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利用者:MUSASHI/覚え書き - 日本古代の地方行政組織

日本古代の地方行政組織

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国造制は、後の国に何人しかいなかった。国造の支配する領域は大きかったと思われる。そこへ屯倉が支配する領域があり、国造支配地と屯倉支配地が入り組んでいた。職業区別では、部民組織があった。その前に人制といわれる人民支配組織もあったようで。。。

大化2年(646年)、改新の詔 - 第二条に「凡そ畿内は、東は名墾(なばり)の横河より以来、」 7世紀後半、地方行政区画は「国評里」制であった。孝徳朝(645-654)に評里制が全国に実施された。 「評造」「評督」「助督」などの官人がいた。評は、国造の支配するクニを分割・再編しながら、大化・白雉年間(645~654)に全国的に設けられた。

古代陸奥国は一般に大化改新直後に成立したと考えられているが、その範囲は阿武隈川河口辺りの宮城県南部であろうと言われる。そして多賀城が築かれ、宮城県の半ばまで国内に含まれ、県北が内国化されるのは、それより若干遅れると考えるのが一般的であった。しかし、名生館遺跡の発掘調査の結果、そういった考えは覆され、多賀城創設以前に、この大崎地方がすでに内国化していたことが明らかになった。[出典 1]

701年の大宝律令で「郡里」制になった。

令制国につながる国の成立は、天智朝頃とする説が有力である[1]

律令制の国が何時成立したかについては、学界でもまだ定説を得ていない。天武朝初めには成立した。

天武天皇十三年(684)の条
「十月辛巳(かのとのみのひ、三日)に、伊勢王等を遣して、諸国の堺を定めしむ。」(『日本書紀』)
藤原宮跡出土682・683年(天武11・12)木簡、「毛野」(けぬ)「三野(美濃)」
飛鳥京跡出土木簡削片(さくへん)、ほぼ同時期、「伊勢国」「近淡□」

四畿内国 → 山背(やましろ、山代)、津、河内(川内)、「ヤマト国」

「ヤマト国」 → 「倭国」、藤原宮出土木簡「倭国所布評大野里」
天武紀「倭国添下(そえしも)群」「倭国飽波(あくなみ)群」、「評」→「群」
新しく成立した律令制の国のどの国名もその漢字から和訓を容易に導くことができる。
「倭国」、「倭」と「ヤマト」との間には何ら関係がない。
「倭」は中国人の用語、用字。「ヤマト」は日本語。「倭」は奈良盆地の東南部をあらわす。

持統天皇3年(689年)飛鳥浄御原令、備前・備中・備後の成立

704(大宝4)年、朝廷は諸国の国印を一斉につくることに当たり、正方形の印面を「○○国印」と四文字構成にするため、国名は全て二文字で表記することに決めた。しかもその文字はよい意味のもの(吉祥語)を選んで使用した[2]

古代の国名は、古代国家が「国」「評(郡)」「五十戸(里・郷)」「くに・こおり・さと」という行政区画として画定したもの。西国と東国で大きな違い。国名と郡名がおなじ。例、河内・和泉・安芸・阿波・伊予・土佐・大隅・薩摩・壱岐、東国で駿河。東国はヤマト朝廷側からの視点で、西国は地域勢力の名称がそのまま国に。[3]

713(和銅6)年5月2日、全国の郡や郷の名前を二文字の好字(こうじ)で表記するようになった。 例、藤原京木簡では「車」と一文字で表されていたものが、奈良時代には上野(こうずけ)国郡馬(くるま)郡と表記されるようになった。「車」と「郡馬」では、音でしか読めない。 美作・丹後・大隅 … 七道制の地方行政機構の完成。

その後和泉・能登・安房などの分国。特別な事情の立国。

715(霊亀元)年に「郷(さと)」に一元化され、ここに国(くに)・郡(こほり)・郷(さと)からなる古代行政単位の再編が見られる。[出典 2]

地名の記号化は、そこの歴史の断絶を意味する。

日本律令制下の税制

脚注

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註釈

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出典

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  1. ^ 桑原滋郎「名生館官衙遺跡」文化庁文化財保護部史跡研究会監修『図説 日本の史跡 第4巻 古代1』同朋舎出版 1991年 100-101ページ
  2. ^ 長谷川伸三・糸賀茂男・今井雅晴・秋山高志・佐々木寛司『茨城県の歴史』山川出版社 2003年1月
  1. ^ 吉村「東国の…」(2000) p.37
  2. ^ 平川(2008) p.237
  3. ^ 平川(2008) p.233

参考文献

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  • 平川南『全集 日本の歴史 第2巻 日本の原像』小学館、2008年。ISBN 978-4-09-622102-0 
  • 吉村武彦 /石井進・宇野俊一編『千葉県の歴史』山川出版社、2000年。ISBN 978-4-634-32120-5