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利用者:Kmatsuo-1941/sandbox

【山ン寺遺跡】

 今から1000年ほど前、玄界灘沿いの九州西北部地域を支配していた松浦党と称される武士集団が存在していた。彼らは、封建制政治にありがちな一人の首長が専制的に領地を支配していたのではなく、初期には同族意識が強く、中世期の日本には珍しい共和制、合議制によって地域の政治を司っていたと言われる。

 彼らの政治の中心地になっていたのが伊万里市東山代町川内野の山間にある「山ン寺」(山ん寺、山之寺とも称す)と呼ばれる地域である。その場所に存在した館跡、寺社、墳墓、遺跡が保存され、「山ン寺遺跡」と称されている。

 当地域は、松浦党が支配する以前は、各地に中小の領主や大・中豪族などが存在し、それぞれ勝手に独立した地域経済、生活規範を持って生活を営んでいたようである。中央政権の支配力が及ばず、業を煮やした幕府は「宇野御厨検校」を遣わし、この地域を支配下に入れるように努めた。

 最初に任命されて派遣されたのが初代党祖 源大夫 久(ひさし)である。久は長崎県松浦市今福のギギヶ浜に上陸し、伊万里湾が見渡せる丘陵の上に梶谷城を築いたとされる。その孫にあたる2代当主源大夫 直(なおす)は支配下松浦地域の中央に当たる「山ン寺」に本拠地を置き、その富力と武力は益々盛んになったという。