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利用者:Kakko matu/sandbox

松下 昇

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 松下 昇(まつした のぼる、1936年3月11日〜1996年5月6日)は、1960年代末から1970年代にかけての大学闘争の渦中、学生たちの側に立ったいわゆる造反教官としてマスコミや文化的領域で盛んに取り上げられた。 69年2月「情況への発言」を掲示し、旧大学秩序維持に役立つ授業・試験を放棄した。1970年10月神戸大学の懲戒免職処分の後、「強いられた生活様式~状態を基本として、この段階の共有と、そこからの解放の試み自体を生活手段として生きること、この試みを許容しない力や制度と持続的にたたかうこと、このたたかいに参加する人やテーマを拡大していくこと[1]」自体を生涯の課題として、表現し続けた。

1・六甲まで

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 一九三六年 長崎県に生まれたが、まもなく奈良県へ移転。
 一九五九年 東京大学在学中、共産主義者同盟へ加盟。
 一九六〇年 六・一五国会突入に参加。
 一九六三年 大学院終了後、神戸大学へ勤務。翌年結婚。

一九六五〜六六 吉本隆明が主催する雑誌『試行』に『六甲』1〜5章を連載。最終部に「不安をこの世界に深化拡大することによって告発し、占拠する、関係としての原告団をつくろう。」という呼びかけがあり、最終行は「私たちのであうたたかいが、〈六甲〉第六章=終章を表現することである。」となっている。散文詩あるいは断章集といった文学的形式を取りながらあえてアジテーションであるかのように、読者との直接的出会いを呼びかけている。この逆説を生きたのが彼の生涯だった、と言って良い。作品「六甲」とは美しい六甲の風景のなかでまどろんでいたい自己に対する告発のインナー・スペースにおける展開だった。それはテーマとしてインナー・スペースに留まることはできず、〈関係としての原告団〉を現実空間に生み出そうとするものとなる。3年後学生大衆の無意識の〈不安・告発〉の表現であった全共闘運動と出会ったとき、当然にも〈関係としての原告団〉は現実化するに至る。

自己の無意識と情況との偶然の出会いによる盛り上がりといった性格が強く、華々しい盛り上がりが去った後は一部の政治青年を除き、運動を持続できなかったのが全共闘運動だった。松下の場合は、自己の展開が先にあり〈関係としての原告団〉が現実化したものなので、周囲の盛り上がり盛り下がりには無関係にテーマを追求、展開していけた(行かざるをえなかった)。

2.情況への発言

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   ・・・いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマを、闘争の最も根底的なスローガンと結合せよ。そこにこそ、私たちの生死をかけうる情況がうまれてくるはずだ。・・・69.2.2

謎めいたしかしふとしたはずみにまた浮かび上がってくるフレーズで、松下は当時の学生たちに大きな影響を与えた。上の断片は自分の内部にある「ふれたくないテーマ」を取り上げている。考えるとき人は、問題意識を先立ててそれに照らされたものしか見ない。大学闘争末期であれば、大学の卒業資格を得るために「正常化」された大学の単位制に復帰するかどうかが問われた。いわゆる「自己否定」の問題である。「いま自分にとって最もあいまいな、ふれたくないテーマ」という言葉は、そうした問題(自己の存在基盤という問題)として理解されるかもしれない。そう考えても良いが、文字どおりは、もっと茫漠としたものだ。異性や孤独の問題、親との問題、目の前にある闘争に熱中していていいのかという不安、など対象化しきれていない様々な問題がある。

   自分が何を隠したいと思っているのかを自分が知っているのか、少なくともそれについて上手く考えることはできないはずだ。しかし松下は、まずそう問うことから始めようとする。政治的スローガン(その正しさを松下は疑っていないのだが、疑っていたとしても同じことなのだ)があってそこから自己と世界を考えるのではなく、世界が姿を変えるのを知っている〈自己の不安〉に定位するのだ。

3.処分と裁判

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松下は七〇年五月に学内の事件を名目とする刑事事件の被告人として起訴された。 七〇年一〇月大学から懲戒免職処分を受ける。教授会欠席、授業や試験の拒否、全員に0点をつけたこと、はり紙など松下の表現それ自体が処分理由になっている。 同11月、人事院に審理請求。(なお松下は懲戒免職処分に対しる取消請求の提訴は行っていない。)これについて松下は「いくつかの国立大学の処分を(地裁民事の管轄範囲を突破して)全国レベルで統一的に問題化することと、任意の参加者が制限なしに被処分者と同等の訴訟行為の可能な代理人になれるという規定を最大限に応用することであり、処分の取消は中心目標ではなかった。[2]」と述べている。処分に対して処分撤回を求めることは相手の設定した地平に乗ってしまうことであり、必敗である。そうではなく相手と自分にとって新しい地平を創造し続けること(これは芸術にとっては当たり前のこと)ができれば、相手も対応に苦慮するし自分も楽しい、そのように松下は闘い続けた。 71年5月に国が提起したA430研究室明渡し請求事件への応答から始まる裁判群、83年7月、国(京大)から松下ら5名へのA367資料室の占有移転禁止の仮処分を求めたのに始まる京大A367資料室をめぐる奇妙な裁判群、裁判過程での監置や暴力事件に対する裁判など、多くの裁判を舞台にして、松下は表現活動を行った。

4.概念集

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89年1月に概念集・1を出してから、96年5月死の直前に刊行された、概念集・別冊2~ラセン情況論~まで14冊、松下は概念集というタイトルのパンフを執筆・刊行し続けた。 タイトルの一覧はこちら[3]。  例えば全共闘運動について、松下は「自分にとっての必然的な課題と、情況にとっての必然的な課題を対等の条件で共闘させること」という規定を与える。全共闘運動を知らない読者に対しても、それらの本質を、経験ないし思考を媒介して言葉によって伝えていくことができるはずだ、と松下は考えたのだ。それは辞書ないし作品を意図したものではない。現在の幻想性総体の鍵になるような概念を選び出し、わたしたちが置かれている偏差を対象化していくことを目的としたものである。  「たんに概念の解説ではなく、ある概念の生成してくる根拠や回路を共有する度合で了解しうる言葉で表現しなければならないし、しかも、はるかな異時・空間にいる、全く予備知識のない〈私〉が了解しうる言葉で表現しなければならない」という趣旨で書かれている。

5.表現及び生前の刊行パンフ

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〈論文〉

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  • ハイネにおける幻想の生起と崩壊  東京大学文学部独文学科卒業論文   1958年12月
  • ドイツ表現主義の諸問題ーブレヒトとベンを媒介して 東京大学文学部独文学科修士論文  1962年12月

  (ゴットフリート・ベンとベルトールト・ブレヒトにおける表現主義)と改題

  • ブレヒトの方法     神戸大学学内紀要63年12月「論集」         1963年8月
  • ハイネ『北海』における詩と散文の相関性  神戸大学学内紀要64年2月「文学」   1963年8月  
  • ブレヒト「処置」の問題 神戸大学学内紀要64年8月「近代」36号            1964年3月

  (処置するもの・されるもの)と改題して同時代演劇(73年9月)に併合表現と共に転載

  • ハイネの序文に関する序論 神戸大学「論集」2号  1966年3月
  • 〈第 n 論文〉をめぐる諸註 「ドイツ文学論集」1号 1967年3月
  • 不確定な論文への予断   神戸大学「論集」7号  1969年3月

〈作品〉

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  • 遠嵐        「試行」5号      1962年7月
  • 北海        「試行」9号      1963年10月
  • 循環        「試行」12号     1964年11月
  • 六甲 序章     「試行」15号     1965年10月
  •    第2章     「試行」16号     1966年2月
  •    第3章     「試行」17号     1966年5月
  •    第4章     「試行」18号     1966年8月
  •    第5章     「試行」19号     1966年12月
  • 包囲(1)     「試行」21号     1967年6月
  •    (2)     「試行」22号     1967年9月
  •    (3)     「試行」23号     1967年12月
  •    (4)     「試行」24号     1968年4月
  •    (5)     「試行」25号     1968年8月

〈批評〉(主要なもの)

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  • 奇妙な夜の記憶         神戸大学第二課程新聞65年1月号       1964年12月
  • 〈ハンガリー革命〉と〈六甲〉  神戸大学新聞   1966年11月11日号
  • 不明確さを構築せよー学内作品コンクール選評    神戸大学新聞67年2月   1967年1月
  • H・ブロッホ『誘惑者』(古井由吉訳)についてー書評  日本読書新聞67年6月   1967年5月
  • 情況への発言〈あるいは〉遠い夢  「あんかるわ」18号   1968年4月
  • もうひとつのBRICK=レンガの中での話  神戸大学応援団機関紙「BRICK」27号(72年4月) 1972年3月
  • あらたな闘争の展望について  救援通信14号(80年8月)    1980年6月
  • 生闘学舎論          同時代建築通信4号(83年12月)  1983年10月
  • 河川敷・身体・空間      同時代建築通信8号(84年12月)  1984年10月
  • 会食メニューへの註      同時代建築通信9号(85年7月)  1985年6月
  • 東京高裁の告訴〜起訴弾圧について  救援(85年3月号〜12月号)  1985年1月〜11月
  • 不法占拠            群居12号(86年7月)      1986年5月
  • 印刷されたものを真に生かすための表現過程論(序)  模索舎通信44号(87年1月) 1987年1月
  • 関曠野『プラトンと資本主義』について(書簡) 同時代建築通信16号(88年5月)  1988年3月 

〈ビラ〜掲示〉(主要なもの)

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  • 情況への発言    1969年2月2日神戸大学教養部掲示板(処分調査資料として筆写)転載メデイア多数
  • 教職員諸君!受験生諸君!テーマの一つ 1969年3月4日学外入試会場ビラ(処分調査資料として筆写)
  • 〈教官諸君へ〉  1969年7月1日全学集会への批判と提起ガリ刷りビラ 神戸大全共闘パンフ69年7月 に転載
  • 全学集会加担者の諸君へ  1969年7月1日全学集会への批判と提起ガリ刷りビラ 神戸大全共闘パンフ69年7月 に転載
  • バリケード的表現  1969年8月下旬神戸大学構内のさまざまな場に掲示、ビラ、落書として出現

         「試行」29号(70年1月)と神戸大学教養部広報30号(71年10月)に転載

  • バリケードの中から 1969年8月30日および9月4日(書簡)   「RADIX」1号(70年2月)
  • 正常化=反革命に関するテーゼ 1969年9月16日ガリ刷りのビラ(処分調査資料としてコピー)
  • バリケード的表現  1969年10月13日掲示板のマジック表現(処分調査資料として撮影〜筆写)
  • なにものかへのあいさつ  1970年1月3日ガリ刷りのビラ 数名に直接配布したが、その後……

          「試行」30号(70年5月)と「あんかるわ」24号(70年4月)に転載

〈対談・講演・討論・会議〉(主要なもの)

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  • 反権力の自立的拠点 対談者・清水正徳(神戸大学文学部教授)神戸大学総合雑誌「展望」18号(68年9月) 1968年7月5日
  • 権力を持たない者は空間をもつことができる(神大理学部シンポ発言要旨) 情況(69年3月臨時増刊号)1969年2月12日
  • 新・告知板への発言    アサヒグラフ(69年3月7日号)                1969年2月27日
  • 表現の変革と機構解体(電話インタビュー)      日本読書新聞(69年3月24日号)  1969年3月8日
  • 機構の変革あるいは表現の変革(自主講座における発言) 神戸大学新聞(69年4月11日号)  1969年5月7日
  • 表現運動としてのバリケード(文京公会堂徹夜討論発言要旨) 情況(69年7月号)      1969年5月29日
  • 都立大学・解放学校の討論記録(ガリ刷り)                         1969年12月14日
  • 私の自主講座運動   1969年12月都立大解放学校での問題提起 「RADIX」2号     1969年12月14日

〈既刊パンフ〉(主要なもの)

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(後で補充)

7・関連項目〜リンク(編集予定)

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  1. ^ 概念集 2 ~1989・9~ p22 http://666999.info/matu/data0/gainen38.php
  2. ^ http://666999.info/matu/tate/tsaibanteiso.html
  3. ^ http://666999.info/matu/mokuji18.php