利用者:Koh-etsu/notebook
すずき へいま | |
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生誕 |
1906年2月3日 栃木県河内郡篠井村下小池 |
死没 |
1983年10月17日(77歳没) 栃木県宇都宮市星が丘 |
研究分野 | 林学 |
研究機関 | 宇都宮高等農林学校、宇都宮大学 |
出身校 | 宇都宮高等農林学校 |
主な業績 |
スギの研究 日光杉並木の研究・保護活動 足尾鉱煙害の研究・復旧治山造林の推進 |
主な受賞歴 |
栃木県文化功労章(1969年) 勲三等瑞宝章(1976年) 従四位(1983年) |
プロジェクト:人物伝 |
(すずき へいま、1906年2月3日 - 1983年10月17日)は、日本の林学者、植物学者。
「杉博士」と呼ばれたスギ研究の権威である。生涯にわたって老杉の保護の必要性を訴え続け、日光杉並木や屋久杉の保護活動に尽力したことで知られる。
生涯
[編集]生い立ち
[編集]栃木県河内郡篠井村下小池(現在の宇都宮市下小池町)に生まれる。「丙馬」という名前は、1906年が干支の丙午であったことに由来する。生家の裏山にはスギがうっそうと茂っていたといい、幼少のころから杉林で遊び、スギに親しみながら育った。
1926年に宇都宮高等農林学校を卒業後、鳥取県農林技手になる。1928年に宇都宮高等農林学校助教授に着任し、造林学、森林保護学、測樹学を担当する。
1931年、文部省の内地研究員に任ぜられ、秋田営林局および帝室林野局林業試験場において1年間の在留研究を行う。秋田営林局では秋田杉の調査と研究にあたったが、このとき地元の林業技師らから、杉を樹皮の色と形によって、「マツハダ(モチハダ)」「アカハダ(ネコハダ)」「シロハダ」「トヨハダ」「アミハダ」「ハナレハダ」の6種に分類し、それぞれの特徴を造林や製材の際に利用していることを教えられる。この調査で秋田杉の観察が病みつきとなり、スギは老齢であれば、皮肌や樹皮型の特徴を区分することによって、系統立てあるいは品種区分が可能であり、これは染色体に差異によるものではないかと考えるようになる。
先輩の優れた造林学者たちからは、ナンセンスだと笑われながら、頑迷に今日まで50年にわたり日本全土を駆け巡り、老杉の皮肌をたずねている。
そこで全国の代表的な杉96ヶ所を選んで、昭和九年(1934)秋産の種子を集めることにした。このときその母樹と立地についても調査してもらった。当時は遺伝学も草分けの時代であって、杉の染色体については、京都大学の松本賢三氏や林業試験場の佐藤啓二氏(のちの九州大学教授)などが手がけたころであった。筆者は宇都宮高等農林学校の作物学主任教授香川冬夫博士の教示、同僚知崎良雄・中島吾一両君の技術指導を受けて、翌春この杉の種子を苗圃にまいた。その発芽幼苗の根の端を取り、体細胞をオスミック酸で処理して、杉の染色体の固定を行った。 これを動物学主任柴田文平博士の指導と阿部千代松・岡田富信両君の援助を受けて、十本ずつの根の端を一束にまとめてパラフィン埋蔵した。これを6ミクロンに切り、この切片を一枚のプレパラートに十個ずつ並べて封埋した。一枚のプレパラートに百個の切片を並べ、九十六種のプレパラートを一種十枚ずつ作ったので、この永久プレパラートは全部で960枚にのぼった。これをツァイスの1200倍の顕微鏡でそれぞれの染色体の形状を調べた。この検鏡では、切片の厚さが少し厚すぎたため、染色体の形は一度では出来ず、一部の形状は明瞭でも、ほかの部分は不明瞭であったり、まったく見えない部分もあった。このため焦点を極く少しずつずらしながら、一個の染色体を確認して描画するという方法で調査することになった。この作業は、まことに時間と手間を要したので、容易に進行しなかった。
1937年から、ライフワークとなる日光杉並木の研究を始める。当時、日光杉並木は歴史的な面での研究はなされていたが、造林学的な面での研究は手付かずの状態であったため、
杉並木を研究対象としたのは、当時は杉並木の歴史についての研究はなされていたが、造林学的な面での研究は手付かずの状態であったため、日本最大規模のスギの人工植林という観点から、その造林試験の成果を見極めるだった。
1940年、同校教授に着任。華北交通公司資業局中央鉄路農場林産科長(森林調査、林業試験担当)、兼愛路学院教授(緊急保存対策には記述なし)も務める。東京農業大学への学位請求論文であった「林業上より見たる日光杉並木の研究」の執筆に着手。(東京農業大学学位請求論文、丸善出版で出版着手、ともに中断)
1937年からはじめた日光杉並木の調査中に、私は秋田杉の天杉の皮肌の違いが眼に浮かんで離れなかった。そして、1938年に、樹齢300~320年生の老杉としての日光並木杉17128本について、幹の皮肌、すなわち樹皮型の区分を行った。品種系統別に、本数分布、根張り状況や、幹の生育状況などの造林上の性格、あるいは赤芯や黒芯などの利用上の性格なども明らかにして、老杉としての日光杉並木の樹皮型を「鬼、板、桧、紐、網、小網、松、姫」の8品種に区分した。
筆者は、華北交通の中央鉄路農場林産科長として、研究員の高橋幸野君と二人で、1943年の夏約2ヶ月間にわたって、この鎮海寺の境内林を調査した。北支方面軍の現地部隊長(印南大佐)の警護のもとにトラックに乗って、両岸の山嶺から狙い撃ちする八路軍ゲリラ部隊の銃撃に脅えながら、谷間の山道を強行突破して、太原の警備中隊に着いた。この中隊兵舎に宿をとり早水中尉(太原警備中隊長)と同居しながら、毎日一個小隊の護衛つきで境内林の調査、測樹、地床調査を行ったのであった。この詳細は、華北交通公司資業局資料として、数本の樹幹解析のデータとともに公刊されている。面積は38ヘクタールで、カラマツ、トウヒ、クロマツ、オオバドロ、ヤナギの樹幹解析の成果では、太いものは80センチメートル(地上1.3メートル)、高さ35メートルもあったろう。 宿を出て現地に向かう途中は何の代わりもないのに、帰途には地雷が敷設されていたこともあった。・・・以下略、杉と人生P131 その後まもなく、私は高橋君と二人で華北交通公司を辞任して、北支政務委員会傘下の華北造林会に移り、企画科長として北支全域の造林計画樹立のため全土を駆け回った。そして、北京西山地区経営大綱(造林基案)をはじめ泰山地区、山西地区、蒙●地区、青島地区、連雲地区のそれぞれの経営大綱を編成した。これらは華北造林会企画科書類として今でも保存されていることだろう。 このような準備をすませて、恩師の林学博士鏑木徳二先生(朝鮮林業試験場長を退官後、華北、蒙●、満鮮を含めた大陸産業科学研究所長)を華北造林会顧問と北京大学農学院講師をかねてお招きし、華北造林の実行計画の樹立とその実施についての応援をねがったのであった。このときはまず、華北政務委員会をたずねられて・・・以下続刊、同P131
1946年には栃木県森林組合連合会にあって、県民林の再生造林を主題として、育苗、植林、間伐、保護、撫育、杉林経営などの指導にあたり、たびたび講習会を主催した。とくに民林経営については、屋敷林、部落林、水防林、並木林帯など、農村や農山村のうちに占める林業を重視した鏑木博士の「農村林論」を重点的に取り上げた。この講座を40年にわたって講述したのであった。
われわれは、これら残された古杉について、近代科学により研究と調査を進め、比較的近い時代の真の姿を探求できる、と考える。ここに筆者が40年にわたって、日光の杉並木の保存を叫び続け、太郎杉とその樹群の保存では10年間にわたり、「もしも、日光太郎杉を河野一郎建設大臣と横川信夫栃木県知事が伐採するなら、私は根元に座り込むから、私の体を鋸挽きにしてから伐れ」と身命をかけて争い続けたこと、また、近年、林野庁のお叱りを承知の上で、あえて屋久杉の禁伐保存を訴えたことなど、その真意のほどをよく知っていただきたいと願うものである。
私は、ふるさとの杉林や社叢の老杉あるいは参道並木杉のうち、古いものをあさって、それらの伝承を探りながら、その杉の生育状況と幹の皮肌の特徴を調べて、日本全国を行脚してカメラに収めている。
死去
[編集]1983年10月17日、77歳で死去。没後、その功績から従四位に叙せられた。墓所は宇都宮市塙田の禊神道教会。
年譜
[編集]- 1906年2月3日 - 栃木県河内郡篠井村下小池に生まれる
- 1926年3月18日 - 宇都宮高等農林学校林科本科卒業、鳥取県農林技手
- 1928年5月1日 - 宇都宮高等農林学校助教授(造林学、森林保護学、測樹学担当)
- 1937年7月1日 - 日光杉並木の研究に着手
- 1940年12月12日 - 宇都宮高等農林学校教授、華北交通公司資業局中央鉄路農場林産科長(森林調査、林業試験担当)兼愛路学院教授(緊急保存対策には記述なし)、林業上より見たる日光杉並木の研究(東京農業大学学位請求論文、丸善出版で出版着手、ともに中断)
- 1943年10月 - 華北造林会技正室長 兼企画課長 兼林業技術人員養成所副所長
- 1945年8月 - 敗戦、華北引揚者厚生同志会拓地部長兼栃木支部長
- 1946年3月 - 北京より引揚げ
- 1946年9月1日 - 栃木県森林組合連合会造林部長
- 1947年3月31日 - 宇都宮農林専門学校講師
- 1950年4月29日 - 宇都宮大学講師、日光並木街道保存委員会委員
- 1951年11月30日 - 日光並木街道保存委員会副委員長(のちに日光杉並木街道保存委員会副委員長)
- 1955年4月 - 宇都宮大学農学部助教授
- 1960年4月28日 - 林学博士(北海道大学、第3746号、日光杉並木に関する研究)
- 1964年6月9日 - 栃木県治山治水協会理事(現:栃木県治山林道協会理事←杉と人生には治水林業協会と表記)
- 1965年10月1日 - 宇都宮大学教授(農学部造林学および森林防災工学担当)
- 1966年6月16日 - 宇都宮大学院林学研究科兼務
- 1967年5月1日 - 福島県公害対策審議会専門委員(1969年まで)
- 1969年4月1日 - 宇都宮大学名誉教授
- 1969年11月3日 - 栃木県文化功労章を授与(日光杉並木の研究並びに保存活動と足尾鉱煙害の研究並びに復旧治山造林の推進の功績による)
- 1973年10月20日 - 日光杉並木の保護、保育並びに保存管理に関する基本調査並びに研究の計画案を立案し、栃木県、文化庁、東照宮へ実施を提案
- 1974年12月28日 - 日光杉並木街道の緊急保存対策案を立案し、政府、文化庁長官、栃木県知事、東照宮、今市市長、栃木県議会その他の代議士、県議会議員などに提案
- 1975年11月5日 - 福島県柳津町森林総合利用促進事業計画診断書(福島県林業協会に提出)
- 1976年11月 - 勲三等瑞宝章授与
- 1978年1月 - 栃木県知事感謝状授与(林業文献を県に寄贈)
- 1980年12月 - 日光杉並木街道保存委員会永年勤続表彰状授与(日光東照宮)
- 1981年1月 - 栃木県治山治水協会役員永年勤続表彰状授与
- 1982年 - 今市市歴史民族資料館日光杉並木コーナー展示参与
- 1983年10月17日 - 没 従四位 勲三等に叙される
業績
[編集]スギの保護活動
[編集]- 日光杉並木
- 太郎杉裁判
- 屋久杉
- 足尾問題の調査
日光杉並木街道の緊急保存対策(案)より
杉と人生より
北支●●地区と山東地区(旧満州国)では、七年間の林野調査で日本の杉の自然生木を見たことはなかった(満州国調査二ヶ月・1936、華北●●地区七ヵ年・1941~1947)また当時北京静生物研究所で胡博士ほか多くの研究員たちからも、日本杉と同種の天然生林のあることは聞かなかった。
韓国林業については、南北全土をわずか七日間調査しただけであるが、…
筆者の琉球全島の調査(1967)では、20年生以下の幼い日本杉がわずかに見られたが、戦前植栽の老杉、天然生杉などは一本も見ることが出来なかった。それで琉球林業協会長の大山保表博士や源事務局長等と共に、沖縄半島の各地、宮古島、石垣島などに記念植樹として日本杉を植え、筆者の名標も添えておいたので、今ではかなり伸びていることだろう。
筆者は昭和六年(1931)に、文部省の内地研究員として、一ヵ年間秋田営林局と帝室林野局林業試験場に在留研究を命ぜられ、五月から十一月まで秋田営林局に在って、秋田県と山形県にある秋田杉の調査と研究にあたった。その時わが国で初めて、森林の植生調査を仁別国有林で行い、この成果を秋田杉林の造林技術に役立てようとした、わが国の森林生態学の草分けである佐伯直臣技師に導かれて、仁別の植生調査に加わりながら、秋田杉林の天然植生についての実地指導を受ける機会に恵まれた。 また、当時秋田営林局の計画課長であった岩崎準二郎技師の指導で、秋田杉林の実体の観察と調査をすることが出来た。さらに寺崎渡博士や河田●博士の間伐試験林の実地講習を得た。ほかに片岡与一技師と筆者の宇都宮高農のクラスメイトの志賀保一技手(当時)とを主査とする、北秋田郡の山瀬事業部の施業案検定隊に二ヶ月間参加し、樹齢119年の杉林の精密調査をする機械を得た。 このときの調査野帳や計算図表類などの一切の資料は、昭和十六年(1941)渡支に際し持参し、昭和二十一年(1946)敗戦引揚げのとき、一切の財産とともに北京に残置してきてしまった。しかしそのシャイベ(円盤)は宇都宮高等農林学校(現宇都宮大学農学部)の林学科教室に保管してあり、樹幹解析図と生長曲線図とをケント大版に清書して測樹学講義の教材に使用していた。戦時中に軍隊の駐留などで紛失した由であったが、筆者が昭和二十二年に再び母校の教職についたとき、これを探し求めたところ、幸いにもシャイベだけが物置から出てきた。このシャイベについて再調査したところ、この秋田杉の樹齢は119年で、胸高直径68センチメートル、樹高40メートルであることがわかった。この伐採は昭和6年(1931)9月と記憶していたので、この時点でようやくこの杉の全貌をつかむことが出来た。 筆者はこのような秋田杉の観察が病みつきとなり、日本の杉は老齢であれば、その皮肌・樹皮型に現れる特徴を区分することで、杉の系統あるいは杉の品種区分が出来るのではあるまいかと考えた。そして、このような杉の品種の特性には、それぞれの染色体に差異があるのではなかろうかと思った。 そこで全国の代表的な杉96ヶ所を選んで、昭和九年(1934)秋産の種子を集めることにした。このときその母樹と立地についても調査してもらった。当時は遺伝学も草分けの時代であって、杉の染色体については、京都大学の松本賢三氏や林業試験場の佐藤啓二氏(のちの九州大学教授)などが手がけたころであった。筆者は宇都宮高等農林学校の作物学主任教授香川冬夫博士の教示、同僚知崎良雄・中島吾一両君の技術指導を受けて、翌春この杉の種子を苗圃にまいた。その発芽幼苗の根の端を取り、体細胞をオスミック酸で処理して、杉の染色体の固定を行った。 これを動物学主任柴田文平博士の指導と阿部千代松・岡田富信両君の援助を受けて、十本ずつの根の端を一束にまとめてパラフィン埋蔵した。これを6ミクロンに切り、この切片を一枚のプレパラートに十個ずつ並べて封埋した。一枚のプレパラートに百個の切片を並べ、九十六種のプレパラートを一種十枚ずつ作ったので、この永久プレパラートは全部で960枚にのぼった。これをツァイスの1200倍の顕微鏡でそれぞれの染色体の形状を調べた。この検鏡では、切片の厚さが少し厚すぎたため、染色体の形は一度では出来ず、一部の形状は明瞭でも、ほかの部分は不明瞭であったり、まったく見えない部分もあった。このため焦点を極く少しずつずらしながら、一個の染色体を確認して描画するという方法で調査することになった。この作業は、まことに時間と手間を要したので、容易に進行しなかった。 その後、昭和12年(1937)7月から日光杉並木の研究に当たることとなり、この研究を一時中断した。そして昭和16年1月に華北交通公司の中央鉄路試験場(農蓄林総合試験場)の、林産試験を担当することになり北京に赴いた。その時プレパラートも持参して、余暇を作ってはこの検鏡を続けたが、まもなく大東亜戦争に突入し緊急な華北造林の業務が山積するなかで、再び中断するのやむなきにいたった。 その後昭和18年(1943)秋から華北造林会に転出して、華北全域の造林企画に当たり、模範農村林業実験区の造林業務に追いまくられているうちに敗戦となり、昭和21年3月、裸一貫で家族三人を引き連れて帰還した。 このプレパラートは華北造林会理事長(北京大学農学院教授)凌撫元さんの北京市南長街の私邸の地下室に、秋田杉、全国96種の杉、日光杉並木など日本杉の関係資料や華北造林に関する調査研究資料を来国次、古関の小兼光、長谷部国重などの名刀とともに預託して引き揚げた。戦後、同窓の勝間田清一君(元日本社会党委員長)その他の方々に託して、返還を求めたが遂に戻らずに今日に及んでいる。 筆者は北支引き揚げ後に、再び日光杉並木の研究に当たることになり、さらに職掌柄、足尾の鉱煙害裸地の復旧治山造林にも専念することになったので、遂にこの杉の染色体の研究は放棄せざるを得なかった。今日では電子顕微鏡も開発され、染色体の研究もかなり進んでおり、核酸や遺伝子の本質なども順次解明されるようになったので、新たに日本産杉の体細胞から染色体のプレパラートを作って、この研究を再開すべきであると考えられる。 また、昭和10年の春、当時山崎守正博士が、雑草駆除剤として塩素酸加里(kclo3)研究中に、雑草のうちには同一種であっても、kclo3に対する抗毒性に差異のある固体が存在することを発見し、この差異がまた雑草類の品種間の耐寒性の違いをはっきりと示していることを知った。この原理をスギ、ヒノキ、アカマツなどの林木種子から発芽させた幼苗に応用して、それぞれの耐寒性の違いを知られたことから、これに習い前記の日本各地から集めた96種類の杉のうちから60種を選んで、それらのkclo3に対する抗毒性の検定を行った。その結果、青森・秋田・山形地方産の寒地産の杉は抗毒性が弱く、愛媛・宮崎・鹿児島(屋久杉)などの暖地産の杉は抗毒性が強く、静岡・三重・奈良(吉野杉)・和歌山(熊野杉)などの近畿地方産の杉は両者の中間にある事実を知ることが出来た。 この日本杉の染色体と耐寒性杉の品種の研究は、その後とも中断されたままとなっている。今日の科学水準はかなりの進展を見せているが、草分け時代の積み重ねという意味では意義があったと思われる。 かくして筆者は昭和12年から15年まで、日光杉並木の研究に当たって、樹齢300~320年生の日光杉並木を皮肌の違いにより、老齢日光並木杉の樹皮型を8品種とした。この日光杉並木の研究は、中国引揚げ後も引き続いて、第二期の研究を続けて今日に及んでいる。この日光並木杉の8品種区分を基準として、機会あるごとに日本全国の老杉の皮肌の調査を行い、その実態をカラー写真に収め、観察記録をとっている。このことは、一つには日光杉並木の由来、すなわちその苗木や種子の来歴を確かめる手がかりとなるとともに、日本に残っている老杉の祖先の進化・変遷などを確かめることも出来ると考えられるからである。 これはとりもなおさず、日本の最優位にある林業樹種としての日本の杉の造林技術の基礎を科学的に究明する手がかりともなると確信するからである。もしも現存する日本の杉が、ある時代に今の杉の形態をととのえたとすれば、その時代は何時であったか、またこの杉が日本の杉のいずれかの土地に発生し進化して、今日の日本の杉の形になったとすれば、その杉の親否その祖先ははたして何々樹であったであろうか。 これはおそらく、杉の類縁樹種間の自然交配を永い間繰り返すうちに、何世代目かの雑種として現在の形が発生したのであろう。またこの雑種も永い世代のうちに、気候や土地条件などの環境に馴化しながら徐々に変異を積み重ねられて今日に至ったと考えられる。しかし現在では、いまだにはっきりした解明はなされていない。これを解明すべく一世紀に亙って、わが国の学者たちが鋭意努力しているが、現在では何人といえども、これを適確に論断することはできず、結局ある推論を下す以外に方途はないのである。
筆者は、前述のように昭和6年(1931)に秋田営林局で佐伯直臣技師とともに、河田博士の秋田杉材の調査隊に伍して、秋田の天然林の実態を親しく観察する機会に恵まれた。その時、植生の調査方法や秋田天杉の植生(フローラ)の採取法などを学び、自らフローラの採取も行った。 この河田調査隊の行脚は、毎日秋田杉をたずねて山から山へ、谷から峰へと。夜は営林局の山小屋(実は秋田天杉の良材で建てられた事務所で、いわゆる秋田天杉御殿)で、夕げの前にお清め、すなわち山の神への無事祈願の祝宴が長々と続いた。爛漫や両関の美酒を嘗めるように嗜まれながら、ゆっくりと語られる河田先生の杉の話や世間話をかしこまって承り、やっと夕食になるのは、きまって12時ごろであった。 われわれ若者たち(筆者は26歳の若造)は山歩きの姿そのままで、ゲートル(巻脚絆)をとっただけで野帳と鉛筆を携えて、河田先生のお話のメモをとったわけであった。そして河田先生がやっと夕食を済ませて床に入ってから、冷えた風呂で汗を流した。その後でその日採集したフローラを押葉にし、前からたまっている押し葉の葉直しと、新聞紙の取替えを済ませると夜半を過ぎるのが例で、時には夜が白みかけるのもたびたびであった。 明日の山歩きが控えているので、少しでも眠りを取ろうと床にもぐり込むと、驚くなかれ隣室の河田先生の万雷の高いびきである。それに悩まされつつ寝つかれず悪戦苦闘しているうちに夜が明けた。その時河田先生はすでに山支度を整えて、渓流に洗顔に下って行く姿がガラス戸こしに見えるので、驚き跳ね起き身支度をととのえ、はや立ちの行列に加わったものだった。山歩きの間、先生は人夫たちにも実務労働者や若い署員にも、容易にのみ込めるような簡単な方法で話された。
宇都宮大学農学部創立50周年記念史 入手のこと
関連項目
[編集]参考文献
[編集]- 鈴木丙馬 「日光杉並木に関する研究」『宇都宮大学農学部学術報告特輯』第8号、1961年
- 鈴木丙馬 『日光杉並木街道の緊急保存対策(案)』 1974年
- 鈴木丙馬 『杉と人生』 1995年
- 下野新聞社 『日光杉並木』 下野新聞社、1995年
外部リンク
[編集]- 日光市歴史民俗資料館 - 鈴木に関する資料が収められている。