利用者:Kzhr/国語国字問題
国語国字問題(こくごこくじもんだい)とは、近代化の際に、各国が自国の言語や表記などについての標準化の過程において論争を呼び起こした問題を言う。
国力増進、教育の問題、社会変革などの理由から、それまでの言語体制では対応しきれないとして、諸国で方言の統一、字体の簡易化などが試みられた。また、各国とも短期間に変革を試みたために、反対意見などが噴出し、大論争に発展する場合もあった。
日本
[編集]日本の国語国字問題は、大体の文脈において各種仮名遣いの選択の問題、漢字使用の廃止、制限、簡略化など用字の選択に関するものが多い。しかしそのほかにも伝統的な表記である古文及び漢文から口語体への移行や、方言を廃しての標準語の制定などの争点があった。また、日本語を廃して西欧の言語を採用しようという主張もあった。
年表
[編集]- 1866 前島来輔(のちの密)が「漢字御廃止之議」を将軍徳川慶喜に提出。
- 1872頃 森有礼が英語公用語化論を主張。
- 1874 西周が「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」を提出。
- 1900 文部省が小学校令施行規則を施行、標準語をして教育をすることとし、字音仮名遣い及び変体仮名は排し、漢字音は今まで、せうと著していたのをしょーとするような、いわゆる棒引き仮名遣いを採り、また、仮名は一字につき一音という法則を打ち立てた。
- 1902 文部省国語調査委員会ができ、表記の表音文字化(ローマ字の使用など)、標準語の制定、口語文の通用を目標とした。
- 1908 文部省臨時国語調査会を発足し歴史的仮名遣いの変更を打診。
- 1923 臨時国語調査会が常用漢字表を発表。
- 1931 臨時国語調査会が常用漢字表を改正し表音式仮名遣いを提唱。
日下部漢字表、戦中の常用漢字表、戦後のアメリカ教育何とかのはなし、国語審議会の決議。その後は?
人物
[編集]上田萬年; 福田恒存
その他
[編集]カナ文字専用論、ローマ字専用論は、その主張において等しく漢字を廃し、単一の文字体系をのみ使用せよと主張した。また、漢字やカナ、ローマ字、ハングルエトセトラから新しく文字を作り出し、それを使う、という意見もあった。
カナ文字専用論
[編集]ローマ字専用論
[編集]仮名遣い
[編集]発端
[編集]漢字を廃止せよ、あるいは厄介者だという意見が形成されだしたのは、安土桃山期からの西洋語についての知識が入ってくることに興る。蘭学の研究者が、西洋の言葉がアルファベット二十六文字であれだけの文明発達を遂げたのに対し日本語はいくつあるかもわからない漢字を使っているのは、西洋諸国に遅れをとるというのがその論旨であった。また、国学者の間でも、賀茂真淵、本居宣長等は漢字を漢意であるとして排し、和語を尊んだ。
また、明治以降の仮名遣いの原型となる仮名遣いが契沖やその弟子石塚龍麿等の手で整えられた。当時の仮名遣いは藤原定家によるとされる定家仮名遣いが主をなしていたが、国学の先を切って万葉集や日本書紀の研究を始めた契沖が、定家仮名遣いの定まらざるを指摘し、その範を古に拠った。契沖はまた真言宗の学の影響で五十音表を完成させた。その論は国学者の間に受け入れられ、一般にも普及していった。それを後世になって契沖仮名遣いと呼んだ。
初期論争
[編集]鎖国が終ると、日本は不休の近代化へと突入した。近代化において、漢文・和文を前近代の遺物であるとして、新たなる日本語を導入しなければならないという認識が高まる。彼等は舶来の知識を身につけ、日本が近代化する道を探るために西欧との比較を行い、結果として、前島密の漢字廃止論(「漢字御廃止之議」、1866年)、西周のローマ字化論(「洋字ヲ以テ国語ヲ書スルノ論」、1874年)、森有礼の英語公用語化論(1872年頃)等が国語や国字の改革案として提出された。福沢諭吉はその著「文字之教」(1873年)において「(不便な漢字を無くす準備というのは)むつかしき字をば成る丈用ひざるやう心掛ることなり」として、漢文の使用中止、漢字の漸減を提唱した。新聞・出版社は、保有する活字を減らしたいという思惑から、漢字の簡略化、総数制限などを唱えた。しかし、それに対して漢字擁護派からは漢字利導論(三宅雪嶺)、漢字節減論(矢野文雄)など、漢字を廃止したりするのは却って実用にも教育にも不便であると主張した。漢字廃止論はその後カナモジカイや日本ローマ字協会の運動へとつながっていく。
明治維新で、教育・文学にも変革がおこった。教育においては学制の実施に伴い、教科書が整備され、そこでは契沖の仮名遣いを歴史的仮名遣いと名づけ、併せて字音仮名遣いも採用された。文学においては言文一致運動、新体詩、短歌革新、日本派など、漢文・漢詩・古今調・月並俳諧などの従来の表現では新しい時代に対応できないと主張する文学運動が展開された。中でも、言文一致運動では東京の言葉を用いて表現をする試みがなされ、一気に普及した。
1900年になって文部省より小学校令施行規則が施行され、字音仮名遣い及び変体仮名が排されて、漢字音はせうと著していたのをしょーとするような、いわゆる棒引き仮名遣いが採られ、また、仮名には一字につき一音という法則が打ち立てられた。1902年、文部省国語調査委員会が設置され、「文字ハ音韻文字(『フオノグラム』)ヲ採用スルコトヽシ假名羅馬字等ノ得失ヲ調査スルコト」「文章ハ言文一致体ヲ採用スルコトヽシ是ニ関スル調査ヲ為スコト」「方言ヲ調査シテ標準語ヲ選定スルコト」など、言文一致体、標準語の作成、文字の変更を前提にした方針を決定した。1908年更に臨時国語調査会を発足し歴史的仮名遣いの変更を打診したが、委員に選ばれた森鴎外や国語学者の山田孝雄、外野からも芥川龍之介(「文部省の仮名遣改定案について」)など、反対が多勢を占め、棒引き仮名遣いも取りやめることとなった。
その後上田万年を中心に再度仮名遣いや、漢字制限、字体簡略化が諮られ、1923年常用漢字表、1931年改正及び表音式仮名遣いの提唱などがなされた。その後軍政下は復古的な歴史的仮名遣い派と進歩的な表音仮名遣い派が一進一退を繰り返した。
全面的改革
[編集]敗戦後、アメリカ合衆国から教育視察団が来日し、ローマ字の使用を勧告、それを受けて土岐善麿らが中心となって国語審議会が出来、反対派を押し切って当用漢字および現代仮名遣いを勧告、それが順々に採用されて今に至る。
中華人民共和国
[編集]中華人民共和国においては、封建政治への反発などから魯迅等による白話による文学運動が起こされた。また、漢字の膨大を批判し、ローマ字の採用など漢字の廃止が唱えられた。共産党国民党内戦の後、第一次簡体字、第二次簡体字が発表されたが、第二次簡体字は反発が強く、使用が却って禁止された。
朝鮮
[編集]朝鮮では、宮廷において旧来漢文が正しきものとして朝鮮語はあまり用いられなかったが、15世紀李氏朝鮮の時代、平民が使うものとして朝鮮語の発音を表す訓民正音が世宗(在位:1418年~1450年)によってつくられたが広く普及することはなかった。しかしながら日韓併合時に日本総督府が初等教育を義務化させる過程を円滑にするためにハングルを採用したことにより全国的に普及した。その後、同化政策に伴う日本語強制教育を経て、第二次戦争後に自国語への意識が急激に高まり、漢文を廃し、訓民正音に示された字をハングルとして自国語を表す文字として採用した。最初は漢字と併記していた。韓国では軍政下、ハングルのみによる表記が行われるようになった。しかし、その反動で漢字復権を目指す動きも出ている。北朝鮮ではすぐにハングル(北朝鮮ではチョソングル)のみの表現に切り替えられ、漢字はまったく廃止された。
ベトナム
[編集]ベトナムにおいても、韓国と同じように、旧来漢文が正当なものであり、字喃などがあったにはあったが、表立って使われることはなかった、フランス植民地化後、ローマ字を採用した。