利用者:I-kaneko/sandbox
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八幡神社 | |
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所在地 | 埼玉県入間市上谷ヶ貫679 |
位置 | 北緯35度49分13秒 東経139度20分32秒 / 北緯35.82028度 東経139.34222度座標: 北緯35度49分13秒 東経139度20分32秒 / 北緯35.82028度 東経139.34222度 |
主祭神 | 本殿 誉田別尊(ホンダワケノミコト) 摂社 倉稲魂命(ウカノミタマノミコト) |
社格等 | 村社(明治5年) |
創建 | 文和3年(1354年) |
本殿の様式 | 文久年度の再建 |
例祭 | 10月第1日曜日 |
地図 |
八幡神社(はちまんじんじゃ)は、霞川中流域の埼玉県入間市上谷ヶ貫679にある神社[1]。
縁起、由来
[編集]祭神
[編集]- 本殿に祭神誉田別尊(ホンダワケノミコト)、摂社祭神の倉稲魂命(ウカノミタマノミコト)があり、ご神体とともに懸仏が2体ある[3]。
行事
[編集]- 元旦祭と祭礼の年2回。元旦祭は、神仏習合時代に西光院で行っていた村の初顔合わせの行事を引き継いだもので、新年を祝う。祭礼は普通、獅子舞と呼ばれ、毎年10月5日前後の日曜日に実施されるが、古くは9月15日に行われていたが、大正初期頃から養蚕飼育の関係で9月28日行われるようになり、その後10月5日に変わり現在に至る[1]。
- 上谷ヶ貫の獅子舞は、八幡神社の社伝によると、文和年間(南北朝時代)に始められたある[4]。
獅子舞伝承の経路も明らかではないが、一説に一時衰退し、明治初期に箱根ヶ崎(東京都瑞穂町)から伝授されたと伝える。舞の特徴は、入間・比企郡に分布する一曲形式の獅子舞に属するものである[5]。 獅子舞は菩提寺である上谷ヶ貫の西光院と八幡神社に奉納されるほか、下谷ケ貫堺や西三ツ木堺などで、村内の安泰や五穀の豊穣を祈願して行われる[6]。 現在使用中の獅子頭は、文政年間(1818~1830年)に上谷ヶ貫の比留間総一氏の祖、比留間伊右衛門(当時名主)の子で要吉という者の作で、3年かっかて彫ったと言われる[6]。昭和45年4月、入間市無形文化財(無形民俗文化財)に指定される。
幟
[編集]- 八幡神社例大祭の幟は、「神徳被蒼生」(シントクハソウセイヲオオイ)、「皇恩垂永世」(コウオンハエイセイニタル)(神の恵みは広く国民に及び天皇の恩は永久に注がれている)、明治10年(1877年)柳田正齊[注釈 1]の揮毫である。縦13.8m×幅1.26mで市内最大である。摂社倉稲魂神社(稲荷様)の幟は、「厳禋明神威」(ゲンインハシンイヲアキラカニシ)、「新豊錫億兆」(シンポウハオクチョウニタマワル)(厳かに神を祭って恩を忘れないようにすれば豊かな実りが人々にもたらされる)、明治42年小沢琴山の揮毫で縦5.59m×幅0.6mで子供中の奉納である[7]。なお、八幡神社の幟が柳田正齊によって揮毫されたのかについては、金子地区が生んだ国学者増岡広海が、柳田正齊と親交があったためと言われる。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ やなぎだしょうさい(寛政9年・1797-明治21年・1888)幕末から明治にかけての書家。千葉県佐原市の出身。若い時江戸に出て幕末の昌平校に学び、特に書道に優れていたので研究を続け、ついに一家をなして書を教授して門人も多かった。名は貞亮、正斎はその号で、92才で没した。
出典
[編集]- ^ a b 埼玉の神社P464
- ^ 入間市の郷土芸能P42
- ^ 上谷ヶ貫村誌考P12
- ^ 入間市の文化財第4集P16
- ^ 創立四十周年記念誌P29
- ^ a b 入間市史 民俗・文化財篇P694
- ^ 上谷ヶ貫村誌考P29
- ^ 入間市文化財保護審議委員会編 『入間市の幟』1995年 柳田正斎84頁