コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

利用者:Lostgeneration1022/sandbox

香山リカ

  • 『リカちゃんコンプレックス』太田出版、1991年7月。  / 早川書房ハヤカワ文庫 NF〉、1994年9月。ISBN 4-15-050184-X 

[1]

ダルウィーシュ

[編集]

なお、アッカを含む西ガラリヤ地域は、国連のパレスチナ分割決議においてアラブ国家の領域に含まれていた。しかし、イスラエル政府は自国領への編入を進め、イスラエル国籍の付与を一方的に実施した。

PR誌

[編集]

迢空賞

[編集]

|第11回||1977年||斎藤史 『ひたくれなゐ』(不識書院) |- |第12回||1978年||前登志夫 『縄文記』(白玉書房) |- |第13回||1979年||玉城徹 『われら地上に』(不識書院) |- |rowspan="2"|第14回||rowspan="2"|1980年||生方たつゑ 『野分のやうに』(新星書房) |- |窪田章一郎『素心臘梅』

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

国是は旧オーストリア=ハンガリー帝国領の、セルビア人、クロアチア人、スロベニア人が居住する地域すべてを統一することだった。しかしヴォイヴォディナ(バナトバチュカバラニャを含む)のセルビア人はこれに反対して、セルビア国民会議という最高権力機関の下、ノヴィ・サドで独自の政府を樹立し、1918年11月25日にセルビア王国に合流した。この前日の1918年11月24日には、当初スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国の一部であったスレムの領域もまたここから脱退し、セルビア王国に合流していた。

戦勝国となった連合国海軍を手渡すのを避けるために、オーストリア皇帝カール1世はすべての軍港、兵器廠、海岸要塞オーストリア=ハンガリー帝国海軍全軍および商船隊を「民族会議」に譲与し、今度はフランスイギリスイタリアアメリカ合衆国ロシア各政府に、スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国がオーストリア=ハンガリー帝国と交戦しておらず、「民族会議」がオーストリア=ハンガリー帝国の全船隊を引き継いだ旨を通知する通牒を送付した。しかし、この船隊はイタリア王国海軍に攻撃され、すぐに瓦解した。

スロベニア人・クロアチア人・セルビア人国は、国民評議会がセルビア王国(既にモンテネグロ王国、ヴォイヴォディナ、スレムと合流していた)に合流し、1918年12月1日セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国を樹立するまで、終始国際的に承認されることはなかった。

脚注

[編集]

注釈

[編集]

出典

[編集]

参考文献

[編集]
  • 柴宜弘『ユーゴスラヴィア現代史(新版)』岩波書店岩波新書〉、2021年。ISBN 978-4-00-431893-4
  • 材木和雄「南スラヴ人統一国家構想の起源と展開:1917年「コルフ宣言」に至る過程」『広島平和科学』(広島大学平和科学研究センター)25号、2003年、145-188ページ。
  • 材木和雄「「スロヴェニア人、クロアチア人、セルビア人の国家」の成立と崩壊:1918年のもう一つの南スラヴ人統一国家について」『社会文化研究』(広島大学総合科学部紀要Ⅱ)29号、2003年、1-62ページ。
  • 柴宜弘「新生国家ユーゴスラヴィアと日本:両国交流の黎明期を中心に」『中欧研究:城西大学中欧研究所 E-ジャーナル』5号、2020年、1-21ページ。
  • 柴宜弘b「それぞれのユーゴスラヴィア:セルビア義勇軍の理念と実態」大津留厚編『「民族自決」という幻影:ハプスブルク帝国の崩壊と新生諸国家の成立』(昭和堂、2020年)、37-61ページ。
  • Trifunovska, Snežana, ed., Yugoslavia through Documents: From its Creation to its Dissolution, Dordrecht/Boston/London: Martinus Nijhoff Pub., 1994.
  • Banac, Ivo, The National Question in Yugoslavia: Origins, History, Politics, Ithaca: Cornell U. P., 1984.
  • Goldstein, Ivo, Croatia: A History, 2nd imp, McGill-Queen's U. P., 2001.

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

◎クロアチアの歴史

民族意識の芽生え

[編集]
イリリア諸州(Illyrian Provinces)

ダルマチアは長くヴェネツィアの支配を受けていたが、ナポレオンの進軍過程でダルマチア沿岸も征服され、1808年、ドゥブロヴニク共和国も廃止となった。翌年、一帯は「フランス領イリリア諸州」として再編され、1813年まで統治された[# 1]。この時、フランスによりナポレオン法典が施行され、さらにクロアチア人居住区ではクロアチア語スロベニア人居住区ではスロベニア語が認められた。そして農奴解放ギルド廃止、土地開墾、道路建設、公衆衛生の導入が行われ、文化的、経済的に急速に発展することとなったが[2]、イリリア地方はフランス支配下のイタリア王国へ編入された[3]。なお、ナポレオンはある程度の自治を与えることにより、スロベニア人、クロアチア人らがオーストリアの支配を望まないようにしていた[4]。しかし、その後、1815年フランス帝国の解体に伴いハプスブルク帝国に併合されることとなる。しかし、ハンガリー化を恐れる内陸部のクロアチア人らは自治権を保持しようとし続けた[5]。そして「クロアチアの貴族にとっては馬の方が農民以上にクロアチア民族である」と言われた大衆と無縁の「民族の栄光」への宿願が[6]、これらのことによりクロアチア人全体に民族意識を抱かせることとなった[5]

議会が設置され代議員を選出することとなったが、住民数15,672人のイタリア人らが29人の代議員を選出したのに対して40万人を越えるクロアチア人らは12人しか選出できなかった。このため、議会はイタリア系の自治派とクロアチア=スラヴォニア、ダルマチアの統合による「三位一体王国」の再建を唱える民族派に分かれることとなったが、ハプスブルク帝国はこれを認めず、ダルマチアはオーストリアに組み込まれた。1870年代に至ると民族派が力をつけることとなり、1883年、それまでイタリア語が公用語であったが、「クロアチア=セルビア語(セルビア=クロアチア語とも)」へ変更された。そして、クロアチア人らはダルマチア、ボスニア・ヘルツェゴビナのクロアチア統合を唱えていたが、これにはセルビア民族党が反対。ダルマチアのセルビア人らは自治派との連携を選び、一方ダルマチアのクロアチア人らはクロアチア権利党と連携していた。しかし、これらの動きはペータル1世が即位した後、南スラブ統一への動きへと変化を見せ、「リエカ決議」、「ザダル決議」が導きだされることとなる[7]

さらに19世紀前半、ドイツ・ロマン主義が発生するとクロアチアでは、フランス統治期との関係もあり「イリリア運動」が知識人層を中心に展開された。これは、中世クロアチア王国時代の領域の再統合を目指すものであったが、このうちダルマチアやスラヴォニアではすでにセルビア人らが多数居住していた。このため、運動の中心人物で文学者のリュデヴィト・ガイ英語版は、南スラブ人全体の連帯を考慮し、クロアチア人とセルビア人との間で共通意識の形成を促進させた。この民族再生運動1848年の「諸国民の春」以降、19世紀後半に政治的運動と化すが、これは複雑化を伴う事となった[8]

一方でガイは、文芸協会「マティツァ・イリルスカ(後のマティツァ・フルヴァッカ)」を設立、「イリリア語」(=南スラヴ)文学運動を進めていたが[9]ガイ式ラテン・アルファベットに基づく南スラヴ共通言語の正書法を確立した。しかし他方で、文章の規範が統一されず、方言的差異を温存する原因ともなった[10]ハンガリー王国南部を形成するクロアチアやセルビア人居住地域は独立を望んでいたが、そのハンガリーもまたハプスブルク帝国からの離脱を望んでいた[8]。同じころオスマン帝国領内では、 1804年-13年、1815年-17年の2次に渡ってセルビア蜂起が発生し、1830年にはセルビア公国として自治権を獲得、1833年には南方向へ領土を拡大していた[11]

イェラチッチとクロアチア議会

1848年3月25日、ガイらはザグレブで民族会議を開催、この会議では「民族の要求」としてクロアチア、ダルマチアの統合、ハンガリーからの独立、クロアチア語の公用化、身分制議会の代議制への移行、などが盛り込まれ、クロアチア人とセルビア人らは単一民族であり、統合すべきという要求も含まれた[3]。そしてクロアチア総督(=バン)にはイリリア運動の支持者であるヨシップ・イェラチッチ (enが選ばれた。しかし、この要求を受けたハンガリー自体もオーストリア=ハンガリー帝国からの独立を望んでいたためこれに対応することができず、さらにハンガリーの独立を阻止しようとしていたハプスブルク皇帝はこの状況を利用しようとした。そのため、イェラチッチはクロアチア総督に任命された後にハンガリー革命の鎮圧の尖兵として使用されたが、ハンガリー革命が1848年に鎮圧されたにもかかわらず、クロアチア人の要求は無視され[12]、ダルマチアの一部とリエカの併合は認められたのみに留まった[9]。しかし、革命情勢が消滅すると徐々にこの約束は破棄され、結局、ハプスブルク帝国による直接支配が行われるようになる。なお、このイェラチッチの行動に対して、ハンガリー革命を高く評価していたフリードリヒ・エンゲルスは激しく憤り、「南スラブ人全体に対する断固たるテロリズム」を要求すると書き[13]、さらに南スラブ諸民族に「歴史なき民」の烙印を押した[14]

ヨシップ・イェラチッチ

しかし、1866年普墺戦争オーストリアが敗れると帝国の再編は避けられないものとなり、1867年ハンガリーは独立するがオーストリアとは同君連合を形成することとなり「オーストリア=ハンガリー帝国」がここに成立した。クロアチアはハンガリー王国に属する事となったが、1868年、クロアチアとハンガリーの間で「協約(ナゴドバ)」が結ばれる事によりハンガリーが任命する総督(バン)を受け入れることにより制限付きながら自治を得る事となった[15][16]。しかし、1871年の選挙では「ナゴドバ」の無効を主張する完全自治派がクロアチア議会で多数を占めるにいたり、南スラブ統一を要求したが[17]、これは1881年に軍政国境地帯が、第一次世界大戦後にダルマチアが返還されるまでその統一要求は続くこととなる。クロアチアは限定的ながらも自治を得た事により政党活動が活発化したが、親ハンガリー派、帝国の範囲内で南スラブの統一を図る民族党、クロアチアの独立を唱える権利党の三派閥へと分かれることとなった[15][16]。また、その一方でクロアチア権利党はクロアチアにハンガリーと同等の地位を与えてオーストリア、ハンガリー、クロアチアの三国で三重帝国を築くという案を考えていた[18]

クロアチア人らは民族意識を明確にしていく中、この地域に住むセルビア人らの間でもその意識が高まりつつあった。ただし、現在のようにクロアチア人とセルビア人らの対立が深まるのではなく、彼らは南スラヴとしてユーゴスラビア主義(ユーゴスロヴェンストヴォ)として統一する動きが出始めていた。1850年には「ウィーン文語協定」が結ばれ、セルビア語とクロアチア語は同一の文章語となった。さらに、セルビア政府とクロアチア人政党で協力が模索され、クロアチア国民党指導者ヨシプ・ユーライ・シュトロスマイエル (enフラニョ・ラチュキ (enらはセルビア公国を基礎として南スラブ統一を訴えた。露土戦争後、1878年に結ばれたベルリン条約で、セルビア、モンテネグロの独立が承認され、オスマン帝国領のボスニア・ヘルツェゴビナはハプスブルク帝国へ移管された。以後ボスニア・ヘルツェゴビナを巡ってクロアチア人とセルビア人の関係が悪化した[15][19][# 2]。ただし、クロアチア系、セルビア系の反目を利用してクロアチアのハンガリー化を行っていたクロアチア総督クエン=ヘーデルヴァーリ・カーロイ (en1903年にハンガリー首相へ転任すると、後任の総督がスラブ人への無差別な抑圧政策を施行したことにより変化した[20]。このことによりクロアチア人政党とセルビア人政党の協力関係は進展、特にスラヴォニアダルマチアの政治家らは強く主張してセルビア人、クロアチア人、スロベニア人らは南スラブという一個の民族であるという政治的流れがその大きな目標とされた[15][19]

1900年頃のクロアチア、ヴォロスコ( volosko)

1905年10月、クロアチア人政治家がセルビア人政治家に協力関係を呼びかけた「リエカ合意」と、それにセルビア人政治家が同意した「ザダル決議」により、1905年11月、クロアチア議会において「クロアチア・セルビア人連合宣言」が行われた。クロアチア議会の5つの政党はクロアチア・セルビア連合を結成[# 3]、クロアチア=スラヴォニア、ダルマチアの統合を求めた[# 4]1908年、ハプスブルク帝国がボスニア・ヘルツェゴビナを併合した際にはセルビア、クロアチアの間で反応の違いは未だ見られたが、1909年にセルビアとの併合を狙った活動を行ったとして30名以上のクロアチア人、セルビア人らが逮捕、有罪とされた「ザグレブ事件」により、さらに統一の流れは強まる事となり、1912年バルカン戦争が始まるとセルビア軍へ多数のクロアチア人が参加する事態にまで至り[22]、第一次世界大戦後、南スラブ統一国家、ユーゴスラビア王国が形成される元となった[23]

さらにシュトロスマイエル司教はセルビア公国の内務大臣イリア・ガラシャニンと協定を結び、オスマン帝国とハプスブルク帝国の影響を排除した独立国家の形成を目指した。また、ガラシャニンはギリシャルーマニアモンテネグロブルガリアと交渉を重ねてバルカン同盟を結びオスマン帝国に対抗すること考えていたが、セルビア公国のミハイロ公 (en1868年に暗殺されるとガラシャニンは失脚することとなる[24]

ボスニア・ヘルツェゴビナでは、オーストリア=ハンガリー帝国共通蔵相(ボスニア・ヘルツェゴヴィナ蔵相も兼任)ベンヤミン・カーライ (enによってクロアチア人、セルビア人、ムスリム人[# 5]らを「ボスニア主義(ボシュニャシュトヴォ)」の元、ボスニア地域への帰属意識を根付かせようとしていたが、すでに宗教的、文化的な側面で組織化されていたクロアチア人、セルビア人、ムスリム人らがそれに従うことはなかった。1903年、イシュトヴァーン・ブリアーン (enがカーライと交代したが、ブリアーンは自由主義的な政策を行い、さらに1910年には立憲制へ移行、議会制度も導入された。そのため、カトリック教徒を中心にして「クロアチア民族連合」が結成され、ムスリム人らがクロアチア人であるとした上でボスニア・ヘルツェゴビナはクロアチアの領土と主張、さらにオーストリア=ハンガリー帝国内のクロアチア地域の統一をも主張、その中には住民のカトリック化を促進させていたヨゼフ・シュタドレル大司教率いる「クロアチア・カトリック教会」も存在した。ただし、ムスリム人らはこれに対抗しており、シュタドレル大司教の改宗活動に対して政治組織を結成することとなり、1906年に「ムスリム民族機構」を設立していたが、これらの混乱が後にサラエボ事件を発生させる温床となる[26]

ニコラ・パシッチ

第一次世界大戦中の1914年12月、セルビア政府は「ニシュ宣言」においてクロアチア人、セルビア人、スロベニア人らの解放と統一を戦争目的と規定した。そして1917年7月20日、「コルフ宣言[# 6]が決議されセルビア亡命政府首相ニコラ・パシッチ (enとユーゴスラビア委員会(南スラブ委員会とも)代表アンテ・トルムビッチ (en[# 7]の間でセルビア人、クロアチア人、スロベニア人らで構成された国家創設が合意された。一方で1918年10月6日スロベニアアントン・コロシェツ神父 (enヴォイヴォディナスヴェトザル・プリビチェヴィッチ (enらで「スロベニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」がザグレブで結成されハプスブルク帝国内の南スラブ地域の統合が唱えられ[27]10月28日、スラブ地域での敗北を認めたオーストリア=ハンガリーは権力を委譲、翌日、クロアチア議会は「ダルマチア、クロアチア、スラヴォニア、フィウメはオーストリア=ハンガリーから完全に独立・・・(中略)・・・スロベニア人、クロアチア人、セルビア人らが共通とする民族主権国家への参加」することを宣言[# 8]、31日にはハンガリー首相カーライにより「ドナウ連邦」形成が提案されたが、こちらはオーストリア=ハンガリー帝国が11月3日に敗戦を迎えた事により消滅[30]、「スロベニア人・クロアチア人・セルビア人民族会議」は発言権を持つ事はできなかった[27]

ユーゴスラビア王国の成立

[編集]
1918年のセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(ユーゴスラビア王国)。淡緑色の部分がクロアチア・スラヴォニア、黄色の部分がダルマチア

第一次世界大戦が終結した後、連合国は南スラブ民族国家に対して明確な行動を取らず、イタリア軍はダルマチア沿岸部の領有権を主張している地域へ展開し始め、さらにダルマチア地方では農民らが土地占拠を行い、革命さえ予想される事態に至っていた。このため、コロシェツ神父は連合国に南スラブ民族国家の承認を訴え、さらに11月末にはジュネーブにおいてセルビア首相ニコラ・パシッチ、ユーゴスラビア委員会代表アンテ・トルムビッチらと協議を行った。パシッチは当初、コロシェツの民族会議を認める事を拒んだが、フランスが圧力をかけたことにより、11月11日、パシッチ、トルムビッチ、コロシェツらで単一国家を形成、セルビアとザグレブに存在する「国家」が単一の立憲議会が開かれるまでは完全にその主権行使を行えるとする「ジュネーブ宣言」に署名した。そして、モンテネグロへも参加を要請、連合国に対しても正式な承認を求めた。しかし、クロアチアではフランス・セルビア連合軍がザグレブを含む主要地域を占領しており、事態の流動化を恐れたアレクサンドル皇太子がザグレブ民族評議会副議長スヴェトザル・プリビチェヴィッチにセルビア、クロアチアの合併を要請した。11月24日、ザグレブで評議会が開かれ、「ジュネーブ宣言」を拒否、単一国家樹立を支持する決議が採択された[31]

1918年12月1日、セルビア王国摂政アレクサンダル・カラジョルジェヴィッチは南スラブ人単一国家「セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1929年にユーゴスラビア王国へ改名、以下ユーゴスラビア王国と記述する)」 の樹立を宣言[32]、クロアチアは「コルフ宣言」に従い、スロベニア、ダルマチア、ボスニア・ヘルツェゴビナらと共にこれに取り込まれることとなり、ベオグラードを首都とする南スラブ民族による統一国家が形成された[33]。しかしこの内、スロベニア人、クロアチア人らが住む領域はイタリアが領有権を主張していたため、国境線画定の際、問題を生じることとなった。これはイタリアが、ダルマチア及び、南スラブ人の居住区の大部分を与えるという約束がなされたロンドン条約に基いて参戦したためであった[34]。結局、1920年11月12日に結ばれた「ラパッロ条約」と1924年1月27日に結ばれたイタリア・ユーゴスラビア友好条約により、イタリアにはイストリアフィウメツァーラトリエステが譲られる事となった[35][# 9]

しかも、ユーゴスラビア王国は独立はしたものの、民族構成が複雑という問題を抱えていた。スロベニア人らは比較的纏まった地域に集中していたが、ボスニア・ヘルツェゴビナやヴォイヴォディナやクロアチア、スラヴォニア、ダルマチアではクロアチア人、セルビア人らが混在しており、さらに「南セルビア」と呼ばれた地域ではアルバニア人、ムスリム人、マケドニア人や大部分を占めるセルビア人の中に混在していた。そのため、ユーゴスラビア王国は南スラブ人の単一民族国家と規定されてはいたが、クロアチア人政治エリートらは自治と民族性の強化を求めていたため、これらは受け入れ難いものであり、さらにセルビア人の中でも旧セルビア王国とドナウ、サヴァ以北の「プレチャニン(川向こうの人々)」であるセルビア人と旧セルビア王国のセルビア人らの間の歴史的経験や文化の違いは無視できるものではなかった[37]

建国当初はセルビア急進党 (enストヤン・プロティチ (enを首班とする内閣が形成され、クロアチア農民党 (enは議会に参加することができなかった[38][# 10]。しかし1920年、摂政アレクサンダル公が憲法改正によりユーゴスラビア国王アレクサンダル1世として即位、アレクサンダル1世は王国内の複雑な民族を纏め上げるために腐心しており、1920年12月、各地でストが発生、ボスニアのフシン鉱山で暴動化したことにより、12月30日に「オプズナーナ(国家保護法)」を発令、そして勢力を増していた共産党がアレクサンダル1世の暗殺未遂事件に関与したとして非合法化することなども行った[39][# 11]。しかし、国内ではセルビアを中心とする集権主義が存在しており、これに対してクロアチア人の票のほとんどを集めたクロアチア共和農民党らは連邦制を目指していたため対立が生じており[40]、憲法制定議会においてクロアチア共和農民党が審議をボイコットすることも行われた[38]。そしてその後も平等な連邦制、農民への土地分配、行政費の大幅削減を打ち出したため、セルビア中心主義に反感を持っていたクロアチア農民らは第二次世界大戦まで支持を続ける事となる[41]

  1. ^ ロクサンディチ(1999)、p.61.
  2. ^ 木戸(1977)、p.61.
  3. ^ a b 木戸(1977)、p.71.
  4. ^ 矢田(1977)、p.225.
  5. ^ a b 柴(2001)、pp.78-79.
  6. ^ 木戸(1977)、pp.3-4.
  7. ^ 柴(1998)、pp.211-212.
  8. ^ a b 柴(2001)、pp.79-80.
  9. ^ a b 柴(1998)、p.213.
  10. ^ 柴(1998)、pp.187-188.
  11. ^ 柴(2001)、pp.64-66.
  12. ^ 柴(2001)、pp.80-81.
  13. ^ 木戸(1977)、p.72.
  14. ^ ロクサンディチ(1999)、p.273.
  15. ^ a b c d 柴(2001)、pp.81-82.
  16. ^ a b 柴(1998)、pp.213-214.
  17. ^ 木戸(1977)、p.73.
  18. ^ a b c 矢田(1977)、p.255.
  19. ^ a b c 柴(1998)、p.214.
  20. ^ a b 木戸(1977)、p.127.
  21. ^ 柴(2001)、p.83.
  22. ^ 木戸(1977)、pp.127-128.
  23. ^ 柴(2001)、pp.82-83.
  24. ^ 柴(2001)、pp.90-91.
  25. ^ マトヴェイェーヴィチ(2000)、p.104.
  26. ^ 柴(1998)、pp.215-217.
  27. ^ a b c 柴(1998)、pp.244-245.
  28. ^ 木戸(1977)、p.182.
  29. ^ 木戸(1977)、p.183.
  30. ^ 木戸(1977)、pp.182-183.
  31. ^ 木戸(1977)、pp.183-185.
  32. ^ 柴(1998)、p.266.
  33. ^ 柴(2001)、pp.104-114.
  34. ^ 柴(1998)、pp.244-246.
  35. ^ 木戸(1977)、pp.186-187.
  36. ^ 柴(1998)、pp.245-246.
  37. ^ 柴(1998)、pp.252-253.
  38. ^ a b c 柴(1998)、p.267.
  39. ^ a b 柴(1998)、p.268.
  40. ^ 柴(2001)、pp.104-114.
  41. ^ 木戸(1977)、pp.227-228.


引用エラー: 「#」という名前のグループの <ref> タグがありますが、対応する <references group="#"/> タグが見つかりません