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利用者:Houjyou-Minori/sandbox2

整備された住吉側入り口跡

三菱兵器住吉トンネル工場跡(みつびしへいきすみよしとんねるこうじょうあと)は、長崎県長崎市住吉町・赤迫町にある三菱重工長崎兵器製作所住吉トンネル工場の遺構である。 長崎市に存在する被爆建造物の一つである。

概要

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戦時中に、三菱重工長崎兵器製作所(以下、三菱兵器)の疎開工場として稼動していた。

トンネルは住吉町と赤迫町にまたがる山腹の間を東西に、高さ4メートル(3メートルの説も有り)、幅4.5メートル、長さ約300メートルで、約10メートル間隔にて6本掘られ、南側より1号・2号と番号が振られていた。

現在は、1号・2号トンネルの住吉側入り口周辺のみが公開されている。見学は自由だが、トンネル内部は2号トンネルのみで一定の期間[1]に限って公開されている。

長崎市が作成した「被爆建造物等ランク付一覧表」では、2番目に重要度の高い「Bランク」とされている。

歴史

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建設の背景

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戦況の悪化に伴い、当時の内閣により軍需工場等の疎開の方針が閣議決定された。三菱兵器は長崎市内に大橋工場、茂里町工場と二つの工場を稼動させていたが、上の決定に伴い市内の山中にトンネル内を掘削し、大橋工場の一部を分散させることとなった。

原爆投下

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原爆投下時には1号・2号トンネルが完成しており、大橋工場より生産設備が運び込まれ、 三菱兵器の工員、動員学徒挺身隊員等、約1,800人が航空魚雷の部品製造に従事していた。 3号・4号トンネルは貫通はしたものの、使用されておらず、5号・6号トンネルは掘削中で、800名程度の朝鮮人労務者が従事していた。

大橋工場、茂里町工場では犠牲者2,237名を出すなど甚大な被害を被ったのに対し、 住吉トンネル工場は当時の被害状況報告によると「停電ノ為作業休止中、負傷者四十名」と、比較的軽微な被害でとどまったとされる。

原爆投下から時間が経過すると、近隣から負傷した人々が避難し、トンネル内で救護活動が行われた。

終戦後と一般公開

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終戦後、トンネルは放棄された。1982年(昭和57年)に、市議会にて当時の議員が保存を提言し、市民団体も市に保存の要望を続けていたが、周辺の土地所有権等が問題となり公開が見送られてきた。

2000年代後半に跡地上を走る市道の拡幅工事に伴い、長崎市は1号、2号トンネルの住吉側周辺を買収し 安全面に配慮して補強工事を施した上で、2010年(平成22年)3月10日より入り口付近に限り一般公開された。

関連項目

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脚注

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  1. ^ 原爆記念日前後(8月7日~10日)と、国連軍縮週間(10月24~30日)。

参考資料

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  • 『長崎被爆50周年事業 被爆建造物等の記録』長崎市、1996年。 
  • 『原爆と防空壕:歴史が語る長崎の被爆遺構』長崎新聞社、2012年。ISBN 978-4-904561-54-6 

外部リンク

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『三菱兵器住吉トンネル工場(跡)』長崎原爆資料館

座標: 北緯32度47分39.4秒 東経129度51分38.7秒 / 北緯32.794278度 東経129.860750度 / 32.794278; 129.860750