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利用者:Ks aka 98/執筆コンテストの意義

昔書いたこと

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他のものとの区別

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秀逸な記事や良質な記事は、既に認識されている、ウィキペディアにおける好ましい記事の条件を、一定程度満たしているかどうかという絶対評価の場。

新記事賞とかは、対象となる記事を選ぶところで強い時間的な制約を抱え、何度も行なわれるという形になっています。ここでは、基本的な方針から外れていないことを確認しつつ、素朴な印象で賞が決められるということになるでしょうし、基本的には執筆者の意欲を後押しするようなものとして機能することが大事なんだと思います。

それに対して、コンテスト/コンクールは、執筆を担う一人として、また審査員として参加する立場として、具体的な記事とその記述を通して、優れた百科事典とは、記事とは、執筆能力とは、というものを考え、高める場だと思うんです。積極的に記事の執筆に参加している人たちによる、具体的に書かれた記事を通じて行なわれる意見交換の場であり、研鑽とか、切磋琢磨とか、そういう場だと思っている。

そうしたことは、日々行なわれているはずのものでもあります。査読依頼だってある。でも、んー、コンテスト/コンクールでの集中度とかを、一年中キープするのはちょっと辛いんじゃないかなと思う。査読依頼は「日常」で、コンテスト/コンクールは「お祭り」。それなりに人が集まっているのなら、そこに意義があるのだと思います。どこに惹かれているかというのは人それぞれでしょうけれど、コンテスト/コンクールという名を掲げて、人が集まっている場があって、さらに人が集まるなら、それは、とてもいいこと。そういうお祭りなのだと思います。

位置づけ・参加の敷居

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コンクール/コンテストでは、現時点での執筆能力が求められるわけではなくて、できるだけ優れた記事を書こうと、あれこれやってみることが求められる。腕試しだったり、自分の執筆能力がどう評価されているかの確認だったり。

たとえば、Pasternさんは、これから先、日本の競馬の馬の記事を書き続けていれば、たくさんの秀逸記事・良質記事を生み出すことができると思うんです。そういうことも、一方では大事なのですね。そっちを志向する人は、コンクール/コンテストには参加しないかもしれない。これくらいのクオリティで書けばいい、という水準に達する記事を書いていく、というわけです。そうではなく、または、それと並行して、馬ではなく、地域の競馬史とか、それを支えた地域の文化史とかという視点を持ってしまって、そういう記事に挑戦するという場合は、これまでとは違う資料の探し方や扱い方を執筆に際して自ら学び、他者からのコメントでさらに学ぶことになる。コンクールやコンテストはとても有効に機能するでしょう。

あるいは、たとえば参加して間もない執筆者が、記事の内容に関する方針やガイドラインを知り、理解することで、記事の質は高まる。なぜ高まるのかを知ることになる。そうして、素朴に書かれた記事でも、十分優れたものになるでしょうし、書き手は成長することになります。

そして、ウィキペディアの方針の多くは、「基準」ではなくて、方向性を示している。たとえば「検証可能な資料を示す」、ということだけではなく、どのような資料を選び、どのように使い、どのように示すのか、ということについて考えるなら、最終的な答えは得られていないし、得られることはないわけです。

執筆能力が高ければ高いほど、試みの質は高くなるでしょうし、困難に気づいたときの解決は、かえって難しいものになります。多くの資料、アクセスが難しい信頼できる資料を参照しようとすれば、時間切れになりかねません。慎重に記述をすることで、読みやすさに大きな欠点を抱えるかもしれません。JPOVやすぐ古くなる表現のような、ウィキペディアならではのものもあります。

試みがうまくいけば、今のウィキペディアの日本語版の慣習よりも、適切な手法を見つけることができるかもしれない。「無茶」というのには、そういうものも含まれます。それから、これまで手がつけられていなかった重要な記事を取り上げるということもあるでしょう。重要だが書きにくい分野の記事を書いてみるという試みを後押しすることもあるでしょう。10kの記事で勝負してみるなんてこともあっていい。それはウィキペディアの質を高め、ノウハウを蓄積することに繋がる。

実際のところ、書いてみれば、他の執筆者から足りないところは指摘されるでしょう。わたしたちは、第一人者的な専門家ではないので当然です。足りないところの指摘だけではなく、見逃していた観点や、資料の存在に気づかされるかもしれません。たとえば、社会学ではこれで十分とされるところを、歴史記事を手がけている人から厳しく突っ込まれるというような。もちろん、その逆もあるだろう。そこで、現実的にどうするか、というノウハウを学ぶことができる。他方、それは現実的には困難であり、妥協が必要なものかもしれない。そのとき、その分野、その記事に対する、要求を、過度に高めるべきではないことを、コミュニティは共有することができます。

そうやって、ウィキペディアの外側に存在する学問の世界や、教育・啓蒙の世界を、参加者それぞれのフィルターを通して、個々の記事の執筆や改善のためのコメント、審査に反映させていくことになります。ウィキペディアならではのことは、参加者それぞれに知恵を絞って考えることになります。

順位と審査

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順位を考えるなら、素朴に書くほうが、結果としての記事の出来がいいなんてことは、じゅうぶんありえます。一方で、上位入選を価値として捉え、上位入選を目指すなら、執筆能力が高いからといって、手を抜くことも難しい。みっちさんやSumaruさんやMiya.mさんや汲平さんといった、常連の、安定した記事が立ちはだかります。結局のところ、それぞれに高みを目指すことが必要になる。どこを高めるか、どう高めるか、ということを、それぞれの力量にしたがって、考えるわけですね。

審査について考えれば、審査についても、特別な資格が必要だとは思わない。特段の知識や教養が無くとも、真摯に記事に向かい合い、読んでわかったこと、わからなかったことを指摘すれば、誠実な執筆者は自分の記事の問題として掬い上げることができるでしょう。そういう読者の存在は、十分な知識を持つ審査員と同様に、他に代えがたい貴重な存在です。

順位そのものは、執筆者にとって十分満足がいくものではないかもしれない。執筆者同様に、審査員も専門家ではないですし、そもそも、これだけの範囲を審査できるような専門家なんてものも現実にはいないわけですよね。記事が完璧なものではないのと同じかそれ以上に完璧な審査などできないです。1年後に読み返せば順位を変えるかもしれない。審査員が一人増えていれば順位は変わるかもしれない。毎年、エントリ者の資格とか、審査のあれこれについて、いろんな要求が出されているように思いますが、そんなにちゃんとした審査ができるはずはないということは、共有しておいたほうがいいと思います。記事や執筆者のランク付けや、優秀であることの承認をするためのコンクール/コンテストではない。

審査による順位付けというのは、ウィキペディアの記事においては、様々な評価基準があり、その達成度もまちまちなエントリ群の中で、何が大事と考えるか、ということを、喉元に突きつけられるようなものなのですね。記事を書く側は、よりよい記事にしようと考える。それを読んで、みんながコメントをつけていく。そこで、とにもかくにも判断して、説明するというところで、顕わになることというのもあります。