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利用者:Ks aka 98/CC-BY-SAに同意するとはどういうことか

法律やライセンスの話をしたいのではない、とおっしゃる方もいるかもしれませんが、自分の文書を自分の自由にしたい、というのを支えるのが、著作権法です。公表するかしないかは、著者に権利があります。自分が書いたのだという名誉を守るために、氏名表示権があります。勝手に複製されない権利、勝手に改変されない権利もあります。これに対して、たとえば公表したものを勝手に読まれない権利というのはありません。

著作権は、使うときには、ぼくの了解を得てね、という権利で、著作権が及ぶものには、お伺いを立てないといけません。ぼくには権利があって、それを行使する、いちいち俺に許可を求めにこい、ということならライセンスは不要です。

でも、これは自由に使っていい、変更せずこのままなら使っていい、教育目的なら使っていい、と考える人もいます。そういう時に、わざわざ許可を求めに来なくていいから、こういう時は使っていいよ、ということを示すのがライセンスです。ライセンスというのは、もともと著作権が生じるのに、わざわざ、自発的に、使ってもいいよ、という約束を使う人としようとするもの。「ぼくの意思」を明示するためのものです。

その意志を示すための文章を作るのはメンドクサイし、統一されてないと困るから、CCやGFDLというのを、いろんな人が使っています。商用がいやならCC-BY-NC、改変がいやならCC-BY-NDといったライセンスも用意されています。そうしたライセンスを用いることもできるし、たとえば名前の最後が「子」で終わる人だけ自由に使ってもいい、というような形でのライセンスも、やろうと思えばできます。ただし、こういうライセンスでは、ウィキペディアには投稿できない、ということになります。

「ぼくは、この文章についてこうしてほしいと思っている」、その条件が、CC-BY-SAというのが一致してるから、ぼくはぼくの意志でCC-BY-SAっていうライセンスを付けますね、というのが、CC-BY-SAでのリリースです。ここに書いてある通りにしてくれたら、文句言わない、ここに書いてないことやったら怒るかもね。そんときは、著作権という権利を使いますよ、と。

ウィキペディアは、CC-BY-SAというライセンスを採用していて、すべてのページについて自動的に適用されます。気付かない人、知らないで適用されては困る人がいるといけないので、編集時に、クリックで同意を確認しています。あなたは、ちゃんと理解した上で、ほんとうにそう思ってますね、と。

投稿者は、同意するというボタンを押す前に十分な時間をかけて検討することが可能であり、容易にライセンスが読めるようリンクも示されています。その上で、クリックによる同意を求めます。この手順によって、投稿者は、自由な再利用を認めている、と判断されます。ライセンスの撤回などは混乱を招きますから、そのように扱うために、こういう面倒なステップをはさんでいます。知らなかったとか、分からなかったとかは通用しませんよ、と。ここは(ぼくや日本語版コミュニティがどうこうというよりは財団として)法律面からの判断でしょうけど。こういう手順、こういう仕組みにしていれば、理解して同意したとみなして差し支えないと、法的に通用するであろう、と。これでは足りない、わかりにくいということなら、ひとまずは同意しない、という行動をとると理解されます。

普通は著作権がある、つまり、お伺いを立てないための権利が与えられているのに、わざわざCC-BY-SAにしている、というのは、記事に限ったことではありません。利用者ページでも、下書きページでも、井戸端の議論でも、同じです。

CC-BY-SAは、ぼくの著作者としての名誉は、帰属表示を適切に表示することでOKです、という意思表示です。それさえ守っていれば、文句は言わない、という意思表示であり、文句は言えなくなります。また、BYとSAさえ守ってくれれば自由に使っていいよ、という意思表示です。CC-BY-SAはどのような目的で使ってもいい、というものでもあります。

たとえば100人分の利用者ページをまとめて本にして売ってもいいし、誰かのウィキペディアへの投稿や会話ページの全ログをまとめて本にして売ってもいい。写真のほうが分かりやすいかもしれません。CC-BY-SAでアップロードした写真は、撮影者が大好きな作家の本の表紙に使われるかもしれないし、変形して現代美術作品のコラージュに使われるかもしれないし、撮影者が嫌いな作家の表紙に使われるかもしれない。それでもいいよ、というのが、CC-BY-SAに同意する、ということです。大好きな作家の表紙ならいいけど、大嫌いな作家の表紙には使わせない、それは撮影者が自由に決めること、というのを可能にしているのが著作権。

CC-BY-SAは、基本的には自由な流通、共有を望む指向の強いライセンスです。SAというのは、あなたが追加したものも、自由に使えるようにしなければ、使っちゃダメだ、あなたも自由に使えることに加われ、というもの。


箇条書きにしておきます

  • CC-BY-SAというのは、氏名表示(帰属表示)以外の著者の権利をほとんど使わない、使えなくする、というライセンスです。名誉に関して守られるのは、ほぼ帰属表示と改変時の説明だけです。
  • ウィキペディアに投稿すると言うのは、そのようなライセンスに、著者が同意し、それでいいと意思表示している、ということです。
  • このことは、ある行為が問題だとしても、ライセンスを守っている限り、ライセンスに関わる範囲では、つまり、著者への敬意やクレジットの書き方、事前許諾の有無、剽窃や盗作やネコババかどうか、という点では、著者が認めている行為であることが多い、ということに繋がります。通常は、本人の許諾を必要とするような行為であっても、その多くをあらかじめ不要だというのが、著者の意志表示です。ライセンスは構わないとしているが、それでもなお著者に確認したほうがいいこと、ライセンスと関係なく著者に確認すべきこと、ライセンスが認めていることとは別のところで「剽窃」と呼ばれるべきもの、も、あるでしょう。そうした場合は、問題点の丁寧な切り分けがなければ、批判のポイントが分かりにくくなり、不当な批判にもなりえます。
  • ライセンスを読んでいない利用者、理解していない利用者が多いという現実はあるかもしれません。しかし、すべての利用者が理解していないと言うことでもないでしょう。だからといって理解しなくてもいいわけではなく、理解していないのが当然というわけでもありません。注意喚起や対話の中での案内・説明など、理解を促す方向での工夫はは必要でしょうけれど、理解していない側に合わせた制度設計は好ましいものではないです。理解していなくてもいい、というのを認めると、ウィキペディアの根幹が揺らぎます。
  • 執筆者への配慮として、執筆者の意志を尊重する利用者もいるでしょうけれど、その配慮は当然求められるものではなく、配慮されなかったとしても文句は言えません。
  • 著作権以外のことについて、原則として、CC-BY-SAは何も言っていません。ライセンスがどうあれ、名誉毀損や肖像権は問題になりえますし、「ああああ」という文で記事を作れば、たいてい削除されます。これらは、ライセンスとは関係ない決まりごとです。
  • 著者が一度CC-BY-SAに同意して、その上で、著者があれこれ言える状態にするというのは、かなり不自然なことです。本人の意思として使わないとした、まさにその権利を著者として行使するのですから。
  • CC-BY-SAは、「あなたは、このライセンスによって付与される利用許諾受領者の権利の行使を変更または制限するような条件を提案したり課すことはできません。」と、付帯条件を無効にしてしまいます。著者が決めるのが当然で、著者に許諾を得よう、という理屈で追加の制限をするというのは、ライセンスに関係することで、ライセンスが禁じている追加の制限になってしまいます。