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全体闘争または全体人民闘争(インドネシア語: Perdjuangan Rakjat Semesta)、略称プルメスタ(Permesta)は、インドネシア共和国における政治運動および武装蜂起。1957年3月2日、スラウェシ島地域の軍事的・政治的指導者たちが、地方の立場を高めるため連合してジャカルタにある中央政府への闘争を宣言したことで開始された。
1956年2月17日、プルメスタは2日前の2月15日に成立を宣言したインドネシア共和国革命政府(PRRI)との共同軍事行動を宣言した。インドネシア共和国軍(ABRI)はスマトラ島に本拠を置くPRRIを早期に壊滅し、これにともなって紛争はプルメスタが活動するスラウェシ地域へと拡大した。
当初、運動の中心はスラウェシの首都ともいえるマカッサルであったが、1957年の後半に南スラウェシが運動から離れてゆくと、プルメスタの首都は北スラウェシのマナドへ移った。マナドは1958年6月末までに占領されたが、プルメスタ側は1961年に休戦が結ばれるまでゲリラ戦を継続した。この武装闘争と並行して、中央政府側との接触は続けられていたが、結局はABRIの武力鎮圧という結果に終わった。この紛争で4000名の政府軍兵士と2000名のプルメスタ勢力側戦闘員が死亡したとされている[1]。
プルメスタ(Permesta)の名は、インドネシア語で「全体闘争」を意味するインドネシア語: Perdjuangan Rakjat Semestaの略語からとられたものである。
背景
[編集]プルメスタの反乱とインドネシア共和国革命政府(PRRI)による中央政府からの決別は、様々な要因が重なって発生した。まずスラウェシ島やスマトラ島地域における特定の民族グループの間では、ジャカルタ中央政府の政策が地域開発の機会をさまたげ、地方の経済発展を停滞させていると考えられていた[2]。また、新しく多民族国家として出発したインドネシア共和国の中央政府でもっとも影響力をもっていたジャワ人グループに対して、他の民族はいくらかの隔意を抱いていた[3] 。インドネシアの政治的中心地がジャワ島に密集している一方、経済を動かす天然資源はジャワ島以外(“外島”地域)から主に産出されるという問題もあった[4][5][6]。
プルメスタとPRRIが国の東西で蜂起した理由は、こうした不平等を解決する意思が中央政府に見られないと判断したためであった。このため事実上、プルメスタ紛争はインドネシアからの独立を狙った分離主義的なものというより、インドネシア全体における経済的・政治的権力の公平な分配をもとめる国内むきの紛争であった[7][8]。
運動のはじまり
[編集]闘争宣言以前
[編集]1957年初頭、マカッサルからジャカルタへ、軍民の指導者が請願のため訪れた。1月にモハマッド・サレハ・ラハド中佐とアンディ・モハマッド・ユスフ・アミール少佐が、共和国軍参謀長のアブドゥル・ハリス・ナスティオン大将と面会した[9]。当時ラハドは南・南東スラウェシ治安司令部(Ko-DPSST)の参謀長、ユスフはスラウェシ一帯を管轄するハサヌディン歩兵連隊の部隊指揮官を務めていた[10]。翌2月、スラウェシ州知事アンディ・パングラン・プタラニがアリ・サストロアミジョヨ首相およびスナルヨ内相と会談した[11][12]。ABRIの2名はナスティオンおよび陸軍(TNI-AD)に対し、地方司令部へより大きな権限を与えるよう求め、またKo-DPSSTを地方部隊である第7軍管区(TT-Ⅶ)ではなく中央直轄の地方軍管区(KODAM)とするよう求めた[9]。同様にパングランは中央政府に対し、東インドネシアの地方政府により大きな権限を与え、自治権とともに地方開発プロジェクトのための予算分配を認めるよう請願した[13]。
1957年2月末、アンディ・ブルハヌディンとヘンク・ロンドヌウが、スラウェシ州の代表団としてジャカルタを訪れた。彼らは中央政府へ圧力をかける最後の使節としての任を負っていた。また彼らとは別に、TT-Ⅶ司令官のフェンチェ・スムアル中佐も首都へ飛んだ[12]。スムアルはスラウェシの状況へ同情している将校たちと会談をもったが、最終的に中央政府の譲歩が得られなかったため3人ともスラウェシへ帰っていった。一方これに先立つ1957年2月25日、中央政府との交渉が失敗したときの対応を協議するため、地方の軍民指導者がマカッサルで会合を持っていた。
一方の中央政府は、彼らにばかり構っていられなかった。スカルノ政権前半の議会制民主主義期とよばれる時代は、国軍にとっては地方反乱の時代であった。独立革命からインドネシア連邦共和国をへた国家統一のあともアチェ州の反乱、西ジャワのダルル・イスラーム運動、南スラウェシ州の南マルク共和国残党など、そもそも統一国家インドネシアを認めない勢力が複数存在していた。また連邦共和国という名のオランダによる分断統治はジャカルタ政府と国軍へ大きなトラウマを与えており、彼らからみれば統一の維持、すなわち自治要求の拒否はいっさいの妥協が許されない状態であった。
- ^ Dixon (2015), p. 514.
- ^ Lundstrom-Burghoorn (1981), p. 43.
- ^ Schouten (1998), p. 215.
- ^ Harvey (1977), p. 3.
- ^ TEMPO (2008).
- ^ Liwe (2002), p. 89.
- ^ Jacobson (2002), p. 2–3.
- ^ Liwe (2002), p. 18.
- ^ a b Harvey (1977), hlm. 44.
- ^ Usman (2010), hlm. 150, 156.
- ^ Harvey (1977), hlm. 41–42.
- ^ a b Turner (2017), p. 177.
- ^ Harvey (1977), hlm. 42.