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利用者:Makoto nanya/sandbox


歴史

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江戸時代の前期には船倉港が機能していたが、汐川の水量は少なく、干潮時には水深が浅く、砂や泥がたまりやすい場所だった。 木村洋介、清水俊樹『海から広がる渥美半島展』田原市博物館、2022年10月、30頁。 

港を維持するために、たびたび浚渫工事の必要があり、決して良港とは言えなかった。 『田原町史下巻』田原町・田原市教育委員会、1978年5月31日、414頁。 

明治になるまで、船倉港からは、たきぎ、松の葉などの燃料や、渥美半島で作られた魚や貝、醤油、味噌などが運ばれ、代わりに米、生活に必要な雑貨、畜産用の飼料、大豆粕などの肥料が船倉港に送られていた。木村洋介、清水俊樹『海から広がる渥美半島展』田原市博物館、2022年10月、30頁。 

渥美巡航株式會社

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明治33年、渥美巡行株式會社が設立された。初代社長は岡田秀吉。かつては田原港から豊橋牟呂までの航路を小形の帆船で航海していたが、とても時間がかかっていた(順風で2,3時間、逆風では5,6時間ほど)ため、田原及び牟呂の有志が出資をした。乗船客数35名程度の汽船で、1日に6往復ほどの航海であった。途中で転覆事件により数十人の死亡者が出てしまう事件もあった[1]

1922年(大正11年)3月に渥美電鐵株式會社が設立され、鉄道工事に着手。1924年(大正13年)6月に豊橋・田原間が開通された。この鉄道の影響で、従来の田原-牟呂の航路を利用する客数が著しく減少し、渥美巡行株式會社は同年7月に解散となった。

牟呂

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牟呂市場から田原船倉への通船が行われるようになったのは、明治6(1873)年のことと伝えられる。 明治17(1884)年には、牟呂―田原間に蒸気船が就航した。これ以後、渥美半島の交通・物流は三河湾・伊勢湾の海上交通が中心となった。明治31(1898)年には、渥美巡航船・三河巡航船が設立された。大正時代には、主に第15師団の馬糧や石材・木材などの土木用材・肥料・石炭が入荷したが、大正13(1924)年に廃止された。[15]。

  1. ^ 『田原史』名著出版、1974年2月20日、154頁。