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利用者:LT sfm/賦

前2世紀、梁の劉武の屋敷で賦を競う人々。宋の絵画
Fu
繁体字
簡体字
発音記号
標準中国語
漢語拼音
ウェード式fu4
IPA[fû] ( 音声ファイル)
国語ローマ字fuh
呉語
ローマ字
客家語
客家語拼音fu4
粤語
イェール粤拼fu
IPA[fūː]
粤拼fu3
閩南語
閩南語白話字
中古音
中古音pjù
上古音
バクスター-
サガール
*[p(r)a-s][1]

は、中国語の韻文の一形態で、漢代に流行した文体。 場所・物体・感情・その他の主題を、徹底した細部およびできるだけ多くの角度から表現・朗誦する散文の中間の作品である[2]。 古賦の作者はできるだけ幅広い語彙を使用しようと試み、しばしば非常に多くの珍語・古語を含んでいた[3]。賦では韻と散文が交互に繰り返され、不揃いな一句の長さ、類似する頭韻オノマトペ、緩やかな対句、主題の網羅的な陳述などを特徴とする[4]

詩経楚辞の歌とは異なり、賦は朗誦され語られることを想定していたが、歌われるものではなかった[5]。 賦は紀元前3~2世紀にかけて繁栄し、代(960-1279)に至るまで定期的に使われ続けた。賦は宮廷、宮城、都市の壮大な賞賛に用いられたが、あらゆる場所、物、感情を網羅的に表現する詠物賦を書くのにも用いられた。 歴史的な賦の集成で最大のものは、『文選』『漢書』『玉台新詠』および各王朝の正史である。

西洋において賦に対応または類似するジャンルは存在しない[6]。過度に修辞的で現実的な感情に欠け、道徳的主張が曖昧であるとして、20世紀の間は長らく、賦は中国の学者の批判するところであった[7]。このような歴史的経緯もあって、中国の賦文学研究は1949年から文化大革命の終わる1976年まで、ほとんど消滅しかけていた[8]。それ以降は、賦の研究は徐々に以前の水準を取り戻しつつある。

歴史

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起源

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中国古典において賦という言葉が初めて見えるのは周代であり、詩の朗誦のように「提示」することを意味していた[9]。賦はまた、詩経の歌に伝統的に用いられた3つの文学的手法の1つでもあった[9]紀元前1000年紀を通じて、賦は作詞家が包括的に物事を述べ、それを語って披露する叙事詩の名となった[9]。漢代の歴史家班固は『漢書』芸文志において、賦を「不歌而誦云之賦(歌わずして誦す、之れを賦と云ふ)」と定義する[9]

賦はしばしば『楚辞』から派生し、『戦国策』の修辞的な語りと融合したものと見なされる[3][10]紀元前2世紀の賦の黄金時代には、優れた賦作家の多くが楚から現れた[11]。一連の謎を含んでいる『荀子』の1章は、知られている最古の賦とされてきた。 年代の明らかな現存最古の賦は、紀元前170年頃に作られた賈誼の〈鵩鳥賦〉である[12]。賈誼の現存する作品では、彼が長沙への流謫に際して〈離騒〉になぞらえて作った賦に言及しているが、この作品は散逸している。

漢代

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現存する漢賦やその他の詩の大部分は、種々の作品に引かれたものを含め、六朝時代の文集などに残されたものである。

前漢

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賦の最盛期は漢代の初期である。前170年ごろの賈誼〈鵩鳥賦〉は長沙への追放の3年後に書かれたものであり、〈離騒〉ほか屈原の作の形式に倣っている。〈鵩鳥賦〉は知られている最古の作品であると同時に、作者の人生における立ち位置について思索を広く述べている点で特異である[12]

前141年に王位を継いだ武帝の54年に及ぶ治世は、大賦の黄金時代と言われる[11]。武帝は長安の宮廷に名だたる賦家を呼び寄せ、多くの作家が賦を宮廷中で披露した[11]。武帝の治世における最初期の大賦は枚乗による「七発」である[11]。七発では、枚乗は戦国の食客を演じ、享楽のあまり病魔にかかった楚の王子を、賦を語って彼の感覚を限界まで押し出すことで癒そうと試みる[4]

大賦の黄金時代を築いた作家の中で、司馬相如は白眉と見なされる[12]。成都の生まれで、武帝が偶然彼の作〈子虚賦〉を読んだ際に彼を宮廷に招いたと言われるが、この話はほぼ確実に後付けである[11]前136年に都に上ると、司馬相如は〈子虚賦〉を傑作〈上林賦〉に発展させた。この賦は一般にもっとも有名な賦とされる[4][12]。おそらく原題は〈天子遊獵賦〉だったとされ、長安の東に作られた皇帝の私有の狩場を称えるものであるが[12]、珍語・難語や珍しい字を多用していることで知られる[13]4世紀の学者・郭璞による注釈がなければ、古風で難解な語の多くは今や理解不能になっていた。次の一節は〈天子遊獵賦〉の前半、鉱物・貴金属・動植物の名前を押韻しながら列挙する部分であるが、事物の陳述と珍語という大賦の特徴をよく示している[14]

前漢の大賦は、純粋な詩的遊戯として朗読し披露され、制約にとらわれない娯楽と道徳的訓戒を一作品の中に融合させた最初の中国文学であった[15]。しかし武帝の後、彼の宮廷文化は、賦に大言壮語を尽くした結果、風紀をただす機会を逸したと批判され始めた[16]。大賦批判の急先鋒は、漢の賦作家の一人であった揚雄である。若き揚雄は司馬相如を賞賛し模倣していたが、のちに大賦に批判的になる。彼は賦の本来の目的は「諷」、つまり主君を諫めることにあると考えていたが、賦の過度に修辞的な主張と複雑な語彙とが、聞く者・読む者をして美的な面にのみ驚嘆せしめ、道徳的な内容が抜け落ちてしまったと考えたのである[16]。揚雄は漢初の賦と『詩経』の賦に似た作品を並べて、『詩経』の詩は道徳のあるべき姿を述べていたが、漢代の賦は「行き過ぎている」と述べる[16]。漢代の賦の大家として知られる一方で、揚雄の賦は受け手に道徳的規律を持つように促していることでよく知られる[13]

後漢

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後漢のもっとも著名な賦作家は、張衡蔡邕であった。 張衡の著書にはかなりの数の賦があり、後漢の典型となる短篇の賦の祖となった[17]。張衡の最初期の作として知られるのは、のち楊貴妃に愛されたことで有名となる驪山温泉(今日の華清池)を述べた〈温泉賦〉である[17]。 〈二京賦〉は張衡の傑作として知られる[18]。張衡は、漢代の2つの都・洛陽と長安を比較した班固の〈二都賦〉への応答として、10年に及んで賦の素材を収集した[18]。張衡の賦はきわめて風刺的で、武帝をはじめ前漢期の特徴を巧みに模倣する[19]。この作品は、歓楽街を含めた二都の華やかな生活を緻密に描いている[20]

蔡邕は張衡と同様に、数学・天文・音楽への興味に加えて、多作な文章家であった[21]159年、蔡邕は帝の前で古琴を弾くため長安に招かれたが、到着直前に病気になり、故郷に帰った[21]。彼の最も著名な賦〈述行賦〉では、その旅程が詩につづられている[21]。〈述行賦〉では、歴代の不誠実で不正直な君臣の例を引き、同様の罪で都の宦官を批判している[22]

2世紀後半から3世紀初頭にかけて多くの賦作家が大詩人と見なされるが、その特徴は漢王朝滅亡後の混乱と荒廃を描写した点にある。192年董卓暗殺の後、難民となった王粲は、〈登楼賦〉と題する有名な賦を作った。これは、王粲が荊州付近にあった楼閣に登り、旧都洛陽の方角を物憂げに眺めるさまを動的に描いたものである[23]禰衡の〈鸚鵡賦〉のように、詩人はしばしば賦の主題を自らになぞらえて用いた。禰衡は鸚鵡賦で、才能がありながら重んじられず、囚われの身のために発言も思うがままにならぬ学士としての境遇を、籠の中のオウムに託けた[23]三国時代、英雄曹操とその息子曹丕曹植の邸宅は文学のサロンとなり、この遊苑から生まれた多くの賦が今日まで残っている。

六朝

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六朝の間にはが徐々に台頭したが、賦は六朝文学の中で未だ主要な地位を占めていた[23]。六朝期の賦は漢代に比べはるかに短く質素であるが、これはこの時代に興った詩全体を対句法で構成する伝統によると考えられる[23]。 叙情賦と詠物賦は漢王朝ではまったく異なる体裁を取っていたが、2世紀以降はほとんど区別がなくなった。 漢の華美な賦の形式はほぼ消滅したが、詠物賦は引き続き広く作られていた[23]

謝霊運は六朝を通じて、陶淵明に次いで最も有名な詩人の一人である。やや上の世代の陶淵明とは対照に、謝霊運は難語や暗喩、対句の多用で知られている[24]。 謝霊運の代表作は、司馬相如の〈天子遊獵賦〉の形式に範を取り、漢の大賦に似せて私有地を描いた〈山居賦〉である[25]。 古典的な漢賦と同様、この詩では難解で稀少な文字を多用するが、〈山居賦〉には彼自身の注が添えられている点で独特である[25]

南朝梁代、依然として賦は文体として人気であったが、五言詩や七言詩と融合し始め、唐代にかけて詩は完全に賦に取って代わることとなる[26]。謝霊運の〈山居賦〉をオマージュした沈約の〈郊居賦〉など古典的な賦の形式を継いだ作品もあったが、これに従わないものも多くなった[26]簡文帝による〈採蓮賦〉は短篇の抒情賦で、流布していた抒情詩を自由に取り入れつつ、華南を喜びと官能にあふれた理想郷として描き出した[26]。蓮を採る行為は伝統的に農婦と結びつけられてきたが、5世紀初頭には賦や詩における一般的な主題となった[27]

庾信は、歴代最後の偉大な賦作家として知られている[28]。庾信は顔之推と同じく華南に生まれ、南朝の敗北後に北朝の北周に移住することを余儀なくされた後は、南朝の滅亡を南方文化や生活の喪失として描き出すことに腐心した[29]。 庾信の代表作は、江南とその文化の滅亡という時代に翻弄された人生を描いた〈哀江南賦〉である[29]

唐宋

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の時代、賦は著しい変貌を遂げることとなる[30]。初唐には律賦という新しい賦の形式が旧来の賦に取って代わった。律賦は形式や表現に厳しい制約があり、全体を通じて所定のリズムを守らねばならない。加えて、声調の配置にも規則がつくられた[30][30]サンスクリットパーリ語仏典の伝来が中国語の体系的研究を促し、四声の自覚につながったのである[30]。唐初には律賦が科挙の一部に組み込まれた。唐の文章家は従来の賦の主題に、典故に基づく道徳的な要素を新たに取り入れた[30]駢賦も唐に興った賦の様式であり、専ら修辞的作品にのみ用いられた[31]

826年、唐の詩人杜牧の〈阿房宮賦〉が散文で自由に韻を踏む文賦と呼ばれる新たな賦の基礎を確立し、晩唐から宋にかけての賦の主流となった[31]9世紀10世紀までには、伝統的な賦は主に歴史研究の対象となり、科挙に取り入れられたことで広く読まれ筆写された[32]

主題

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詠物賦

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紀元前130年~100年の間に、武帝は一連の軍事行動と侵略によって漢の領域を中央アジア、ベトナム北部から朝鮮半島まで急速に拡大する[33]。領土の広がりに伴って、外国からおびただしい数の動植物や物品・珍品が長安の都に持ち込まれ[33]、こうした目新しい事物を詠み込み記録する詠物賦が漢代を通じて官僚や詩人の間に流行した。詠物賦は賦文学の主流となり、膨大な器具や事物・事象を網羅した[34]

中国史上最大の女流詩人として知られる班昭は後漢の和帝のころに〈大雀賦〉を遺しており、これは110年ごろパルティアから漢の宮廷に持ち込まれたダチョウを詠んだものとされている[35]。学者の馬融は古代のボードゲームにまつわる賦を2つ作っている[36]。〈樗蒲賦〉は老子西域へ旅立った後に発明したとされる樗蒲を描き、また〈囲棋賦〉は囲碁に関する最初期の記述として知られる[36]。後漢の司書王逸は、『楚辞』の諸本の1つ『楚辞章句』の編者として最も有名であるが、2世紀初頭の詠物賦の作家でもある。〈荔枝賦〉はライチを詩に読んだ最初の作品とされている[37]

曹操の文学サロンでは、建安の七子として知られる詩人たちがそれぞれに賦を作り、詠物賦の名作の数々を生み出した[38]。曹操がたぐいまれな品質の大きな瑪瑙を与えられ、これを頭絡に仕立てると、詩人らは時に際して各々の〈瑪瑙勒賦〉を作った[38]。 曹操の宮廷で作られた詠物賦としては、西域のインド周辺のサンゴや貝の素材から作られた椀を詠んだ〈硨磲碗賦〉も知られる[38]

束皙の賦は中国の食物史によく知られるところである。彼の〈餅賦〉は、饅頭餃子などの当時はまだ伝統的な中華料理とは言えなかった粉物料理を網羅的に記述している[39]西晋の詩人・傅鹹の〈紙賦〉は、150年ほど前に発明されたについての初期の記録として知られる[40]

諷刺

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社会政治諷刺の一手段としての利用は、賦に結びついた伝統の1つである。例えば、実際に受けるべき栄誉や賞賛を与えられず、時の君子や権力者から不当に追放された忠臣を主題とするものなどである。『楚辞』中の屈原の手になるとされる〈離騒〉はこうした伝統の最初期の作品として知られ、賦文学の祖であると同時に詩の題材としての政治批判を取り入れた初の作品でもある[41][42]。不当な追放という主題は潇湘詩の発展とも関連している。これは、形式的またはテーマ的に詩人の追放の悲しみに基づく詩であり、直接的なものもあれば、友人や史上の英雄の人格を借りて隠喩的に行われることもある。隠喩は、皇帝を露骨に非難すれば罪せられる可能性のある詩人の取った安全な諷刺の手段であった[43]

漢代を通じて、賦の形式的な発展とともに、間接的・隠喩的な諷刺を盛り込む考え方も発展した。班固は『漢書』において、屈原賦を不当な追放を受けた忠臣という主題を文学的主題に用いた例として言及している。ヘルムト・ウィルヘルムは次のように述べる。「(…)漢賦は数種類の類型に容易に分類することができる。全ての類型にはある特徴が共通して見られる。ほぼ例外なく、賦は批判を表明するものとして解釈でき、またそう解釈されてきた。時の君子に対して、あるいは君子の行いや、君子の下す特定の法や計画に対して。また権力者の寵愛する権力者を諫める場合もあれば、一般に、分別なく役人を重用することも批判の対象となった。前向きな色合いの賦で、作者自身やその仲間の重用をすすめる、あるいは特定の政治的な示唆を含む例はほとんど存在しない。端的に言えば、ほぼすべての賦は政治的な意図を含んでおり、加えてそのほとんどは君子とそれに仕える家臣の関係に関するものである。」文脈から判断する限り、班固の屈原や離騒の形式に関する議論は、実際の賦文学の発展よりも、賦の主たる目的が詩的な諷喩を通じた社会政治批判にある点に向けられていた。したがって賦においては、逆説的に、「幻想的な記述と修辞は(…)自制的に削られることがある」[44]。賦に本質たる社会政治批判は、極めて微妙で巧みに表現された、偶発的かつ暗喩的なモードに制約されていたからである[45]

賦集

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賦は、中国文学の初期の作品集である『文選』の第一の主要な群をなしている[46]。『文選』は漢初からこれが編纂された梁朝(6世紀)までの全ての賦を集めており、以来古典賦を研究する伝統的資料であった。

17世紀末から18世紀初頭にかけての康熙帝の治世には、学者の陳元龍が、当時知られていた全ての賦を集め、1706年に『歴代賦彙』として発刊した。この賦集は合わせて4155首の賦を採録している。

関連項目

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注釈

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  1. ^ ()が挿入されているのは、言語学的に/r/の音があったかが断言できないことを示している。
  2. ^ Cao & Knechtges 2010, p. 317.
  3. ^ a b Idema & Haft 1997, p. 97.
  4. ^ a b c Kern 2010, p. 91.
  5. ^ 『漢書』, 引用元: Kern (2010), p. 88.
  6. ^ Gong 1997, p. 3.
  7. ^ Gong 1997, p. 5.
  8. ^ Gong 1997, p. 5-10.
  9. ^ a b c d Kern 2010, p. 88.
  10. ^ Ho 1986, p. 388.
  11. ^ a b c d e Kern 2010, p. 90.
  12. ^ a b c d e Idema & Haft 1997, p. 98.
  13. ^ a b Kern 2010, p. 89.
  14. ^ Knechtges 2010, p. 184.
  15. ^ Kern 2010, p. 92-93.
  16. ^ a b c Kern 2010, p. 93.
  17. ^ a b Knechtges 2010, p. 143.
  18. ^ a b Knechtges 2010, p. 144.
  19. ^ Knechtges 2010, p. 144-145.
  20. ^ Knechtges 2010, p. 145.
  21. ^ a b c Knechtges 2010, p. 156.
  22. ^ Knechtges 2010, p. 157.
  23. ^ a b c d e Idema & Haft 1997, p. 109.
  24. ^ Tian 2010, p. 235.
  25. ^ a b Tian 2010, p. 232.
  26. ^ a b c Tian 2010, p. 264.
  27. ^ Tian 2010, p. 267.
  28. ^ Idema & Haft 1997, p. 110.
  29. ^ a b Tian 2010, p. 270.
  30. ^ a b c d e Owen 2010, p. 289.
  31. ^ a b Owen 2010, p. 350.
  32. ^ Owen 2010, p. 361.
  33. ^ a b Kern 2010, p. 95.
  34. ^ Knechtges 2010, p. 118.
  35. ^ Kern 2010, p. 129.
  36. ^ a b Knechtges 2010, p. 149.
  37. ^ Knechtges 2010, p. 150.
  38. ^ a b c Knechtges 2010, p. 170.
  39. ^ Knechtges 2010, p. 194.
  40. ^ Knechtges 2010, p. 193.
  41. ^ Hawkes & 2011[1988], p. 211.
  42. ^ Davis 1990, p. 46-47.
  43. ^ Davis 1990, p. 48.
  44. ^ Wilhelm & 1967 [1957], p. 311.
  45. ^ Wilhelm & 1967 [1957], p. 312-314.
  46. ^ Tian 2010, p. 255.

参考文献

[編集]
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  • Gong, Kechang (1997). Studies on the Han Fu (Han fu yanjiu. Translated by David R. Knechtges. New Haven: American Oriental Society 
  • Hawkes, David (1985). The Songs of the South. London: Penguin Books. ISBN 978-0-14-044375-2 
  • Ho, Kenneth Pui-hung (1986). “Fu 賦”. In Nienhauser, William. The Indiana Companion to Traditional Chinese Literature (2nd revised ed.). Bloomington: Indiana University Press. pp. 388–391. ISBN 0-253-32983-3 
  • Idema, Wilt; Haft, Lloyd (1997). A Guide to Chinese Literature. Ann Arbor: Center for Chinese Studies, University of Michigan. ISBN 0-89264-123-1 
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  • Knechtges, David R. (1996). Wen Xuan, or Selections of Refined Literature, Volume Three: Rhapsodies on Natural Phenomena, Birds and Animals, Aspirations and Feelings, Sorrowful Laments, Literature, Music, and Passions. Princeton: Princeton University Press. ISBN 0691021260 
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  • Tian, Xiaofei (2010). “From the Eastern Jin through the early Tang (317–649)”. In Owen, Stephen. The Cambridge History of Chinese Literature, Volume 1: To 1375. Cambridge: Cambridge University Press. pp. 199–285. ISBN 978-0-521-11677-0 
  • Wilhelm, Hellmut (1967 [1957]). "The Scholar's Frustration: Notes on a Type of Fu", in Chinese Thought and Institutions, John K. Fairbank, editor. Chicago and London: University of Chicago Press.