利用者:Mahopa/アメリカにおける労働運動の歴史
表示
アメリカにおける労働運動の歴史(アメリカにおけるろうどううんどうのれきし)ではアメリカ合衆国における労働運動をそれに付随する社会史、個人史と交えて概観する。
年表
[編集]- 1792,1794年 フィラデルフィア靴工組合成立。労働条件の改善を主目的とした初の持続的な組織。この後ニューヨーク、ボルティモア、ボストンなどで靴工、印刷工、縫製工の初歩的な労働組合が成立する。これらはすべて熟練工、職人、職工の組織であり、彼らは自らの労働を "LABOR" ではなく "TRADE" と呼んだ。1806年まで存続した。[長沼 2004] P. 22
- 1812-1814年 米英戦争
- 1827年 フィラデルフィア技能職団体連合(Philadelphia Mechanic Union of Trade Associations)結成。 [長沼 2004] P. 22
- 1828年 フィラデルフィア勤労者党(Working Men's Party)結成。この後東部、大西洋岸諸都市で一定水準以上の労働者層の政党組織が誕生。特にニューヨーク勤労者党はトマス・スキッドモア(Thomas Skidmore)、ロバート・デイル・オーウェン(Robert Dale Owen)、フランシス(ファニー)・ライト(Frances Wright)らが参加。同年秋の大統領選でアンドリュー・ジャクソンの当選に貢献したがこれら勤労者党は4年後にはジャクソンの民主党に吸収された。 [長沼 2004] P. 22 - 23.
- 1833年 ニューヨーク職工組合連合(General Trades' Union of the City of New York, GTU)結成。[長沼 2004] P. 23
- 1834年 全国職工連合(National Trades' Union)成立。東部諸都市の組合が参加した21,000名の労働者を代表する組織で、都市の枠を越えて成立した初の労働組合となる。主目的を10時間労働の獲得とし3回の年次大会を開催した。会長のエリー・ムーア(Ely Moore)は同年秋の選挙に民主党から出馬し下院議員となった。1837年の恐慌で消滅。 [長沼 2004] P. 23 - 24.
- 1836年 全国印刷工協会(National Typographical Society)ワシントンで結成。1年足らずで消滅。[長沼 2004] P. 24
- 1844年 マサチューセッツ州フォール・リバーの繊維労働者に対し雇主が「おまえたちは、南部の奴隷と同じほど長い時間の間、彼らと同じほど安い賃金で働かなければならぬ」と発言。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 10
- 1846年 ニューイングランド労働者協会(New England Workingmen's Association)が「アメリカの奴隷制は根こそぎにされねばならぬ。それまでは労働者階級の求める生活の向上を達成することはできない」と決議。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 10
- 1846-1848年 米墨戦争
- 1848年2月 ロンドンで共産党宣言出版
- 1850年 1850年協定(Compromise of 1850)成立。逃亡奴隷法(Fugitive Slave Law of 1850)が制定され、逃亡した奴隷を連れ戻すために連邦政府が奴隷所有者を助力すべきことと規定した。それまで地下鉄道で北部に逃れていた奴隷は多くがカナダへ流入した。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 12
- 1850年 全国の印刷工の代表がニューヨークで会議を開く。[長沼 2004] P. 24
- 1851年 全国の印刷工の代表がボルティモアで会議を開く。[長沼 2004] P. 24
- 1852年 全国印刷工組合(National Typographical Union)成立。1869年カナダに支部を設立し国際印刷工組合(International Typographical Union, ITU)と改称した。現存するアメリカ最古の労働組合。ITUは1886年に成立したアメリカ労働総同盟(American Federation of Labor, AFL)に最初から参加し、1935年の産業別組織会議(Congress of Industrial Organizations, CIO)設立の際にも同組合の委員長が寄与した。[長沼 2004] P. 24
- 1855年 このころ奴隷制廃止論者のウェンデル・フィリップス(Wendell Phillips)が政府がすっかり奴隷制の権力の手中におちいったことを指摘。さらにアメリカに近い将来キューバ、メキシコ、ブラジルをも合わせた奴隷帝国がつくられるだろうと予言。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 10 - 11.
- 1857年 不況期となり労働組合運動が後退する。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 13
- 1857年 合衆国最高裁判所がドレッド・スコット判決(Dred Scott v. Sandford)を下す。主席判事ロジャー・トーニーは「国会は、憲法のもとでは、いかなる所、いかなる時にも、合衆国の領土内で奴隷制を禁止ないし廃止する権力をもたない」と宣言。これにより北部の労働者は南部の奴隷との競争に法的な保護を受けられなくなった。南北戦争の遠因の一つとされる。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 8, 12.
- 1857年 南部の社会学者ジョージ・フィッツヒュー(George Fitzhugh)が「奴隷廃止論者の目的は社会主義ならびに共産主義をうちたてることである」と著書で述べる。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 9
- 1857年 フィラデルフィア鋳型工組合にウィリアム・シルヴィスが参加。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 24 - 25.
- 1859年 石油の掘削・精製が始まる。[長沼 2004] P. 24
- 1859年 全国鋳型工組合(Iron Molders International Union)結成。1860年にはウィリアム・シルヴィスが会計に選ばれる。[長沼 2004] P. 25 - 26. [ボイヤー、モレース 1958] I, p. 25
- 1859年10月 奴隷廃止論者ジョン・ブラウンが5人の黒人を含む22人の仲間とともにヴァージニア州ハーパーズ・フェリー(Harpers Ferry, West Virginia)の合衆国武器庫を襲撃するが失敗。12月に処刑される。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 9, 12.
- 1861年 1月 ニューヨーク市長フェルナンド・ウッド(Fernando Wood)が北部自由州から離れ独立した自由市となる提案を市会で行う。ニューヨークは収入の多くを南部からの綿貿易に依存していた。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 26
- 1861年 4月12日 - 1865年 4月9日 南北戦争
- 南部の奴隷所有者エドマンド・ラフィン(Edmund Ruffin)が北軍のサムター要塞に向かって発砲したことが口火となる。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 5
- 詩人ウォルト・ホイットマン(Walt Whitman)がワシントンの病院での負傷兵の様子を日記に残す。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 14 - 15.
- ハリエット・タブマンによる戦場の描写。「やがて私たちは稲光りをみたが、それは砲火だった。やがて私たちは雷鳴をきいたが、それは砲声だった。やがて私たちは雨のふる音をきいたが、それはしたたりおちる血のしずくだった。そして私たちが収穫にきたとき私たちがかりとったのは死体だった。」[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 22
- アメリカの労働者の50パーセント以上が戦場に出たため、多くの労働組合で規模の縮小や空洞化が起こった。最終的な死者は60万人、重傷者は40万人にのぼった。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 13 - 14.
- 1862年2月25日 財務長官サーモン・P・チェイス(Salmon P. Chase)の信任を得た銀行家ジェイ・クック(Jay Cooke)が"Five-Twenty" 公債発売の政府公認の代理人となる。総額5億ドルにおよぶ債権の発行は北部工業の急速な発展をもたらし、クックは2000万ドルの財産を得た。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 19
- 1862年5月 クレメント・ヴァランディガム(Clement Vallandigham)が民主党内反戦派「コッパーヘッド」(Copperheads)のリーダーとなりリンカーンと対立する。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 26
- 1862年5月20日 リンカーン大統領がホームステッド法(Homestead Act)を承認。西部の土地に定住して耕作する者に無償で160エーカーの土地を与えるとした法律。南北戦争の戦地となった東部の農民の多くが西部に移動した。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 19
- 1862年7月1日 リンカーン大統領が太平洋鉄道法(Pacific Railway Acts)を承認。大陸横断鉄道の建設が決定される。中国人労働者が東部へ、アイルランド移民が西部へ移動した。[長沼 2004] P. 24 - 25.
- 1862年 徴兵法(Enrollment Act)公布。1863年3月3日に施行。7月13日ニューヨーク徴兵暴動(New York Draft Riots)が起こる。後の泥棒貴族(Robber baron)たちは合法的に代理人を立てて戦場行きを逃れた。「泥棒貴族」はマシュー・ジョセフソン(Matthew Josephson)が1934年に発表した同名のエッセイで有名になった。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 15 - 18.
- フィリップ・アーマー(Philip Danforth Armour)(1832-1901、南北戦争開戦時29才)倉庫業
- ジェームズ・フィスク(James Fisk)(1834-1872、南北戦争開戦時27才)銀行業
- アンドリュー・カーネギー(Andrew Carnegie)(1835-1919、南北戦争開戦時26才)鉄道・鉄鋼業
- ジェイ・グールド(Jay Gould)(1836-1892、南北戦争開戦時25才)鉄道
- J.P.モルガン(J. P. Morgan)(1837-1913、南北戦争開戦時24才)銀行業
- ジェームズ・ヒル(James J. Hill)(1838-1916、南北戦争開戦時23才)鉄道
- J.D.ロックフェラー(John D. Rockefeller)(1839-1937、南北戦争開戦時22才)
- トーマス・メロン(Thomas Mellon)(1813-1908、南北戦争開戦時48才)次男のジェームス(南北戦争開戦時15才)にあてて「兵隊に志願する奴はまぬけ野郎ばかりだ」「いまは兵隊に行っても、ちっとも名誉になんかならぬ。とどまることができる者はみんなとどまればいいし、行かねばならぬ者だけ行くがいい。代理人に金を払うことができる者はそうすればいい。ちっとも不名誉にはならぬのだ。」と書き送った。四男のアンドリュー・メロン(Andrew W. Mellon)(1855-1937、南北戦争開戦時6才)が後のメロン財閥を築く。
- コーネリアス・ヴァンダービルト(Cornelius Vanderbilt)(1794-1877、南北戦争開戦時67才)1840年代には100隻もの蒸気船を所有し既に海運王として君臨していた。1850年代に鉄道に参入。南北戦争期に本格的な投資を行って1863年までにニューヨーク・ハーレム鉄道(New York and Harlem Railroad)、1864年にハドソンリバー鉄道(The Hudson River Railroad)、1867年にニューヨーク・セントラル鉄道(New York Central Railroad)を取得。1869年には後2社を合併。1877年頃に路線をシカゴまで延長した。J.D.ロックフェラーに次ぐアメリカ史上2位の資産家。エリー鉄道(Erie Railroad)株をめぐってグールド、フィスク、ドリューらと仕手戦となり、彼らが発行する水増し株(Watered stock)を買いつづけた結果700万ドルを失うが、彼の資力が揺らぐことはなかった。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 36
- ダニエル・ドリュー(Daniel Drew)(1797-1879、南北戦争開戦時64才)蒸気船時代からヴァンダービルトと覇を競っていた資本家。1864年にニューヨーク・ハーレム鉄道をめぐってヴァンダービルトと争い、空売り(Short)した株をことごとく買われた結果50万ドルを失った。1866年から68年にかけてグールド、フィスクらと組み、エリー鉄道株の仕手戦(Erie War)で勝利するも1870年には2人に裏切られ逆に150万ドルを失った。さらに1873年の恐慌(Panic of 1873)が追い打ちをかけ3年後には破産した。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 36
- 南北戦争の間に巨万の富を得たこれら産業資本家たちは、賄賂によって国会をも支配しこの時期アメリカの土地の半分を手に入れたと言われる。それらは肥沃な土地や牧場や森林であったばかりでなく、鉄、石炭、石油などの地下資源を埋蔵していた。ホームステッド法は本来農民に西部の土地を開放するために制定されたものだが、農地は資本家によって買い占められてしまい農民の手には渡らなかった。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 19 - 22.
- このころウィリアム・シルヴィスは鋳物工として1日12時間労働で1週12ドルの賃金を得ており、それで7人の家族を養っていた。婦人や子供は朝6時から深夜までの労働で1週3ドルを得るのがやっとだった。物価は上昇しスラムが拡大した。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 27
- 北部の工業から締め出されていた自由黒人が切り下げられた賃金で働き、さらにヨーロッパからの移民が契約労働者として雇用された。彼らは17世紀の年季契約奉公人(Indentured servant)と同様、雇主との間に過酷な条件の雇用契約を結んだ。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 26 - 27.
- 1862年の暮れから1863年のはじめ 各所で賃金引き上げのストライキが勃発し、それとともに労働組合が組織された。
- 1863年1月、ウィリアム・シルヴィスが南北戦争とともに消滅した全国鋳物工組合を再建するための大会をピッツバーグで開催。この大会でシルヴィスは委員長に指名された。1863年を通じシルヴィスは全国各地の鋳物工場を回り団結を説いた。弟によるこのころのシルヴィス「彼は、すっかり糸目がみえるほどボロボロになって、もう着ることができなくなるまで着物をきていた。彼が死ぬ日まで身につけていたショールは、彼が組合を組織するように訴えた、見知らぬ町の鋳物工たちのひしゃくからはねとんだ鉄でこげた小さい穴で一ぱいだった。」彼は訪れた工場で次々とクローズドショップ制による組織を作り上げてゆく。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 29 - 30.
- 1863年初め、シルヴィスが委員長になったばかりの頃は全国鋳物工組合は組合員2,000人、支部15、組合財産1,600ドルだったが、彼の組織旅行のあとでは組合員6,000人、支部54、組合財産25,000ドルに上った。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 28
- 1863年3月26日のスプリングフィールド・リパブリカン紙「…ほとんどすべての職業部門の労働者は、過去数ヶ月内にストライキにたった。…ほとんどすべての場合、労働者の要求はみとめられた。これらのストライキはすべてきわめて敏速にすすめられ、その結果たくさんの労働者の同盟や組合がつくられた」。1863年11月6日のサンフランシスコのイヴニング・ビュレティン紙「賃上げのためのストライキは現在では、サンフランシスコの労働者の上にあれくるっている」[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 28
- 1860年から1865年までに賃金は43パーセント上昇したが、物価は116パーセント上昇した。労働者の購買力は落ち、実質賃金は切り下げられた。一方で生産の増大とスピードアップが追求され、労働時間も1日平均11時間で12から14時間労働も珍しくはなくなった。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 27
- 1860年から70年の間に工場労働者は130万人から200万人に増え、工業人口は農業人口を超えた。工業以外の賃金労働者は360万人を数え、全体では560万人にのぼった。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 27 - 28.
- 1864年 このころ20万人の労働者が270の組合に参加、そのうち30組合ほどは職種別の都市横断的な全国組織だった。[長沼 2004] P. 25
- アイラ・スチュワード(Ira Steward)機械工や鍛冶工の組織に乗り出し、8時間労働制の宣伝を始める。
- リチャード・トレヴェリック(Richard Trevellick)船大工およびかしめ工組合(Ships'Carpenters and Calkers)の支部再建
- ロバート・シリング(Robert Shilling)桶工組合を再建
- J.C.ウェーリー(J.C.Whaley)、A.C.キャメロン(A.C.Cameron)全国印刷工組合を再建
- これらの人々の努力により労働運動は著しく発展し、組合員の数は1861年の数千人から1864年末には20万人へ増加した。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 30 - 31.
- 1864年9月 指導的な共和党の一新聞の記事「多くの家族がひどい窮乏のなかにくるしんでいる。本来なら当然学校に通う筈の数千人に上る子供たちは、家族のカツガツの生計をなんとかしてつなぎとめてゆくために少しでもかせごうとして、労働の中にとじこめられている」。出征した成人男性に代わり婦人や子供が生きるために工場労働に従事し、産業資本家にとって容易に賃金の切り下げが可能となった。南北戦争は児童労働の端緒となった。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 26
- 1864年 全米各州でストライキが激化。ニューヨーク・テネシー・ペンシルヴァニア・ミズーリでは軍が呼び戻されストライキを鎮圧した。他の州ではリンカーン大統領が干渉しストライキは回避された「わたしは、ほとんどすべてのストライキの場合や労働者諸君が苦情を持ち出す場合には、そこに正当な理由があることを知っている。」[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 31
- 多発したストライキに対し、雇主は厳然とした態度で臨んだ「労働者の状態が未だかつてないほど悪化するときは決してそんなに遠くはない。現在労働運動のなかで積極的に活動している連中が、仕事口を求めて平身低頭せねばならぬ時はやがてくるだろう。…すべての雇主の胸には復讐の精神がよびさまされているが、こうした結果は、諸君の組合を破壊するという公然たる目的をもった資本家の組織が一般に広汎にわたってつくられていることをみればはっきりとわかる。」[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 31 - 32.、[フォーナー 1947] p. 360 からの引用
- 1865年4月3日 南軍の首都リッチモンドが陥落。4月9日リー将軍がアポマトクスで捕らえられ(Battle of Appomattox Courthouse)南北戦争が終結した。チャールストンでは黒人の連隊が「ジョン・ブラウンの肉体(John Brown's Body)」を歌いながら行進したという。このころまでにアメリカに輸入された奴隷は400万人に達していた。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 32 - 33.
- 1865年4月15日 リンカーン暗殺。アンドリュー・ジョンソンが大統領となる。
- 1865年6月18日 エドマンド・ラフィン自殺。[ボイヤー、モレース 1958] I, p. 33
- 1866年 全国労働組合(National Labor Union, NLU)成立。非熟練工(Unskilled Worker)や農民の参加を認め、多様な職種にまたがった全国組織。 "LABOR" の語を用いた事実上初の労働組合となる。主目的を8時間労働の法的な確立、労働組合の公認、陰謀法の廃止、労働省の設立とし、最盛期には54~60万人の組合員を擁した。彼らの主張は二大政党や独占企業と真っ向から対立したラディカルなものになったため、闘争に否定的だった組合が次々に脱退した。1869年には指導者ウィリアム・シルヴィス(William Sylvis)が41才で急死。1870年までには実態が労働運動から離れ中産階級の政治活動家の団体となった。1872年の大会で全国労働改革党(National Labor Reform Party)の結成が可決され同時にNLUは消滅した。[長沼 2004] P. 25 - 26.
- 1869年 フィラデルフィアで高潔神聖労働騎士団(Noble and Holy Order of the Knights of Labor, 一般に労働騎士団(Knights of Labor)と呼ばれる)結成。1862年に組織された衣服裁断工の組合が解散するときに一部のグループが集まってできた秘密団体が由来となっている。多様な職種の熟練工、非熟練工のみならず女性や黒人労働者の参加も許された。単一職種の「地域会議」または複数職種の「混成会議」を単位組織とし、5ないし10の地域会議で「地区会議」を構成。その上部組織として「中央会議」を設置した。この形態は全ての職種の労働者を中央会議を頂点とする組織にまとめはしたが、ある特定の職種や地域での限定された紛争を処理することは困難だった。[長沼 2004] P. 26 - 27.
- 1875年 労働騎士団で3番目の地区会議がピッツバーグにできる。[長沼 2004] P. 26
- 1878年 労働騎士団が東部に限定されない全国組織となる。このころ団員は約9,000人だった。[長沼 2004] P. 26.
- 1879年 労働騎士団に特定職種の全国組織(National Trade Assembly)が作られる。紛争に対し適切に対応するための改革。[長沼 2004] P. 27
- 1879年 労働騎士団の指導者が創立者のユーライア・スミス・ステファンズ(Uriah Smith Stephens)から2代目のテレンス・V・パウダリー(Terence V. Powderly)に代わる。パウダリーは紛争処理にあたってストライキを行使することに一貫して反対し、仲裁や調停で労使協調を保ちながら、長期的には生産者協同組合の構築を目指した。しかし団長の意向に反し特定職種の全国組織主導によるストライキが次々に行われた。[長沼 2004] P. 27
- 1881年 労働騎士団内で中央に不満を持つグループが対抗組織を作るための会合を開く。同年8月、インディアナ州テレホートで組織作りのための準備会を開催。全国印刷工組合や全国鋳型工組合の幹部など13組合を代表する21名が参加した。同年11月、ピッツバーグで正式会合が行われ、全国印刷工組合、全国鋳型工組合のほか鉄鋼労働者連合組合(Amalgamated Association of Iron and Steel Workers)、北アメリカガラス工組合(American Flint Glass Workers' Union of North America)、葉巻製造工組合(Cigar Makers' International Union, CMIU)、大工組合(United Brotherhood of Carpenters and Joiners of America, UBC)など8つの全国連合と42の地域的組合、労働騎士団の地域会議からも49人の参加者があり合計107人が参加。合衆国・カナダ職工および労働者組合連合(Federation of Organized Trades and Labor Unions of the United States and Canada, FOTLU)を結成した。FOTLUは本部組織や会長職を設けず、連絡事務を行う書記長が年1回の大会を開くだけのごく緩やかな組織だった。やがてFOTLUと労働騎士団の職種別地域会議とで加入予定者の奪い合いや組織活動の範囲である管轄権(Jurisdiction)をめぐっての争いが起きる。([長沼 2004] P. 29 - 31.
- 1882年 労働騎士団が秘密組織の形態を捨て公然の労働組合となる。[長沼 2004] P. 27
- 1885年 労働騎士団がジェイ・グールド(Jay Gould)の支配するウォーバッシュ鉄道に対する賃金切り下げ反対闘争に勝利。団員が11万1,000人から70万人に急増する。[長沼 2004] P. 27
- 1886年3月 労働騎士団がグールドのユニオン・パシフィック鉄道とミズーリ・パシフィック鉄道(Missouri Pacific Railroad)に対しストライキを実施(Great Southwest Railroad Strike of 1886)。機関士友愛会の不参加、スト破り、ピンカートン探偵社(Pinkerton National Detective Agency)配下の労働スパイによる攪乱などグールドの作戦が功を奏しストライキは敗北した。[長沼 2004] P. 27
- 1886年4月 全国印刷工組合、葉巻製造工組合、全国鋳型工組合、大工組合などがFOTLUと職種別地域会議の紛争を解決するための会議の開催を呼びかける。[長沼 2004] P. 31
- 1886年5月4日 ヘイマーケット事件(Haymarket Riot)が起こる。
出典
[編集]- 長沼秀世『アメリカの社会運動 - CIO史の研究 -』彩流社、2004年。
- R.O.ボイヤー、H.M.モレース『アメリカ労働運動の歴史(I, II)』、雪山慶正訳、岩波現代叢書、岩波書店、1958年。
参考図書
[編集]- ヘンリー・ベリング『アメリカ労働運動史』大河内暁男、神代和欣訳、時事通信社、1962年。
- ミルトン・ダーバー、エドウィン・ヤング『現代アメリカ労働運動史』永田正臣、寺中良治、古庄正訳、日刊労働通信社、1964年。
引用元
[編集]- フィリップ・S・フォーナー『アメリカ労働運動史』 Philip S. Foner "History of the Labor Movement in the United States" I, New York, 1947