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インドシナ半島の歴史
[編集]アユタヤ王朝滅亡
[編集]タイ(アユタヤ王朝)はビルマ(コンバウン王朝)との戦争の果てに、1767年(仏歴2310年)4月7日、首都アユタヤへの侵攻を許し、街は徹底的に破壊された。国王スリヤートアマリンは逃亡後に捕らえられ(異説あり)、王朝は滅亡した[1]。しかし、中国(清王朝)のビルマ侵攻が再開されたため、ビルマ軍は進撃を断念した。一方、支配者を失ったタイ領土では各地の有力者が独自に王権後継者を名乗り、内戦状態に突入した[2]。
トンブリ―王朝
[編集]官吏時代のタークシンは、まず西部ターク県副総督(後に総督へ昇格)に指名され、プラヤー・タークを名乗っていた。1765年のアユタヤ防衛戦で功績を認められ、プラヤー・ワチラプラカーン・カムペーンペットの称号を与えられた(現地へ赴任する機会は果たされなかった)。
いかなる理由か不明であるが、1767年(仏歴2309年)1月3日[注釈 1]、部下を引き連れたタークシンはラヨーン方面に向け出発した。ビルマ軍の包囲網を脱出したタークシンは海沿いに東方へ移動し、サッタヒープで休息後、チャンタブリーを支配する知事から奪取し、根拠地とした。道中、宿を提供したサッタヒープの民衆は建国に助力したことを誇りにしたという[3]。また別の説によれば、タークシンは4月時点でアユタヤ陥落に遭遇したが脱出に成功し、チャンタブリーに入城し、兵を集めたともされる。
バンコク湾沿岸一帯を掌握したタークシンは兵力を5000人の規模に増強したのちアユタヤ周辺に進軍し、同年11月にはビルマ軍駐留部隊の掃討に成功した。
現バンコクにて1767年12月に戴冠式を行い、新王としてトンブリー王朝を興したタークシンは各地を平定し、内戦を終結させただけに留まらず、清からの攻撃で弱体化したビルマ軍を次々と破り、1776年頃にはビルマに占拠された西部・北部地域をほぼ奪還することに成功した。1777年から1778年にかけてラオス方面に進軍し、3国に分割されていた現在のラオス全土を属国に編入した。カンボジア西部のシェムリアップ州、バタンバン州を支配下に収めていた。
- ラオス
- 1737年に即位したチャンパーサック国王は次第にシャム領内へ領土を広げた。
- 1777年、ヴィエンチャン王国が属領となる。のちに独立を図るも失敗し(en:Lao_rebellion_(1826–1828))滅亡。1828年、タイ領土となる。
- 1778年、ルアンパバーン王国が属領となる。1872年より雲南から中国系チンホー族(英語)(雲南人)の侵攻を受ける(ホー戦争(英語))。タイとの共同作戦でいったん退けたが、1887年から再び侵攻を受けた(のちに、フランスにより撃退される)。これがもとで、フランスに借りを作った。1893年、フランス傘下に入る。ちなみにホー族は当時最新の武装をもち、中国の関与が疑わている。
- 1777年または1778年、チャンパーサック王国が属領となる。
- 1788年、シエンクワーン王国はベトナム(西山朝)の侵入を許し、形の上ではヴィエンチャン王領でありながらベトナムの支配下におかれた。1828年のヴィエンチャン滅亡により、タイ領土となる。
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Taksin's domain in 1767
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Taksin's domain in 1768
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Taksin's domain in 1769
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Taksin's domain in 1770
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Taksin's domain in 1774
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Taksin's domain in 1777
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Taksin's domain in 1778
- 滅亡
マハー・カサットスック公爵によりタークシンは簒奪された末に処刑され、トンブリ―王朝は1代限りで滅亡した。公爵は国王に即位してラーマ1世となり、現代まで続くチャクリー王朝を起こした。
チャクリー王朝
[編集]トンブリ―王朝滅亡後、ラーマ3世統治下のタイは2度の大規模侵攻によりカンボジア西部を獲得した。[注釈 2]。
しかし19世紀半ばより欧州の列強諸国がインドシナ半島へ進出を開始する。1858年、フランスはキリスト教弾圧を続けるベトナムに対し武力侵攻を開始した。1862年に締結されたサイゴン条約にて直轄領コーチシナを獲得し、1863年、カンボジア王国を保護国とした。ベトナム領土への侵攻を続けたフランスは中国(清王朝)と衝突し、清仏戦争に発展したがこれに勝利し、1885年の天津条約にてベトナムを保護国に加えた。1887年、インドシナ総督が各保護国を統治するインドシナ連邦を成立させた。一方 1893年にはラオスがフランスに保護を求め、 1886年にはビルマがイギリスの植民地となった。
第二次大戦
[編集]- 6月10日、フランス本国、パリを無防備都市宣言。政府をボルドーに移す。
- 6月12日、フランス領インドシナとタイ、不可侵条約を結ぶ。
- 6月17日、シャルル・ド・ゴール、イギリスへ亡命。後にレジスタンス軍(自由フランス)を立ち上げる
- 6月14日、ドイツ、パリへ無血入城。
- 6月22日、独仏休戦協定調印、6月25日発効。
- 7月1日、フランス、ボルドーからヴィシーへ移転。(ヴィシー政権)
- ヴィシー政権に対し、時のピブーン(読んだ方がいい)政権はラオス返還を求めたが拒否された。
- 9月、日本軍、武力進駐(仏印進駐)(読んだ方がいい)
- 紛争
- 9月10日、タイ・フランス領インドシナ紛争が勃発。タイが不可侵条約を反故にした。フランスは抵抗し、翌年までもつれこむ。
- 1941年
- 5月9日 東京条約により失地回復
- 12月 太平洋戦争開戦。8日、日本軍、タイ領内に上陸。11日、日本に対し、タイ国領内通過協定承認。
- 1942年1月25日 タイ、連合国に宣戦布告し枢軸国入りする。
戦後
[編集]- 3月、明号作戦発令。フランス領インドシナ政府を解体。ベトナム帝国、カンボジア#保護国時代、ラオス王国独立。
- 8月15日 日本降伏
- 8月18日 ベトナム八月革命蜂起
- 1月 ソ連・中国、ベトナム民主共和国(ホー・チ・ミン政権)を正式承認、武器援助を開始
- 6月25日 朝鮮戦争勃発
- カンボジア
1953年カンボジア、完全独立。
- ^ “HISTORY OF AYUTTHAYA” (英語). AYUTTHAYA HISTORY RESEARCH. 2023年3月8日閲覧。
- ^ KING TAKSIN DAY - ウェイバックマシン(2021年12月27日アーカイブ分) ,文化省
- ^ King Taksin's shrine - ウェイバックマシン(2010年7月2日アーカイブ分),タイ王国海軍