利用者:Linearcollider/下書き3
日比野 雷風(ひびの らいふう、1864年9月20日〈元治元年8月27日[1]〉 - 1926年〈大正15年〉6月25日[2])は、日本の剣客。神刀流剣舞術の創始者。神刀流剣武術[注 1]と武道の精神を広めるべく日本各地を精力的に訪問し、普及活動を行う[3]。
経歴
[編集]島津藩に仕える刀剣鍛冶・日比野源道義の長男として薩摩国千石町で生まれる[1][4]。2歳の時、母親を亡くしている[1]。
刀鍛冶は収入も少なく貧困で身の振り方に窮した源道義は、職を求め雷風をつれて鹿児島を離れた。3歳の時、丹波国篠山に一時居を構えたが再び放浪の旅へと出て、江戸にたどり着く頃には、雷風は4歳を迎えていた[5]。
江戸では新撰組などの刀剣鍛冶に雇われ、しばらくは人並みの生活を送っていたが、程なくして新撰組は凋落し、再び貧窮のどん底へ落ちてしまう[6]。非常に苦しい生活状況になった源道義は、雷風を引き取ってくれる人を探したが誰も取り合ってはもらえず、思いあまって両国橋から身投げして親子心中をしようとしたとき、菓子行商人の山崎栄助に助けられる[7]。
埼玉県北足立郡領家村の山崎家に引き取られることとなった雷風はしばらく楽しい生活を送っていたが、養母の過酷な折檻にあったため、7歳の時に養父の姉の嫁ぎ先である一町目村の木村幸八の家に移り、さらに9歳の時、上村田村の新藤爲三郎の家に奉公へ出された。しかし、子どもで十分に働けなかったため、再び山崎家へ戻されることとなった[8]。
栄助は源道義が興野町の小林寅次郎[注 2]や同じ町の井原家で刀剣鍛冶として雇われていると聞いていたので、雷風の将来を相談するため井原家宅を訪ねたが、源道義は既に失踪していた。このことが縁となり、井原家に奉公することとなる[9]。
栄助に育てられた。
13歳で武者修行に出るが、打ちのめされ、絶望して腹を切ろうとしたところ、通りかかった老人にひきとめられる。この老人こそ父道義であったという。
埼玉県大里郡大里村の貴族院議員・根岸武香の車夫となり、その後上京。撃剣興行と剣舞で生活費を稼ぐ。明治23年(1890年)ごろ、神刀流居合を開いた。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c 日比野雷風伝 1932, p. 1.
- ^ 日比野雷風伝 1932, p. 71.
- ^ a b “吟剣詩舞を確立した日比野雷風”. 刀剣ワールド. 東建コーポレーション、刀剣ワールド財団/日本史研究室、東通エィジェンシー. 2024年11月22日閲覧。
- ^ “神刀流の由来歴史について”. 神刀流. 神刀流 総本部. 2024年11月22日閲覧。
- ^ 日比野雷風伝 1932, pp. 2–3.
- ^ 日比野雷風伝 1932, p. 3.
- ^ 日比野雷風伝 1932, pp. 3–4.
- ^ 日比野雷風伝 1932, pp. 4–7.
- ^ a b 日比野雷風伝 1932, p. 7.
参考文献
[編集]- 『月刊剣道日本』2002年8月号129頁、スキージャーナル
- 日比野正明『日比野雷風伝』心劍會、1932年6月25日。doi:10.11501/1178100。国立国会図書館書誌ID:000000771817。
- 日比野正明『心剣に生きる日比野雷風』(訂補版)心劍會、1936年7月15日。doi:10.11501/1172677。国立国会図書館書誌ID:000000718543。
外部リンク
[編集]