利用者:Haydar/下書き2-1
ゲイハトゥ(Gaykhatu ?-1294年)は、イルハン朝の第5代ハン(1291年7月23日 - 1294年)。『集史』などのペルシア語資料では كيخاتوKaykhātū と表記される。第2代君主アバカ・ハンの次男で、母はトトカリウト・タタル氏族のノクダン・ハトゥン[1]。先代のアルグンの異母弟にあたる。
即位以前
[編集]叔父のテグデルが即位した後の1283年初春に兄のアルグンがカラウナス万戸隊とともに駐留していた冬営地バグダードで蜂起した時、従弟のバイドゥらとともにこれに従っていた。アルグンは父アバカが領有していたホラーサーン地方への入府を口実にイラン高原へ出発した。ライなど諸都市で独自に財務官僚たちの任免を行い軍資金の徴発を行い始めたため、タブリーズのテグデルとの対立は不可避になった。1284年1月18日、アルグンを擁護していた叔父でテグデルの次弟であった王族コンクルタイが、テグデルの筆頭部将アリーナクに捕殺される事件が起き、アルグン麾下の諸将や官僚たちもタブリーズへ連行された。ガイハトゥはこの時辛くもホラーサーンへ逃げ延びる事が出来た。
1284年8月11日、アルグンが即位し王族たちに各地の所領の統治権を任命しているが、ゲイハトゥはルーム・セルジューク朝のあるアナトリア方面を任されていたようである。
1291年1月19日、アルグンが冬営していたアッラーン地方(現在のアゼルバイジャン共和国)で病没した。アルグン麾下の諸将は国内各地の王族たちへ訃報を伝えるため使者を派遣したが、アバカ家の親衛軍であったカラウナス万戸隊長タガチャルは、ホラーサーンを領有し部将ノウルーズ麾下のカラウナス軍と対立していた嫡子ガザンの即位を警戒していた。そのためアナトリア(ルーム)地方のガイハトゥの推戴を企図して使者を送ったが、アナトリア地方の勢力が権力を握る事を恐れ、アルグンの将軍たちはバグダード方面にいたバイドゥの推戴を決めた。この知らせを聞いたガイハトゥは怒ったが、バイドゥは自分が年長者でないこととガイハトゥからの報復を怖れてこの勧誘を固辞した。アルグンの正妃ウルク・ハトゥン(オルジェイトゥの生母)がゲイハトゥの即位に賛意を表したため、5月には君主位の継承がほぼ固まった。
即位
[編集]1291年7月23日、こうしてヴァン湖西部のアフラート:enの近郊で最初の即位が行われた。
紙幣の発行
[編集]晩年
[編集]宗室
[編集]『集史』「ゲイハトゥ紀」によると、アルグンには男子は3人、女子も4人いたという。
父母
[編集]- 父 アバカ
- 母 ノクダン・ハトゥン
后妃
[編集]側室
[編集]- ナナイ?
- エセン
男子
[編集]- 長男 アラーフランク 母 ドンデイ・ハトゥン
- 次男 イーラーン・シャー 母 同上
- 三男 チン・プーラード 母 ウルク・ハトゥン
女子
[編集]- 長女 オラ・クトルグ 母 アーイシャ・ハトゥン
- 次女 イル・クトルグ 母 同上
- 三女 アラ・クトルグ 母 同上
- 四女 不祥[8]
脚注
[編集]- ^ アバカの大ハトゥン(正妃)であったドルジ・ハトゥンの死後にその地位を継いだ人物で、チンギス・ハンの第三皇后イェスルン、第五皇后イェスイ姉妹らの姪にあたる。
- ^ ジャライル部族出身のイルゲイ・ノヤンの一子トゥグの娘。
- ^ 同じくジャライル部族出身のイルゲイ・ノヤンの子でゲイハトゥの筆頭部将アク・ブカの娘。
- ^ コンギラト部族出身のクトルグ・テムルの娘。
- ^ ケルマーン・カラヒタイ朝の第3代当主クトゥブッディーン・ムハンマドの娘。本名はサフヴァトゥッディーン صفوة الدين Safwat al-Din 。ゲイハトゥが即位した後、1292年に故郷のケルマーン州に帰還し、叔母で第4代当主クトルグ・テルケン・ハトゥンを追放した弟のジャラールッディーン・ソユルガトミシュを捕らえて処刑し、勅許を得てケルマーン・カラヒタイ朝の第七代当主となった。
- ^ ケレイト部族出身。フレグの筆頭正妃(大ハトゥン)ドクズ・ハトゥンの兄弟サリジャの娘で、オン・ハンの曾孫にあたる。アルグンから受け継ぐ。
- ^ コンギラト首長家当主デイ・セチェンの遠縁アバタイ・ノヤン(ヒンドゥスターン・カシュミール鎮守府軍中軍千戸長)の息子ウトマンの娘。アバカの正妃ブルガン・ハトゥンと同名異人。彼女の死後その地位を受け継ぐ。アルグンの死後はゲイハトゥが受継ぎ、ゲイハトゥの三男チン・プーラードを産む。
- ^ 『集史』では四女としてドンデイ・ハトゥンにも娘が居たらしい記述があるが、名前は出ていない。『五族譜』のゲイハトゥの系図では上記の三人の娘の他にクトルグ・マリクという娘の名前が載っている。
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