利用者:Koshiyou/sandbox
江戸時代前期
[編集]天正18年(1590年)8月朔日徳川家康は江戸城に入城した。 付近は荒川などの河川交通と東京湾の湾内交通の結節点としてある程度は栄えていた地であったともされるが、江戸という都市は成立していなかった。 それから20年を経て慶長14年(1609年)に訪れたドン・ロドリゴの記すところによれば、はやくも江戸の人口は15万となり京都の半分くらいであったという。 この発展を続ける江戸の町の消費需要をまかなうためには、利根川の水運をはじめとする物流路の整備が不可欠であった。
家康は伊奈忠次を関東郡代に任じ、関東周辺の河川改修にあたらせた。以後、忠治、忠克と伊奈氏3代により、利根川の常陸川河道(銚子河口)への通水が行われた。 太日川下流の行徳塩田と隅田川を結ぶため、徳川家康江戸入府後の 天正18年(1590年)に小名木川を、 寛永6年(1629年)に新川を開削した。
東遷事業の開始
[編集]近世初頭の利根川の東遷事業は、 文禄3年(1594年)に新郷(現・羽生市)で会の川を締め切った工事に始まったといわれていた[1]。 しかし、近年の研究では、締め切りは忍領の水害対策における土木工事であり、東遷事業のはじまりは、27年後の元和7年(1621年)とされている[1]。 元和7年(1621年)この時期、伊奈忠治の指揮のもと、佐波(ざわ)(現・大利根町)、から栗橋までの新川通(しんかわどおり)、中田(現・茨城県古河市)と川妻(現・茨城県五霞村)の間から境町(現・茨城県境町)に至る赤堀川が開削された[1]。
会の川の締め切り
[編集]また、文禄3年(1594年)に羽生領上川俣にて会の川の締め切りがおこなわれた。忍城の城主であった松平忠吉が家来の小笠原三郎左衛門に命じ、工事が行われたといわれるが、関東郡代伊奈忠治との連絡のもと進められたとも推測されている [2]。
備前堤(綾瀬川流域)の開発
[編集]慶長年間(1596年-1615年)には、備前堤が築造され、綾瀬川が荒川から切り離され、綾瀬川流域の低湿地の開発と綾瀬川自身を流域の用水源としたという[3][✝ 1]。
利根川と渡良瀬川の河川整理
[編集]元和7年(1621年)、浅間川の締め切りと新川通の開削、権現堂川の拡幅が行われた。利根川と渡良瀬川が合流し権現堂川・太日川(現在の江戸川)がその下流となった。ただし現在の江戸川は、上流部は寛永18年(1641年)に開削した人工河川であり、下流部も人工河川とみる説もあって太日川と全く同じではない。
寛永期の河川整理
[編集]寛永6年(1629年)、荒川の西遷が行われた。熊谷市久下で荒川を締め切り和田吉野川・市野川を経由し入間川に付け、荒川の下流は隅田川となり旧流路は元荒川となった。同じく寛永6年(1629年)、鬼怒川[4]を小貝川と分離し板戸井の台地を4キロメートルにわたって開削し常陸川に合流させ、合流点を約30キロメートル上流に移動した。翌寛永7年(1630年)に、布佐・布川間を開削し、常陸川を南流させ、また戸田井・羽根野を開削し小貝川も南流させ常陸川の狭窄部のすぐ上流に合流点を付け替えた[5]。
赤堀川の掘削
[編集]元和7年(1621年)には赤堀川の掘削も始まる。赤堀川は、香取海へ注ぐ常陸川と利根川を繋ぎ、水運に利用するための水路の役目を担う予定であった。しかし、台地を掘削するために難工事となり、寛永12年(1635年)の工事も含めて、通水には2度失敗している。 承応3年(1654年)、3度目の赤堀川掘削工事によりようやく利根川の水の一部が赤堀川から常陸川に常時流れる。赤堀川を拡幅により、利根川から銚子河口へ通し,太平洋へ流下させる東遷事業が完了した[6]。この時の赤堀川の川幅は10間(18メートル)程度であり利根川の洪水を流下させるには狭い。
河川整理と用水路開発とその後
[編集]さらに、寛文5年(1665年)、権現堂川・江戸川と、赤堀川・常陸川をつなぐ逆川を開削、これにより銚子から常陸川を遡って関宿に至り、逆川から江戸川を下り新川・小名木川を通って江戸を結ぶ、用水路開発が加速した[6]。 しかし、強引な水路の変更は様々な問題を引き起こした。水量の増大は皮肉にも利根川の土砂堆積による浅瀬の形成を促し、水量の少ない時期にはたちまち船の通行を困難にした。特に関宿からの旧常陸川(現在の利根川下流域)では相馬郡井野村の小堀、江戸川では松戸までの区間は浅瀬の被害が深刻で、この両区間では艀下船と呼ばれる小型船が積荷の一部を分載して自船の喫水を小さくすることで浅瀬との衝突を避けた。これにより小堀・松戸の両河岸には艀下船の河岸問屋が栄えた[7]。
- 秋葉一男「2備前堤築造後の流域の開発」,『荒川 -人文Ⅰ-』,埼玉県(1987),368-373p
脚注
[編集]注釈
- ^ 備前堤の築造時期には慶長年間とする説の他に、中条堤、箕田郷堤等の築造と符号させて中世とする説、寛永年間伊奈忠治の築造とする説など主なものに3説ある(秋葉(1987),368p)。
出典