利用者:La Bandera Blanca/sandbox
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負の功利主義
[編集]負の功利主義 では、幸福を最大限までに高めるよりも苦痛を最小限に抑えることの方がより倫理的に重大であるとされる。
ヘルマン・ヴェター (1933-)が賛同したヤン・ナーベソン(1936-)の非対称仮説はこう主張する:[1]
- 仮に子が生涯にわたって著しく幸福であることがが保証されていても、その子供を出生させるべき倫理的責任は存在しない
- もし子が不幸になりうることを予想できるのであればその子供を出生させるべきではない論理的責任が存在する
しかし、ヘルマンはナーベルソンのこの結論に賛同しなかった:
- 一般的には、子が不幸を経験すること、また、他者に不利益をもたらすことが予想されないのであれば、子供を出生させる、もしくはさせない義務は生じない
代わりに、彼はこの決定理論的テーブルを提示した:
子が幸福になる | 子が不幸になる | |
---|---|---|
子を出生させる | 倫理的責任は生じない | 倫理的責任は不履行 |
子を出生させない | 倫理的責任は生じない | 倫理的責任は履行される |
”子を出生させない”ことが、同程度、もしくはより良い結果をもたらすため、”子を出生させる”ことよりも優位にあると考えられる。そのため子が不幸になる可能性を排除できない限り―これは不可能であるが―、前者はより好まれる。. そのため、我々は(3)の代わりに、より踏み込んだ(3')―どのような場合でも、子供を産まないことが倫理的に好まれる―を結論とする。
カリム・アケルマは、人生の中で起きうる最良のことは最悪なこと―激痛、怪我、病気、死による苦しみ―を相殺せず、出生を控えるべきであると主張している。。[4][5]
ブルノ・コンテスタビリー はアーシュラ・K・ル=グウィン の "オメラスから歩み去る人々" を例として挙げている。この短編では、隔離され、虐げられ、救うことができない一人の子供の苦しみにより、住民の繁栄と都市の存続がもたらされるユートピア都市オメラスが描かれている。大半の住民はこの状態を認めて暮らしているが、この状態を良しとしない者もおり、彼らはこの都市に住むことを嫌って"オメラスから歩み去る"。コンテスタビリーはこの短編と現実世界を対比する: オメラスの存続のためには、その子供は虐げられなければいけない。同様に、社会の存続にも、虐げられる者は常に存在するという事実が付随する。コンテスタビリーは、反出生主義者は、そのような社会を受け入れず、関与することを拒む "オメラスから歩み去る人々"と同一視できると述べた。また、「万人の幸福はただ一人の甚大な苦しみを相殺できうるのか」という疑問を投げかけた。[6]
- ^ J. Narveson, Utilitarianism and New Generations, Mind 1967, LXXVI (301), pp. 62-67.
- ^ H. Vetter, The production of children as a problem for utilitarian ethics, Inquiry 12, 1969, pp. 445–447.
- ^ H. Vetter, Utilitarianism and New Generations, Mind, 1971, LXXX (318), pp. 301–302.
- ^ K. Akerma, Soll eine Menschheit sein? Eine fundamentalethische Frage, Cuxhaven-Dartford: Traude Junghans, 1995.
- ^ K. Akerma, Verebben der Menschheit?: Neganthropie und Anthropodizee, Freiburg im Breisgau: Verlag Karl Alber, 2000.
- ^ B. Contestabile, The Denial of the World from an Impartial View, Contemporary Buddhism: An Interdisciplinary Journal, volume 17, issue 1, Taylor and Francis, 2016.