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利用者:Kizhiya/sandbox-e

ラージンの乱とは、1670年から1671年にかけて、ツァーリアレクセイ(在位1645-1676)[1]}治下のロシア・ツァーリ国で起きた、ドン・カザークコサック)のステパン・ラージンを指導者とする反乱である[2]。当時のロシアは、農奴制の強化や重税などのため困窮する者が多く、ドン川に集まった。ラージンは彼らを率いて1667年ごろからドン川やヴォルガ川近辺で略奪を繰り返した。1670年にラージンは反乱を宣言、ヴォルガ川下流のツァリーツィンアストラハンを占拠した[2]。反乱軍には、逃亡農民や異族民がつぎつぎと加わった。ラージンらはサラトフを奪ったが、シンビルスクで政府軍に敗北し、1671年にラージンは処刑された[2]。乱の後、政府はカザークにツァーリへの忠誠を誓わせ、ドン・カザークが持っていた諸権利を奪った[3]

乱の背景

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ロシア民衆の困窮

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17世紀のロシアは、連隊の新設や拡充、および国家機構の拡大によって、慢性的な財政不足であり、国民の税負担は重かった[4]。農奴制が完成したのもこの世紀である。カザークは農村や都市からの逃亡者の受け入れ先になった。

ドン・カザークの状況

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17世紀後半のドン・カザークは、およそ2万人いたと考えられる。当時のカザーク(コサック)のなかでは最多である[5]。 重税や徴兵からの逃亡者やウクライナの戦乱で困窮した者が大量に加わった。そのため受け入れ能力が限界を超え、カザーク下層民[注釈 1]に不満が広まっていった[8]。 カザークたちは農業はほとんど行わず、ステップの騎馬遊牧民のような生活を送っていた[5]。狩猟や漁撈や牧畜も行ったが、主な生活基盤は略奪のための遠征であった[8]。また、モスクワ政府はカザークに穀物や塩、火酒を援助する一方、国境の警備を任せた[5]。このような状況の中、下層カザークと富裕なカザークのあいだの差異が広がっていった。

政府はドン・カザークの長老層に「君主の恩賞」を与えることで、カザーク全体への要求を強めていった。特に貧しいカザークたちは新たな生活基盤を必要としていた[8]。1666年には、ドン地方全体に飢餓が広がり、ドン軍団の一部が職を求めてツァーリへの勤務を願い出た。これはヴァシリー・ウスに率いられた一大勢力として領主層や政府を脅かした[8]。たとえば、ドンへの逃亡者を「引き渡さない」というカザークたちの自律的な原則に対し、1666年に政府は逃亡農奴の引き渡しを求めた。


1667年のラージンの遠征

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1667年5月に、ドン川下流のドン・カザークたちは遠征に向かい、各地で略奪を行った[9]。この遠征は、チェルカッスクに住む長老や古参カザークたちの許可なく、新参カザークを中心に行われた点で常と異なっていた。指揮を執ったのはステパン・ラージンという古参コサックである[5]。ラージンの大きな目的は、下層カザークに生活手段をみつけることであったといえる[9]

ラージンの船隊はヴォルガ川を下りツァリーツィン北方で船団を襲い、約1500人の兵とともに6月にカスピ海に至った。カスピ海からヤイク川の河口まで向かい、ヤイク・カザークからも多くの者がラージンの軍に加わった[9]。翌年には、ラージン一行は2000人以上になった[9]

カスピ海南岸に遠征に向かったラージンたち一行は、ペルシアシャーに仕えるよう交渉を始めた。しかし、ペルシア政府はモスクワのツァーリの要請を受け、軍隊を出し、ラージン軍を襲った。ラージン軍は数百人の犠牲を出した[9]



反乱の開始

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脚注

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注釈

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  1. ^ ゴルイチバ[6]あるいはセロマ、ゴルィティヴァとも[7]

出典

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参考資料

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  • 田中, 陽兒、倉持, 俊一、和田, 春樹『ロシア史〈1〉9世紀-17世紀』山川出版社、1995年。ISBN 4-634-46060-2 
  • 土肥, 恒之『ロシア・ロマノフ王朝の大地』講談社、2016年(原著2007年)。ISBN 4-06-292386-6 
  • 栗生沢, 猛夫『増補新装版 図説 ロシアの歴史』河出書房新社〈ふくろうの本〉、2014年。ISBN 978-4-309-76224-1 
  • アヴリッチ, ポール 著、白石治朗 訳『ロシア民衆反乱史』彩流社、2002年。ISBN 4-88202-782-8 
  • 中村, 仁志「17世紀におけるドン・カザークの変貌 - 対ロシア関係を中心に」『西洋史学』第124巻、日本西洋史学会、1981年、1-、doi:10.57271/shsww.124.0_1 
  • 八重樫, 喬任「ステンカ・ラージン史謡に見る農民戦争」『西洋史学』第98巻、日本西洋史学会、1975年、51-、doi:10.57271/shsww.98.0_51