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利用者:Kurimarron/シャルル・ド・モンタランベール

シャルル・ド・モンタランベール
Charles de Montalembert

生年月日
1810年4月15日
ロンドン
没年月日
1870年3月13日
パリ

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シャルル・ド・モンタランベール(フランス語:Charles Forbes René, comte de Montalembert, 1810年4月15日-1870年3月13日)は、政治家・歴史家・評論家。主にリベラルカトリシズムの理論家として知られる。

1831年以降貴族院議員、第二共和政で立憲議会及び立法議会議員、第二帝政立法院議員を務めた。立憲君主制自由主義を支持し、報道の自由結社の自由民族自決を擁護した。教育の自由を提唱し、公教育へのカトリック教会の関与を認めたファルー法(1850年3月2日)の起草に参加した。

略歴

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家族

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モンタランベール家はアングーモワの13世紀にさかのぼる帯剣貴族である。シャルルの父マルク=ルネ・ド・モンタランベール伯爵は、1792年共和政の成立を受けて亡命し、コンデ公が組織した反革命軍に参加したのちイギリス騎兵隊に所属し、1808年にスコットランドの画家・探検家ジェームズ・フォーブスの娘エリーズと結婚した。1810年4月15日、ロンドンで長男シャルルが誕生した。

子供時代(1810-1828)

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1814年にナポレオン第一帝政が終焉すると、マルク=ルネはルイ18世とともにフランスに帰国した。1816年にシュトゥットガルト に大使として赴任し、1820年から貴族院議員となった。

シャルルは1819年までイギリスで母方の祖父に育てられた。その後フランスに渡り、パリのブルボン高校(現コンドルセ高校)とサント・バルブ学院で教育を受けた。シャルルは早熟で熱心な学生で、イギリスの政治制度に関心を抱き、自由主義的な政治思想を育んだ。一方、母の改宗(1822年)を機にカトリシズムの信仰を深めていった。

同世代の青年たちと同様、モンタランベールはロマン主義の影響を受け、崇高、天才、犠牲を夢見た。15歳の時には、神とフランスの自由に同時に自分を捧げるという厳粛な誓いを立てている。

祖国のために生きることは、互いを愛することを命じる神の声に従うことになる。人生をすべて捧げる以上に、同胞を愛する方法があるだろうか。そうすることで、世界で最も美しく偉大なもの、宗教と自由のために生きることができるだろう。

学生時代(1828-1830)

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スウェーデン滞在(1828-1829)

モンタランベールは1828年2月にバカロレアを取得し、修辞学のコンクールで入賞した。8月26日には、前年から父が大使として赴任していたストックホルムに両親を訪ね、ストックホルムの街とスウェーデンの政治体制に魅了された。スウェーデンでは師で友人でもあった哲学者ヴィクトル・クーザンヴィクトル・クーザンのために翻訳したカントの『実践理性批判』に落胆する一方、シェリングバーダーなどドイツの理想主義、神秘主義思想家の著作を熱心に読み、クーザンの折衷主義から離れていった。

法律とジャーナリズム

1829年にパリに戻ると、モンタランベールは法律の勉強を始めるとともに、フランソワ・ギゾーらが主宰する雑誌Revue françaiseや週刊誌Correspondantにスウェーデンに関する記事を寄稿した。

ロマン主義文学との関わり 文学については、モンタランベールはロマン派を好む一方、「我々の時代における霊性の甚大な必要性を明らかにした」としてバルザックの『あら皮』を最初に評価した一人でもあった。母エリーズはラマルティーヌやマルティニャックらを頻繁にサロンに迎えていた。モンタランベールはヴィニーサント=ブ―ヴ、そしてとりわけヴィクトル・ユゴーを賛美し、劇場における自由の表明として『エルナニ』を熱く支持した。

政治活動(1830-1837)

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アイルランドの例

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1830年7月25日にイギリスに向けて発ったモンタランベールは、七月革命が勃発した時にはロンドンに滞在していた。憲章に違反したとみなしたシャルル10世の退位には好意的であったが、続く自由主義者の過剰な反宗教的行動は非難した。


モンタランベールはイギリスからアイルランドに向かい、そこでカトリック協会の設立者ダニエル・オコンネルに会った。1829年にアイルランドのカトリック教徒の解放を勝ち取ったオコンネルは、モンタランベールの目に、信仰の自由の勝利と、暴力でなく権利に基づく平和的な勝利を体現する人物として映った。モンタランベールは、1801年の政教条約によって規定され、復古王政と結びつき自由主義と対立するフランスの教会とは反対に、政府の干渉を受けず、信者の寄付のみで運営される「そのゆりかごのように自由で貧しい[1]」アイルランドのカトリック教会に理想を見出した。

注/参考文献

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Template:Références [[Category:アカデミー・フランセーズ会員]] [[Category:フランス第二共和政の人物]]

  1. ^ L'Avenir, janvier 1831.