 、初版で大成功をおさめたデリックはその売り上げで借金を返すとともに、債務者用拘置所から自由の身になることができた。さらに運気は上がり、1763年にはバースとタンブリッジ・ウエルで式部官となった[32]。そして1769年3月28日に長患いで亡くなるが、莫大な収入にも関わらず、死んだときは文無しだった。公式の遺言は残さなかったが、死の床で1769年版の「ハリスの目録」をかつての友人で恋人だったシャーロット・ヘイズに譲った。この女性は自分で娼館も開いていた[38]。ヘイズが亡くなるのは1813年のことである[39]

「全イングランドのぽん引き将軍」を自称し、権勢を誇ったハリスはたいへんな財産を築いたが、その放埒さはハリスの破滅をも意味した。改革派に促されて1758年4月に当局は「悪所」を探し出し、閉鎖させ始めた。コヴェント・ガーデンも例外ではなく、シェイクスピアズ・ヘッド・タバーンにも捜査が入った。ハリスは逮捕されて地元の牢獄に入れられた後、ニューゲートに投獄された[40]。1761年に釈放されるが、1765年ごろから出版業に興味を持ち始め、エドワード・トンプソンの「The Courtesan」や「The Fruit-Shop」、「Kitty's Atlantis」などを出版しようとして、1766年には諦めたようである[41]。その後シェイクスピアズ・ヘッドからそれほど離れていない所でローズ・タバーンの経営者となり、後に事業を雇い人に任せている。こちらは1790年ごろに取り壊され、ハリスは別のベッドフォード・ヘッドを息子やその妻とともに経営した。ハリスは1792年に死んだ[42]。シェイクスビアズ・ヘッドは1804年に閉店し、4年後に無人の建物はコヴェントガーデン劇場を襲ったのと同じ火事でひどい被害にあった。残存部分は隣のベッドフォード・コーヒーハウスに統合された[43]

後年

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ヨハン・ヴィルヘルム・フォン・アルヘンホルツは1791年にこの目録は「ドゥルーリー通りにあるタバーンの主」が出版していると書いていて「毎年8,000部は売れた」とも言っている[44]。ヘイズが1769年の版以外のどの版にどれだけ関わっているかを示唆するものは何もなく、デリックの死後に誰が目録を書いていたのかは明らかにできていない。1770年代から「ハリスの目録」は目先が変わり、コヴェントガーデンの女性というよりもその生涯へと力点を置いていた。文章がもっと上品になり、かつて人気を博した婉曲な言い回しはみられなくなっていた。そういった変化は表紙にも見て取れるが、例えば表紙絵はより高級なものになっている。内容は初期の版を使い回しており、正確性はほとんど顧みられていない。こういった変化の原因はジョンとジェイムズ・ローチおよびジョン・エイトキンにあると思われるが、彼らは1780年代の後半からこの目録の出版者となっている人物である[45]

In 1795 the Proclamation Society, created several years earlier to help enforce King George III's proclamation against "loose and licentious Prints, Books, and Publications, dispersing Poison to the minds of the Young and Unwary", and "to Punish the Publishers and Vendors thereof", brought Roach up on libel charges. 法廷でローチは目録の歴史を強調し、「これまで誰も出版したことで咎められたことはなかった。そして、文書誹毀(libel)であるとは知らなかった」と主張した。主席判事ロイド・ケニヨンがジョン・ローチは以前にも「ハリスの目録」を売って有罪を宣告されていることに触れると、彼は「神に誓って、今回罪に問われる以前に起訴されたことはない」といった[46]。結局ローチは1年間ニューゲートに投獄されることが決まっただけでなく、3年間の謹慎とその間の保証金150ポンドが命じられた。判事のアッシュハーストが目録を「きわめてわいせつで不道徳な書籍」と呼び、ローチの犯罪を「これ以上ないほどに非道きわまる罪」と表現した"[47]。ジョンの名で起訴されたエイトキンはおそらく同じ版を売ったとして200ポンドの罰金が科されたが、Rubenholdによればこのときすでに彼は死んでいた[48]。一連の裁判の後でこの目録が再び刊行されることはなかった。現存するのはわずかに9版で1761年、1764年、1773年、1774年、1779年、1788年、1789年、1790年、1793年のものである[49]

現代の視点

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Indecency (不作法)』(アイザック・クルックシャンク、1799年)
この版画には同時代の社会が売春行為に向けていた視線が反映されている

「ハリスの目録」は売春が蔓延している市街地に向けて出版された。ロンドンの「売春宿」は1770年代には市壁の外の貧しい地域からは消えており、ウエスト・エンドの三つの地区に見つかるものだった。ウェストミンスターのセントマーガレット、ソーホーのセントアンナと、セントジェームズである。そしてなかでもロンドンの「治安紊乱所」の3分の2以上を占めるのがコヴェント・ガーデン周辺とストランドだった[50]。この地区の特徴は「あらゆる階級と環境のヴィーナスを崇拝する女性が非常に多い」ことだったが、別の著述家はコヴェント・ガーデンをとらえて「でたらめな色事を実践する主会場」と表現している[51]。スコットランドの統計学者パトリック・コルクホーンが1806年に推計を出しているが、大ロンドンにはおよそ100万人の市民がおり[52]、おそらく5万人の女性が社会の各方面に渡って、何らかの形で売春を行っている[53]

女性たちが「ハリスの目録」が出版される際に住所を載せる事に同意していたかについて、ソフィー・カーターは疑問を投げかけている。カーターは目録を「そもそもはエロティカである」として「買い物リスト以外のなにものでもなく…男の買い手が楽しみを得るために言葉が並んでいる」とし、次のように述べる「待っている彼女たちのもとへ取引をはじめるためにやって来る男」[54]はポルノグラフィにおける伝統的な男性の役割の典型をそのままなぞっている。エリザベス・デンリンジャーはエッセイ「装いと男」のなかで同じような感覚を吐露している。「'ひどいむずがり'をおさめるために様々な女性が陳列されること…こそが『ハリスの目録』がイギリスの男に与えた入場券で向かう世界の本質的な側面なのである」[55]。またRubenholdによれば、長年にわたって出版された目録における売春の描写が多様であるということは「排他的な高級市場か単に道の真ん中で商売をしたのかといったあらゆるカテゴライズの試み」[56]をこの本が拒絶するとしている。そして年報の目的は「娼婦を抱きたいという欲望を満たす」[9]ことではないか、つまり「独り淫蕩にふける」[1]ためのものではないかと彼女は言う(H.レンジャーは「目録」のバックナンバーも販売していた)。ほとんど家父長制のもとにあるロンドン社会に売ることは、it is likely that their stories would have differed quite significantly from those recounted by their customers for the benefit of the List's publishers."[57]

「最も引用される数字」となったコルクホーンの推計に同意する意見ばかりではない。しかしシンディ・マクリーリーのいうように、事実としてロンドンにはあまりに多くの売春婦がいるということにはほとんどの人が同意するし、それは彼女たちの商売についての関心を持つ層が広がっていることを示唆している[58]。売春に対する考え方も18世紀の終わりが近づくと硬化したものになっていき、多くの人が売春はわいせつで不道徳だとみなした[59]。そしてそういった雰囲気のなかで「ハリスの目録」も終わりを迎えたのだ。「The Wandering Whore」やエドマンド・カールの「回廊のヴィーナス」(1728年)はしばしば「目録」と並んでエロティック文学の例として引かれるが、匿名で書かれた「処女膜の一五の伝染病」とともに、ガーフィールドやカールの著作は、18世紀における「obscene libel」の法概念の成立につながった判決に関わっている。以前は治安妨害だけでなく不敬、異端と伝統的に教会裁判所が扱っていた領域に力点が置かれていたことを考えれば、これは大きな変化だった[60]。ポルノグラフィを禁じる法律はかつて存在せず、したがって1725年にカールが逮捕され、投獄されるたときも名誉毀損のおそれがあるという名目だった(20年近くの間こういった告発はなかった)。カールは数ヶ月後に釈放されたが、その後に関わった出版物が侮辱的だと当局に判断され、再び刑務所に入ることになった[61]。とはいえ検閲でカールが体験したことは一般的ではなく、わいせつ文書を理由にした起訴はその後もそうあることではなかった。一連の裁判は「ハリスの目録」の終わりにつながりはしたが、後に悪徳弾圧協会となるProclamation Societyのたいへんな努力にも関わらず、その後もポルノグラフィはたゆまず出版され続けた。ヴィクトリア朝の時代にはかつてないほどにわいせつな題材で本が出されることになる[nb 4][63]

脚注

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注釈
  1. ^ 四六判の大きさのページだという意味のことを言っている
  2. ^ Many of London's prostitutes fetched customers back to the brothels they worked from, although most retired to lodgings, sometimes taking their clients there.[12]
  3. ^ This incident is also mentioned in Horace Bleackley's Ladies fair and frail: "Betsy Cox, a strapping young woman with a fine contralto voice, who was fond of appearing at the masquerades in male attire, had leapt into notoriety during the week that the Pantheon was opened by dancing in the cotillon, notwithstanding the interdict of the Master of Ceremonies."[22]
  4. ^ The Obscene Publications Act 1857 was the first piece of legislation specifically enacted to suppress the sale of such material, although this is no longer in force, having been amended by more recent legislation.[62]
出典
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  4. ^ Carter 2004, p. 54
  5. ^ Fraser 1984, pp. 413–414
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  7. ^ Denlinger 2002, p. 369
  8. ^ Linnane 2007, p. 84
  9. ^ a b c d Rubenhold 2005, p. 120
  10. ^ Denlinger 2002, pp. 375–376
  11. ^ Thomas 1969, p. 120
  12. ^ Denlinger 2002, p. 362
  13. ^ Denlinger 2002, p. 378
  14. ^ Denlinger 2002, p. 379
  15. ^ Denlinger 2002, p. 359
  16. ^ Denlinger 2002, p. 373
  17. ^ Rubenhold 2005, pp. 299–301
  18. ^ Rubenhold 2005, p. 292
  19. ^ Rubenhold 2005, p. 126
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  27. ^ Denlinger 2002, pp. 388–389
  28. ^ a b Denlinger 2002, p. 371
  29. ^ Rubenhold 2005, pp. 295–296
  30. ^ Rubenhold 2005, pp. 75–76
  31. ^ translation of Cyrano de Bergerac's Le Autre Monde: ou les États et Empires de la Lune
  32. ^ a b 引用エラー: 無効な <ref> タグです。「ODNB」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません
  33. ^ Boswell 1799, p. 527
  34. ^ Boswell 1799, p. 528
  35. ^ Rubenhold 2005, p. 262
  36. ^ Rubenhold 2005, pp. 52–72
  37. ^ Rubenhold 2005, pp. 102–117
  38. ^ Rubenhold 2005, pp. 236–240
  39. ^ Rubenhold 2005, p. 277
  40. ^ Rubenhold 2005, pp. 178–186
  41. ^ Rubenhold 2005, p. 205
  42. ^ Rubenhold 2005, pp. 260–267
  43. ^ “The Piazza: Nos. 13-19 (consec.) Great Piazza with No. 13 Russell Street”, Survey of London: volume 36: Covent Garden (british-history.ac.uk): pp. 89–91, (1970), http://www.british-history.ac.uk/report.aspx?compid=46099 27 May 2011閲覧。 
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  62. ^ Feather 2005, pp. 127–129
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参考文献

関連文献

[編集]
  • Cruickshank, Dan (2010), The Secret History of Georgian London, London: Windmill Books, ISBN 0-09-952796-0 
  • For a selection of entries from the lists, see Rubenhold, Hallie (2005a), Harris's List of Covent Garden Ladies, Stroud: Tempus Publishing Limited, ISBN 0-7524-3546-9