利用者:Koshiyou/資料1
『日本歴史地名大系 愛知県の地名』p36には「本坂道」の項目
- 『新収史料』からの引用部分
地震の年表 (日本)に参考文献一覧
- 東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 三巻 別巻 宝永四年十月四日』 日本電気協会、1983年
- 東京大学地震研究所
- 『新収 日本地震史料 続補遺別巻 元禄十六, 宝永四, 文政十一越後三条, 天保元, 弘化四, 安政元伊賀上野,安政元東南海,安政二, 安政五飛越』 日本電気協会、1994年
- 東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一 東南海地震 安政元年十一.四,五,七』 日本電気協会、1987年 など。
- 『ふるさと豊田』収録部分の「法螺でない荒井の津波路」は「要ページ番号」。『新収 日本地震史料 三巻』P187にその部分が引用。[東京大学地震研究所(1983)P187]
『新収史料』 近世成立の「史料」、 『ふるさと豊田』、 『浜松市史』、 『新居町史』、 『白須賀町誌』など、 地震記事があれば取捨選択することなく近代成立の二次資料である地誌等も一部が収録。
『新収 日本地震史料』に収録された記事
[編集]『浜松市史 史料編』、
『新居町史 史料編 一』、
『新居町史 第八巻 近世資料四』
などに収録されている史料を再録したものもあり。
『都司嘉宣, 東海地方地震津波史料』 (PDF) (以下 都司史料)にも収録されています。
『新収史料』の記事は都司嘉宣が収集した。
『地震史料』中にある「本坂」記述したもののリスト
[編集]- 『新収 日本地震史料 第三巻 別巻 宝永四年十月四日』
『江府京駿雑志』新収p67-68
- 荒井ハ津波ニテ番所不残海ヘ執テ行、家ハ不及言人死太甚多、渡カゝリタル舟七艘有之内二艘ハ無事ニ上リ五艘ハ行衛不知失由、御荷物数十駄長持二棹ニ並置ノ処ニ此宰領共ニ浪ニトラル、銀座者ノ荷物并乗捨ノ駕籠共ニ波ニトラル主人ハ昼飯時ニテ支度シ無事云々、自大坂下ス足袋荷物二駄波ニトラレ宰領ハ無事、如此故ニ往来留リ本坂ヘ回ル云々愚諸国ノ使者又ハ往来ノ士下々々失命失器者海道筋ニテ、多之
- 白須賀駅家一軒モ不残、塩見坂ノ茶店二軒ニ武家ノ荷物三度飛脚ノ荷物逗留スレトモ道筋ノ事垨明サル故御油迄数駅立帰本坂へ廻云々
『遠江国山住家文書』磐田郡水窪町 新収p178
- 当国横砂城内町方共半潰荒井御番所町共ニ浪入損シ候、白砂二川町皆潰吉田ハ城内町共ニ半潰依之道中通無之故本坂を大名衆も御通り被成候、
『静岡県社会文化史 上』「姫街道の説明文」新収p226 都司史料p193。 池田一夫編「姫街道の説明文」『静岡県社会文化史 上』
- この街道の交通が急に盛んとなったのは 宝永四年(一七〇七)の大地震で今切津波のため 渡船杜絶し往還の旅人や荷物が本坂通りに殺到し、やがて今切渡しの 設備が旧に服しても なお旅人は道をこの街道とるもの頗る多く 沿道宿駅及び助郷農民の困窮は甚だしいものがあった。気賀町庄屋三左衛門名義を以て 宝永四年丁亥十月(一七〇七)道中奉行に次の如く注進している。 乍恐口上書を以申上候御事 十月四日地震にて新居今切渡海不自由に罷成候に 付往来本坂越御通り被成 気賀町馬継に御座候処、御伝馬役無御座 御地頭御小身に御座候故 人馬少にて附払手支申候 此段為御注進申上候 以上 亥十月十二日 遠州気賀町庄屋三左衛門 御奉行様
- 『新収 日本地震史料 続補遺別巻』
『新居町史 第八巻 近世資料四』『宿方・地方資料』続補遺p45
- 乍恐差上申口上書 三年以前地震以来往還御衆中様本坂越被遊、困窮之役人共弥以無力仕、御役難勤渡世経営不罷成迷惑仕、今度六宿罷下り本坂通御止メ被為下候様ニ奉願上候、尤新居渡海能く御座候様ニ御普請可被為、仰付難有奉存候、右候ヘハ末々者御大名様方・諸往来共ニ御通り可被遊と奉存候得共、当分本坂道御通り被遊候而ハ、六宿之御伝馬役人・末々之者迄及渇命、指当りひしと難儀仕候、恐多く奉存候得共、六宿近在迄御救ニ御座候間、見付宿ゟ市野村・御油宿ゟすせ村江馬継立不申候様ニ被為、仰付被下候者難有可奉存候、浜松之義ハ本坂道・東海道両道ニ御座候間、人馬支度難仕御座候、御用ニ而御通り被為遊候御方様へハ、人馬為用意遠見之者遣し申義ニ御座候、両道へ遠見遣し候得者、役人共迷惑仕候、舞坂ゟ吉田迄之宿々も御触状通り候得ハ、遠見之者毎日差遣し、人馬相集メ宿々ニ而奉待候処ニ付、俄ニ本坂道江御通り被遊候故、別而難儀仕候、以御慈悲見付宿より市野村・御油宿よりすせ村江人馬継立不申候様ニ被為、仰付被下者難有可奉存候、以上、 宝永六年丑三月
『宝永七~正徳元年 地震後の湊口修復に関する書類』続補遺p46
- 右湊口乱杭御普請之義去ル亥年地震・津浪ニ付、湊口広ク罷成、往来渡船場へ浪強有之ニ付、御大名様其外往来本坂越いたし、浜松ゟ吉田迄宿々致困窮、右宿之者共、御公儀江願出候ニ付、右之御普請被、仰付候、御普請出来之節、乱杭通新居洲崎百間余洲出、其後毎々出洲有之、当年迄ニ而八拾間程之出洲ニ罷成、此分湊口ふさかり候故渡海場静ニ罷成候、 寅正月十六日
- 『日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上』
『名倉 巽家所蔵文書』(『日本の歴史地震史料 拾遺 四ノ上』p99『細江町史 資料編』)『細江町史 資料編七』『名倉 巽家所蔵文書 細江町下村』拾遺p99
- 「今切之渡海広罷成リ候故、浪荒渡船不自由有之候ニ付、本坂越御通り繁御座候」
『新居町関所資料館所蔵史料』(安政2年の文書『新収 日本地震史料 五 別巻五』p1155)
1854年安政東海地震後の差出文書にも宝永と類似の記録、があり、安政頃も公的な文書。
- 「渡海あしく候故、御往来之大名方当年ハ木曾路又は本坂越ニ御道行被遊候」
『浜松市史 二』『本坂御往来留書』新収p190
- 五日の朝より本坂江往還之旅人荷物迄通り享保二酉年迄御通行繁有之
『糀屋記録 五七』『浜松市史 史料編』杉浦氏文書 新収p193
- 都司史料p199にあります。
『新居町史 史料編 一』(宝永五年所替及津波被害)新収p196
- 都司史料p180にあります。
『新居町史 史料編 一』『新居町に関する古記録・七里飛脚之事』新収p197
- 都司史料p181にあります。
『新居町史 史料編 一』新収p198
- 都司史料p182にあります。
- 『宝永四年地震関係史料』―徳山毛利家文庫を中心に― 山口県文書館
- 『徳山毛利家文庫 逸史』p144
『宝永四年地震関係史料』―徳山毛利家文庫を中心に― (PDF)
新居・橋本関連
[編集]新井・橋本関連の資料。 『近江国風土記伝』都司資料188頁。
元荒井・中荒井等地水没 亡人家 古老曰 今荒井者古中之郷也。古新居在関東海中十二三町 応永十二年 文明七年 明応八年及永正七年等有急波。 破於荒崎 湖水変為潮海丹矣。日箇崎十戸。 北山十戸・旧荒井・中荒井同時為海。於今切所号本荒井。於松原中。 云中荒井也。 礎石於今存焉。
漢文訓読に倣い改変 (古老曰 今荒井者古中之郷也。 古新居ハ関東海中十二三町在。 応永十二年 文明七年 明応八年及永正七年等急波有。於荒崎破、 湖水変潮海為矣。 日箇崎千戸。 北山千戸・旧荒井・中荒井同時海為。 今切所於号本荒井松原中於、中荒井云也。 礎石今於存焉。)
而後宝永四年十月四日 地震大波 関東十二町水没 而地大変矣 昔時橋本・新居各十戸之郷也ト云リ(中略)宝永四丁亥年 十月四日 牧野家臣富永政愈。 当関司、 有急波矣。 古関任今海岸以東十町計 元禄以来今関所也。新居与舞坂之中間 海路廿七町計。
宝永四年関司政愈書曰 「応永十二年大波破此崎。 或曰文明七年八月八日。明応八年六月十日 甚兩大風、潮海与湖水之問駅路没。 日箇崎千戸水没。 在堰東南十町計白洲浜住吉八王子之森間 尾崎孫兵衛者之祖 繋柑樹抄存命矣。 其□今住橋本。 永正七年八月廿七日 波涛中断於駅路。又破橋矣。 従是以来。 湖水変為潮海。 橋本駅家没 置新井宿也。 宝永四年十月四日地震。 挙波三度、 各高一丈計 崩関、 潰家三百四十八戸 溺死廿一人。 亡船四十八艘。 渡海絶五曰、 吉田城主牧野祭酒之臣富永政愈為関戌、 当難所誌置也
宝永四年十二月筆記」