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本堂 平四郎(ほんどう へいしろう、1870年(明治3年)1月17日 - 1954年(昭和29年)2月1日)は、日本の警察官、実業家、文化人。雅号は蟹歩(かいほ)。岩手県出身。警察官時代にはスリの親分として有名な仕立屋銀次の逮捕や乃木希典陸軍大将の検視を指揮、実業家時代には無線電話の実験放送を行い、民営放送局の設立を企図した。また、刀剣の研究家や俳人としても知られている。
経歴
[編集]警察官時代
[編集]1890年(明治23年)、岩手県巡査として採用され、1898年(明治31年)に巡査部長、1899年(明治32年)には警部に昇任し、高等警察主任、保安課長、警務課長を歴任した。
1908年(明治41年)、警視庁警視となり、赤坂警察署長に就任。1909年(明治42年)、関東一円のスリの大親分、仕立屋銀次(富田銀蔵)及びその一味の逮捕を指揮した。また、1911年(明治44年)、香港から上海まで孫文や宮崎滔天らに同行した(辛亥革命の支援とも情報収集ともいわれる)。1912年(大正元年)、明治天皇の崩御に際し殉死した乃木希典陸軍大将の検視を指揮したが、陸軍の山縣有朋元帥や寺内正毅大将らが遺書の一部を隠蔽し、乃木家絶家を希望する乃木の遺志に反して、乃木家に養子を迎えようとしているのを知って憤慨し、国民新聞による遺書の全文発表を手助けした。そのことが陸軍の恨みを買い、翌年、牛込神楽坂署長に左遷された。その後、下谷上野、深川西平野、新宿、麹町各警察署長を歴任。1919年(大正8年)、依願退官した。
実業家時代
[編集]略年譜
[編集]- 1870年(明治3年)1月17日 - 岩手県士族・本堂見煕の長男として、岩手県磐井郡東永井村(現・一関市)にて出生。
- 1887年(明治20年) - 家督を相続。
- 1890年(明治23年)2月 - 岩手県巡査として採用され、黒沢尻警察署に配属。
- 1898年(明治31年)5月 - 巡査部長に昇任。
- 1899年(明治32年)7月 - 警部に昇任し、警察部保安課に配属。
- 1903年(明治36年)3月 - 警察部警務課専属となり、警察監獄学校警察科第一種に入学(第6期)。
- 1904年(明治37年)2月27日 - 警察監獄学校を卒業し、警察部保安課に復帰。
- 1905年(明治38年)4月 - 岩手県警察部、岩手県第四部に改称。
- 1905年(明治38年)4月 - 高等警察主任に就任。
- 1905年(明治38年)9月 - 巡査教習所教官を兼任。
- 1906年(明治39年)4月1日 - 勲八等旭日章[1]。
- 1907年(明治40年)4月 - 第四部保安課長に就任。
- 1907年(明治40年)7月 - 岩手県第四部、岩手県警察部に改称。
- 1908年(明治41年)9月 - 警察部警務課長を兼任。
- 1908年(明治41年)10月30日 - 警視庁警視として採用され、赤坂警察署長に就任[2]。
- 1908年(明治41年)12月21日 - 正八位[3]。
- 1909年(明治42年)6月23日 - 関東一円のスリの大親分、仕立屋銀次の逮捕を指揮。
- 1909年(明治42年)6月28日 - 勲七等瑞宝章(正八位)[4]。
- 1909年(明治42年)12月6日 - 高等官七等[5]
- 1910年(明治43年)2月21日 - 従七位[6]
- 1911年(明治44年)6月28日 - 勲六等瑞宝章。
- 1911年(明治44年)12月初旬 - 辛亥革命支援の名目で、親中義会の一員として上海に滞在。
- 1911年(明治44年)12月21日 - 香港から上海まで汽船デヴァナ号に乗船し、孫文らに同行(~12月25日)。
- 1912年(大正元年)9月13日 - 乃木希典陸軍大将の検視を指揮するとともに、遺書全文の公表を手助け。
- 1913年(大正2年)6月13日 - 牛込神楽坂警察署長に就任(事実上の左遷)。
- 1914年(大正3年)8月15日 - 下谷上野警察署長に就任。
- 1916年(大正5年)9月25日 - 深川西平野警察署長に就任。
- 1917年(大正6年)2月10日 - 新宿警察署長に就任。
- 1917年(大正6年)8月25日 - 勲五等瑞宝章。
- 1918年(大正7年)7月18日 - 麹町警察署長に就任。
- 1919年(大正8年)4月29日 - 正六位。
- 1919年(大正8年)6月21日 - 依願により退官。
- 1919年(大正8年)7月1日 - 朝鮮農事改良(株)の専務就任説は虚伝と報道[7]。
- 1919年(大正8年)7月21日 - 従五位。
- 1919年(大正8年)12月22日 - (株)熱海偕楽園(のち(株)伊豆山偕楽園に改称)が設立され、監査役に就任[8]。
- 1919年(大正8年)12月29日 - 帝国毛織紡績(株)が設立され、取締役に就任[8]。
- 1920年(大正9年)7月 - 日洋土地興業(株)が設立され、取締役に就任[8]。
- 1920年(大正9年)秋 - 報知新聞社のアメリカ特派員である義兄が帰国、アメリカの放送事業の現況について話を聞く[9]。
- 1921年(大正10年) - 麹町区元園町の自宅と中島正武陸軍中将邸の間で無線電話の実験(無許可)[10]。
- 1922年(大正11年)8月22日 - 逓信省、白酔堂・本堂平四郎に機器実験用として私設無線電話を許可したことを告示[11]。
- 1922年(大正11年)9月16日 - 東京日日新聞、「日本もいよいよ無線電話の時代」を掲載[12]。
- 1922年(大正11年)11月2日 - 報知新聞社、麹町区有楽町に近代的社屋を完成、祝賀式を挙行。新館最上階の5階に東洋レヂオ(株)が入居。
- 1922年(大正11年) - この年、東京市麹町区会議員に当選(1期のみ、~1926年)。
- 1922年(大正11年)12月30日 - 義兄とともに東洋レヂオ(株)を設立[13]。
- 1923年(大正12年)3月21日 - 逓信省、報知新聞社に知識普及用として私設無線電話を許可したことを告示[14]。
- 1923年(大正12年)9月1日 - 関東大震災により、白酔堂の無線電話施設の一部が損壊、焼失。
注釈・出典
[編集]- ^ 『官報 第7332号附録』(1907年12月5日) 17ページ
- ^ 『官報 第7606号』(1908年10月31日) 782ページ
- ^ 『官報 第7648号』(1908年12月22日) 544ページ
- ^ 『官報 第7802号』(1909年6月29日) 625ページ
- ^ 『官報 第7937号』(1909年12月7日) 181ページ
- ^ 『官報 第7998号』(1910年2月23日) 425ページ
- ^ 大阪朝日新聞の報道による。
- ^ a b c 熱海偕楽園(伊豆山偕楽園)・帝国毛織紡績・日洋土地興業はいずれも“会社魔”・松島肇の関係する泡沫会社で、平四郎は投資家の信用を得るために名前を利用された。
- ^ 義兄とはおそらく、東洋レヂオ(株)の取締役で放送用私設無線電話出願時の同社代表・佐々木勝成であろう。平四郎の妻・ソノの旧姓は佐々木である。
- ^ 野田卯太郎逓信大臣や後藤新平東京市長ほか有力者の後援を受け、反対論の緩和に尽力した。
- ^ 呼出名称は「東京五番」・「東京六番」、装置方式は白酔堂式真空球式、実験期間は当分の内(必要があれば逓信大臣が許可を取り消し)。麹町区元園町の自宅(白酔堂)と同区麹町の帝国毛織紡績(株)の白酔堂出張所の間で無線電話の実験を行った。さらに京橋区南伝馬町の星製薬(株)の楼上にも受信所を設置し、新聞記者を招待して受信を公開した。
- ^ 記事によれば、当時無線電話の実験を行っていたのは東京日日新聞社、東京発明研究所(浜地常康)、白酔堂(本堂平四郎)の三者で、数少ない無線電話製造販売会社としても白酔堂の名が挙げられている。
- ^ 所在地は東京府麹町区有楽町二丁目1番地(報知新聞社新館5階)。目的は無線電話・電気機械及び付属機械器具の製作、修理、販売。小規模ながら無線機器の輸出入も行った。
- ^ 呼出名称は「東京十番」・「東京十一番」、装置方式は東洋レヂオ式(ただし、送信機は東洋レヂオ(株)が輸入したウェスティングハウス社製)。第3回帝国発明品展覧会の会期(3月20日~5月20日)中、麹町区有楽町の報知新聞社本社5階に機器に装置を設置して、ニュースや小唄、常磐津などを放送、上野公園の博覧会会場で受信を公開した。