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翻訳元 en:Carl Gustav Rehnskiöld(14:18, 3 June 2023 UTC)
参考元 sv:Carl Gustaf Rehnskiöld(21:14, 8 September 2023 UTC)
カール・グスタフ・レーンシェルド | |
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ダーフィト・フォン・クラフトによる肖像 | |
生誕 |
1651年8月6日 スウェーデン領ポメラニア、シュトラールズント |
死没 |
1722年1月29日(70歳没) スウェーデン、セーデルマンランド地方、マリエフリード郊外のレッゲスタの宿 |
所属組織 |
騎兵 歩兵 |
軍歴 | 1673−1722 |
最終階級 | 陸軍元帥 |
指揮 |
ドイツ近衛歩兵連隊 スコーネ騎兵連隊 近衛竜騎兵連隊 |
戦闘 | |
配偶者 |
エリサベト・フンク(結婚 1697年) |
カール・グスタフ・レーンシェルド(スウェーデン語: Carl Gustaf Rehnskiöld[注釈 1], 1651年8月6日 - 1722年1月29日)は、スウェーデンの軍人で、陸軍元帥(fältmarskalk)および王国評議会(riksrådet)議員。スウェーデン国王カール12世の戦術の師および軍事最高顧問であり、またカール軍(Karoliner)の教育と発展の双方に貢献し、その副司令官を務めた。
生涯
[編集]レーンシェルドはスウェーデン領ポメラニアで生まれ育ち、ルンド大学で哲学者ザムエル・フォン・プーフェンドルフに師事した。1673年にはスウェーデンの軍役に就き、スコーネ戦争ではハルムスタッド、ルンド、ランズクルーナの戦いに参戦し、中佐および副司令官に任命された。戦後は複数の連隊の指揮官に、また大同盟戦争においてはホルシュタイン=ゴットルプ公フレデリク4世の監督者になり、またスコーネ総督を務めた。
大北方戦争においてレーンシェルドはカール12世の右腕としてカール軍の作戦組織に携わり、フムレベク上陸戦、ナルヴァ、ドヴィナ川の戦い、クリシュフの戦いでは戦闘計画の立案に参与した。1706年のフラウシュタットの戦いでは自ら個別の軍を率いて、ヨハン・マティアス・フォン・デア・シューレンブルク陸軍元帥率いるザクセン・ロシア軍に対して決定的勝利を収めた。その軍功により陸軍元帥に任命され、伯爵の称号を与えられた。カール12世のロシア遠征ではホロウチンの戦い、およびヴェプリク包囲戦を指揮したが、重傷を負った。カール12世が銃撃を受けて指揮が不可能になったため、1709年のポルタヴァの戦いでは代わってスウェーデン軍の最高指揮官となったが、そこで決定的敗北を喫した。
ポルタヴァの戦いの後、レーンシェルドはロシアの捕虜となり、カール・ピペル伯爵と共にモスクワで管理局を運営して他のスウェ―デン人捕虜を支援しながら数年を過ごした。1718年捕虜交換により解放され、フレドリクステン包囲戦に参戦したが、その直前にカール12世は撃たれて死去していた。その後スウェーデン西部で指揮官として務めたが、銃弾による古傷がもとで1722年に死去した。
幼少期と学生時代(1651年–1676年)
[編集]レーンシェルドは1651年8月6日、スウェーデン領ポメラニアのシュトラールズントで生まれた。両親はポメラニア政府議員ゲルト・アントニーソン・レーンシェルド(旧姓ケッフェンブリンク、1610-1658)と、ビルイッタ・トシュケスコール(ヨハン・アドレル・サルヴィウス男爵の姪、1655年没)であった[2][3]。ケッフェンブリンク家の祖先はヴェストファーレン出身であり、氏族の本拠地はミュンスターラントの北部のレーネ(Rehne)城にあった。ゲルト・レーンシェルドは当初カンマルコレギウム(財務省所属の政府機関)の書記として務めており、後に国王グスタフ2世アドルフのドイツ遠征の最中は国王公認の管理面での側近ととなった。三十年戦争においてはスウェーデン軍の維持に努力したため、ゲルト・ケッフェンブリンクは1639年にクリスティーナ女王により帰化してスウェーデン貴族となり、先祖の本拠地にちなんでレーンシェルドと名乗るようになった。ゲルトはまた、ポメラニアのグリーベノウ、 ヴィレシュフーセン、ホーヘンヴァルトの領地、およびセーデルマンランド地方のステンセットラ農場を与えられた。1640年、レーンシェルド家は貴族の館(Riddarhuset)に招かれた貴族(無称号)となり、270番目の番号を与えられた[4][5][3][注釈 2]。
カール・グスタフ・レーンシェルドはレーンシェルド夫妻の11人中8番目の子供であった。1658年の父の死後、カール・グスタフの他、2人の兄と2人の姉妹が家に残っていた。政府議員のフィリップ・クリストフ・フォン・デア・ランケンと地方議員のヨアキム・クーン・フォン・オヴスティエンはいずれもゲルト・レーンシェルドの生前の親しい友であり、五人兄弟の養育を引き継いだ。レーンシェルド兄弟は経済的苦境に立たされた。その理由はゲルトの晩年に生じた金銭問題や、ゲルトの三番目の妻アンナ・カタリナ・ガルフェルトとの間に生じた遺産相続争いによるものだった。後見人たちは遺産からビルイッタ・レーンシェルドの家族の宝石類と14,000リクスダーレルを与えた。結果として、兄弟は養育者の自分たちに対する扱いに不平を抱き、スウェーデン政府に対していくつかの書状を送った。カール・グスタフ・レーンシェルドの義兄アンデシュ・アッペルマンが五人兄弟の養育に積極的に参加するようになり、カール・グスタフと兄弟たちが教育を受け続けられるように資金を与えた。。カール・グスタフ・レーンシェルドは家庭にて教育を受け、20歳でルンド大学に入学し、そこで神学、歴史、言語、哲学を学んだ。また歴史家・哲学者のザムエル・フォン・プーフェンドルフの講義を受けた。プーフェンドルフはこの鋭敏な学生に注目し、自ら個人授業を実施した。レーンシェルドはプーフェンドルフに大いに刺激を受け、その著作『ヨーロッパの最も高貴な諸国家の歴史入門』(Einleitung zur Historie der vornehmsten Reichen und Staaten in Europa、1682年にフランクフルトのみで出版)を、プーフェンドルフの個人的なコメント付きの原稿を提供された上で書き直し、それを生涯大切に保管した[6][5]。
レーンシェルドは22歳の時にスウェーデン陸軍に入り、1673年にはネルケ=ヴァームランド連隊のレインホルド・アンレプ大尉の中隊のもとで少尉として任務を得た。翌年には既に王太后近衛騎兵連隊で中尉に任命された。1675年7月にはウップランド連隊に移り、1676年2月12日には権威あるスヴェア近衛連隊の将校となった[7]。
スコーネ戦争(1676年–1679年)
[編集]スコーネ戦争初期において、レーンシェルドは近衛連隊の中隊と海上で任務に就いていた。その後スコーネ戦域の沿岸へ上陸を命じられ、1676年7月31日から8月1日の夜に、トーシェブルーにおいて初めての軍事作戦を実行した。短い戦闘の後、中隊の一部と共にデンマーク軍の防衛拠点を占拠した。この報告を聞き届けた国王カール11世はレーンシェルドを近衛連隊の隊長に任命し、1676年8月17日にはレーンシェルドと共にハルムスタッドの戦いに参戦した[7][8]。
レーンシェルドは以前所属していた王太后近衛騎兵連隊に、今度は騎兵隊長(ryttmästare)として戻り、ルンドの戦いに参戦した。自らの戦隊の指揮官リンドヒエルムが戦闘中に負傷した際、レーンシェルドが代わって戦隊を指揮して敵に立ち向かった。カール11世はレーンシェルドの勇敢さに深く感銘を受け、戦場でレーンシェルドを少佐に昇進させ、エリク・ダールベリの助言と監督のもとでレーンシェルドをスウェーデン軍参謀本部の最高総務責任者に任命した[注釈 3] 。スウェーデン軍が1677年5月にレンネベルガから撤退する時、レーンシェルドは前衛と後衛を交互に指揮し、絶えず敵と小競り合いを繰り広げた。その努力をダールベリは賞賛し、カール11世の前でレーンシェルドを「陸軍で特に有望な青年将校の一人」と評した。 ランズクルーナの戦いでは、レーンシェルド率いる2個中隊はデンマーク精鋭兵に包囲され、また近衛連隊の死傷者はこの戦いに参加したスウェーデン軍の連隊の中で最も多かった。1677年11月5日、レーンシェルドは26歳で中佐に昇進した。王太后近衛騎兵連隊の指揮官であるルトゲル・フォン・アッシェベリ大将が別の場所で指揮を執っていたので、レーンシェルドはその連隊の実際の指揮を行った。レーンシェルドは、カール11世の最高軍事顧問にして指導者であったフォン・アッシェベリと親しくなり、戦術の師と仰ぐようになった[7][10][11]。
スコーネ戦争の最後の2年間には、レーンシェルドはブーヒュースレーンのノルウェー戦線に従軍し、ブーヒュース要塞の解放戦に参加したが、要塞のノルウェー軍からの銃撃により危うく命を落としかけた。デンマーク軍がウッデヴァッラのルドゥート(砦)を解放しようと試みたが、レーンシェルドの活躍により退けられた[7][10][11]。
大北方戦争以前(1679年–1700年)
[編集]1679年、デンマークとの間に和平が締結され、カール軍の兵は復員した。レーンシェルドはここまで順調に昇進してきたが、しばらく停滞することになった。大佐の階級を得て自身の連隊を組織するのはしばらく先のことであった。平時の間、レーンシェルドは中佐および参謀将校の地位にあり、兵站について多くのことを学んだ。これは後年役に立つことになる。レーンシェルドは王の忠臣であり続け、カール11世が1682年にダールベリへ送った手紙に言及されるように「有望な若者」であった。1689年、レーンシェルドは大佐に任命され、ドイツ近衛歩兵連隊(ランズクルーナ、ハルムスタッド、カールスクルーナ、マルメ、ヘルシンボリから徴募された兵の駐屯連隊)の指揮官となった。この地位に加えてランズクルーナ城の指揮官も兼ねた[12]。
1690年から1691年にかけて、ネーデルラント連邦共和国がフランスとの戦争(大同盟戦争)を戦う義勇軍の派遣を求めてスウェーデンに交渉を行った。スウェーデン国王カール11世は6,000人を派遣し、レーンシェルドは国王の是認を受けて1691年夏にネーデルラントへと発った。そこで3か月間、駐在武官およびホルシュタイン゠ゴットルプ公子フレデリク(後の公爵フレデリク4世)の監督者を務めた。レーンシェルドはイングランド国王ウィリアム3世とアウクスブルク同盟の統合作戦について、および同盟軍内の規律が欠如していることについて、カール11世に報告を行っている[11]。レーンシェルドは若いスウェーデン軍の将校アクセル・ユレンクロクとカール・マグヌス・ポッセの間の懲罰裁判に個人的に介入しなければならなかった。彼らはフランス陸軍に志願し、フランドルの同盟軍キャンプに逃げ込もうとした。そこで彼らは逮捕されたが、抗議したため解放された。カール11世はこの件について非常に不満であると感じていることをその若い将校たちに伝えるよう、レーンシェルドに命じた。彼らの規律に欠ける行動により、外国の兵からの強い非難を受け、国王によれば、彼らは一般的な兵士としてのマナーに従って行動するべきだった[13][14]。
1693年にスウェーデンに帰国したレーンシェルドはスコーネ騎兵連隊の大佐の地位を得て、1696年には騎兵少将に任じられた。1693年4月にフォン・アッシェベリが亡くなった後、レーンシェルドは古い割当制度を刷新するという彼の仕事を完了させ、カール11世の軍事最高顧問となり、戦術と教育の問題に関して相談を受けるようになった。ヘルレヴァド修道院とユングビューヘッドにおいてレーンシェルドは自分の連隊への大規模な訓練を組織し、連隊が十分に知識を身に着け、有効に戦えるように努めた。レーンシェルドの指導の下、スコーネ騎兵連隊はスウェーデン騎兵の模範となった。1697年にカール11世が死去し、息子のカール12世が跡を継いだ。カール12世はレーンシェルドを男爵に叙し、スコーネの総督に任命し、騎兵中将に昇進させた[15][10][16][11]。
レーンシェルドはグスタフ2世アドルフ、ヨハン・バネール、カール10世グスタフの攻撃戦術を基礎とした「国立学校」に基づき、カール軍の戦術の発展に貢献した。カール11世はルトゲル・フォン・アッシェベリとエリク・ダールベリにより設計された国立学校の強い支持者であった。彼らの弟子たち、レーンシェルドと主計総監カール・マグヌス・ストゥアートは、この戦術をカール12世に教育した。1701年にストゥアートがクールラント総督に任命されると、レーンシェルドは国王の最高軍事顧問および指導者となった。レーンシェルドの提案により、歩兵は600人の大隊で、その3分の1がパイク兵、3分の2がマスケット兵となるよう編成された。この歩兵は近距離で一斉射撃を行った後に、パイクを構えて、もしくは剣を抜いて速やかに前進する。また騎兵は125騎からなる中隊に分かれ、密集した楔形陣形を組み、全速力で突撃して鋭い武器で攻撃するという戦術であった。この戦術は大陸側で主流の様式、すなわち砲火の中の反転行進(カウンターマーチ)や、カラコール戦術とは全く反対であった。スウェーデン軍の部隊は同じ地域の出身者から成り、したがって兵士や将校の間に強い結びつきが生まれた。軍の厳格な軍規と高い士気は、キリスト教への信仰、国王および軍旗への忠誠により培われた[17]。
総督として、レーンシェルドは王領地の耕作、森林計画を管理、想定される不作による飢饉対策を通し、スコーネにおける王室の利益の保護に努めた。これに加えて、州の軍の割り当てを完了し、来たるべきデンマークとの戦争の防衛計画を立案した。この時、デンマークと、スウェーデンの同盟国である南のホルシュタイン=ゴットルプ公国との関係は緊張していた。レーンシェルドはスウェーデン帝国の国境の州の防御を最大限に強化し、各州をそれぞれ固有の割り当て連隊によって防衛することを提案した。東方の州はフィンランドからの割当連隊と、徴募兵の駐屯連隊により守られた100以上の常設の砦により守りを固められた。王国の防衛のためには、スウェーデン海軍がバルト海上における覇権を保ち、軍の輸送と補給線を維持することが不可欠であった。陸軍は竜騎兵連隊が不足していたので、レーンシェルドは徴兵により自らの連隊を創設する許可を求め、1700年には近衛竜騎兵連隊を設立した。ヒューゴ・ヨハン・ハミルトン中佐がその副司令官に任命された。レーンシェルドはその新たな連隊を、スウェーデン本土出身者のみから成る、国王の側で戦う精鋭部隊にするつもりであった。スコーネでは、レーンシェルドはアレルプとトゥールプに農場を所有しており、スコーネで最も多い112組の牛の所有者であった[18][19]。1705年、総督の地位をマグヌス・ステンボックに譲った[20]。
1697年1月17日、レーンシェルドはエリサベト・フンク(ベリスコレギウムの査定官であるヨハン・フンクの娘)と結婚した。カール・マグヌス・ストゥアートはエリザベトの姉マルガレタと結婚したので、レーンシェルドの義兄弟となった。1699年にはレーンシェルド夫妻の間に娘が生まれたが、1歳を迎える前に亡くなった。レーンシェルドは大北方戦争に参戦するためスウェーデンを離れ、1707年春にアルトランシュテット城で妻と再会した[21][22]。
大北方戦争(1700年–1709年)
[編集]デンマークおよびバルト遠征
[編集]1700年2月12日、大北方戦争が始まった。ポーランド国王およびザクセン選帝侯アウグスト2世はザクセン軍を率いてドゥナ川(ドヴィナ川、ダウガヴァ川)を渡り、スウェーデン領リヴォニアの都市リガを包囲した(リガ包囲戦)。リガは総督エリク・ダールベリにより防衛されていた。これと同時に、デンマーク国王フレデリク4世はデンマーク軍を率いてホルシュタイン=ゴットルプ公国に侵攻し、3月にはテンニングを包囲した(テンニング包囲戦)[23][24]。
スウェーデン帝国中から割当連隊が動員され、南部に行進するように命じられた。常備軍の兵力は77,000人であり、その内10,000人がノルウェーとの国境に送られ、16,000人がデンマークと戦うためスコーネに集結した[25]。レーンシェルドはスコーネで後に自ら指揮することになる軍の配備を担当し、軍の作戦指揮においては国王直属の最高司令官に任命された。スウェーデン外務省はベングト・ガブリエルソン・オクセンシェルナのもと、カール12世にリヴォニア解放を提案するが、カール12世はまずデンマークの脅威を回避することを選び、レーンシェルドは国王の決定をオクセンシェルナに伝えた[26][24]。
1700年7月中旬、スウェーデン軍はシェラン島に上陸することを決定した。レーンシェルド指揮のもとでコペンハーゲン南のキューゲ湾に主力軍を上陸させ、一方で小部隊をヘルシンゲル南のフムレベクに上陸させて陽動する予定だった。しかしキューゲ湾への上陸は中止された。その代わり、レーンシェルドとカール・マグヌス・ストゥアートはフムレベクへの上陸を計画し、スウェーデン海軍の支援のもと実行された。上陸は7月25日に行われた。レーンシェルドはスウェーデン上陸軍の左翼の指揮を執り、カール12世とストゥアートが右翼を率いた。デンマーク防衛軍は速やかに撃退され、スウェーデン軍はシェラン島に橋頭堡を築いた。これによりフレデリク4世は戦争から手を引かざるを得なくなり、1700年8月8日にはトラヴェンタール条約が結ばれた[27][28]。
デンマークが戦争から離脱した後、スウェーデン軍はスコーネに再び集結し、8月の終わりにはバルト方面の前線へ海路で向かった。この直前、カール12世はツァーリ・ピョートル1世率いるロシア軍がスウェーデンの戦略的に重要な前哨基地であるエストニアのナルヴァを包囲しているとの報せを受けた。スウェーデン軍は10月の始め、カールスハムからペルナウ(パルヌ)に出航し、スウェーデン軍上陸の報せを受けたアウグスト2世はリガの包囲を放棄した。一方の危機が当分の間去ったので、カール12世とレーンシェルドは10月16日にペルナウを発ち、10月25日にはレヴァル(タリン)に到着した。レヴァル東のヴィーゼンベルク(ラクヴェレ)で、カール12世は運用可能なスウェーデンの部隊総勢11,000人を全て集合させた。11月13日、スウェーデン主力軍は散開し、ナルヴァへ向けて進軍した。ロシアのナルヴァ包囲軍はその数80,000人とも噂され、一方スウェーデン軍は補給物資や増援が不足していたため、多くの将校はこの冒険的企てはリスクが高すぎると考えていた。ロシア軍の偵察部隊との小競り合いはあったが、11月20日スウェーデン軍はナルヴァの近郊に到着した。偵察を通してスウェーデン軍は、兵力30,000人のロシア軍が都市の北から南まで半円状に伸びる防衛線を構築していることを知った[29][30]。
軍需品担当者のゲルト・エーレンシャンツ中将と砲兵指揮官のヨハン・シェブラードと共に、レーンシェルドは書き留められなかった単純な戦闘計画の草案を立てた。スウェーデン軍は歩兵と騎兵からなる2つの縦隊で防衛線の中央部に対して攻撃する。それから各縦隊は防衛線に沿って南と北に移動し、ロシア軍を巻き上げるように追い立てつつ、ナルヴァ川に向かって2つの孤立地帯に閉じ込める。スウェーデン砲兵がその前進を支援するという計画だった。レーンシェルド自身は左の縦隊を率いて、一方でオットー・ヴェリンク大将が右の縦隊を指揮した。レーンシェルドの縦隊は2つの集団に分かれ、片方をゲオルグ・ヨハン・マイデル少将が、もう片方をマグヌス・ステンボック大佐が率いた[31][32][33][34][35]。
11月20日の午後、スウェーデン軍の2つの縦隊がロシア軍の防衛線へ向けて前進した(ナルヴァの戦い)。スウェーデン軍はロシア軍の目に向かって吹き付ける激しい吹雪に紛れて防衛線を破り、ロシア軍は大混乱に陥り、多くの兵が殺された。潰走したロシア軍は降伏を選択し、交渉の末ロシアへの撤退が認められた。ロシア軍はこの戦闘で9,000人の兵を失い、指揮官全員が捕虜となった。一方スウェーデン軍の死傷者は1,900人程度と見積もられている。ピョートル1世自身は指揮をフランスのクロイ家出身の将軍シャルル・ウジェーヌ・ド・クロイ公爵に委ね、戦場には不在であった。クロイは捕虜となった[36][37][38]。スウェーデン軍の勝利は多くのヨーロッパ諸国に大きな反響を呼び、多くの人々が国王とその軍を祝福した[39]。後にマグヌス・ステンボックはレーンシェルドの戦いにおける活躍をこのように賞賛した。
「 | これはひとえに神のなせる業であり、もし人の手によるものがあったとしたら、それは国王陛下が確固たる不動の決断を成し遂げられたこと、およびレーンシェルド中将が他の人々の意図に反して熟達した作成計画を公正に行ったことである。私は彼を大将であると心から認めることが出来る。神のもとで彼に命を与えれば、彼は偉大な指揮官となり、名誉ある誠実な友として全軍から慕われるだろう。私には彼を尊敬する理由がたくさんある。彼の勧めによって、私はその日、少将(自分をそう呼べることは何と喜ばしいことか)として、最も困難な局面で指揮を執るようになったのだから。 | 」 |
—マグヌス・ステンボック(ベングト・ガブリエルソン・オクセンシェルナへ宛てた手紙[40]より) |
ポーランド遠征
[編集]スウェーデン主力軍はドルパット(タルトゥ)の街の外および荒れたライウセ城で冬を越した。春にはスウェーデン本土からの補充により兵力は24,000人に上った。6月には、スウェーデン軍はアウグスト2世率いるザクセン・ロシア軍(推定38,000人)を攻撃するため、散開して南方のリガへと進軍した。7月7日、スウェーデンの主力軍はリガ郊外に到着し、カール12世とレーンシェルドはリガ近くを流れるドヴィナ川を渡河する計画を立てた。アウグスト2世は川沿いに軍を展開させたが、スウェーデン軍がコクネセかリガのいずれかで川を渡ろうとしているのか確信を持てず、軍を分散させた。レーンシェルドはカール・マグヌス・ストゥアートとエリク・ダールベリと共に立てた戦闘計画では、リガ付近で上陸用舟艇を集め、浮き砲台を築き、歩兵部隊を搭載して対岸に上陸させ、橋頭堡を築くことが決定された。騎兵が川を渡ってザクセン軍を追撃できるように、ダールベリが舟橋を設置した。レーンシェルドは騎兵を指揮し、国王カール12世とベルンハルド・フォン・リーヴェン中将が歩兵を指揮した[41][42]。
7月9日の朝、スウェーデン軍3,000人が対岸に向けて漕ぎ出した(ドヴィナ川の戦い)。スウェーデン軍は小舟数隻に火をつけて押し出し、ザクセン・ロシア連合軍の視界を妨げようとした。しかし川の流れが速く舟橋が破壊され、その修理に時間がかかり過ぎたため、レーンシェルドは麾下の近衛竜騎兵連隊を筏で輸送することで対応せざるを得なかった。カール12世指揮下の歩兵は橋頭堡を築き、ザクセン軍の攻撃を数度にわたり退けた。アウグスト2世とザクセン軍は退却し、その損失は2,000人に上った一方、スウェーデン軍の死傷者は500人であった。渡河作戦は成功したが、スウェーデン軍がザクセン軍に対して決定的勝利を収められなかった点において、戦略的に失敗であった[43][42][44]。
ドヴィナ渡河作戦でアウグスト2世を撃破することに失敗したため、カール12世はポーランド領へ侵攻してアウグスト2世の軍を撃ち破ることを決意した(スウェーデンのポーランド侵攻 (1701年-1706年))。ロシア侵攻にあたり、まず背後を固めようとしたためであった。1702年7月、カール12世率いる主力軍はクラクフの北東の村クリシュフにてアウグスト2世に追いついた。カール12世はアウグスト2世を攻撃しようと逸っていたが、レーンシェルドの助言を受け、7月8日に到着したカール・メルネル中将の師団からの増援を待つことにした。時を同じくしてアウグスト2世は翌日に到着するポーランド騎兵を待った。レーンシェルドはベルンハルド・フォン・リーヴェン中将、ヤコブ・スペンス中将と共に戦闘計画を立てた。アウグスト2世はニダ川沿いの密林と広い沼地を覆うようにザクセン・ポーランド軍24,000人を配置した。砲兵は両翼の間の高台に配置し、ザクセン軍中心は砲兵の背後に配置された。スウェーデン主力軍12,000人は次のような計画を立てた。ザクセン軍前線と並行に動きながら、ザクセン軍右翼に対して側面攻撃を仕掛ける。レーンシェルドが指揮するスウェーデン軍右翼は、ザクセン軍がスウェーデン主力軍を撃破するために軍を再編する時間を与えず、アダム・ハインリヒ・フォン・シュタイナウ陸軍元帥率いるザクセン軍からの正面攻撃を防ぐという計画であった[45]。
7月9日の朝、スウェーデン軍はザクセン軍前線にむけて前進した(クリシュフの戦い)。ポーランド軍騎兵がスウェーデン軍左翼へ攻撃を開始し、主力軍を包囲する構えを見せたため、スウェーデン軍は軍を再編してポーランド騎兵に対応し、撃破しなければならなくなった。レーンシェルドは軍に方陣を組むよう命じ、シュタイナウの正面攻撃を持ちこたえた。シュタイナウの軍は撤退を余儀なくされた。スウェーデン主力軍はザクセン軍の陣営を目指して前進し、ザクセン軍の大砲を掌握し、ザクセン軍中心を取り囲もうと脅かした。アウグスト2世は4,000人の兵を失って撤退せざるを得なくなった。一方スウェーデン軍の損失は1,100人と見られた。この戦いでレーンシェルドは甥のフランス・アントン・レーンシェルド(近衛連隊大尉)を喪い、また左翼を率いていたホルシュタイン=ゴットルプ公フレデリク4世も戦死した[46][47]。
カール12世は撤退するアウグスト2世の軍を追撃できず、撤退と軍の再編を許してしまったため、この勝利もまた決定的なものではなかった。結果、カール12世とスウェーデン主力軍は、ポーランドの国力およびザクセン軍を損耗させるべく、ポーランドにて作戦行動を開始した。これと同時にポーランド国内の様々な反アウグスト2世派閥と接触を試み、アウグスト2世を廃位させようとした。1702年12月、レーンシェルドは任務により、歩兵4連隊と騎兵9連隊(約10,000人)を率いて、主力軍とは独立して活動することになった。その任務はワルシャワで様々な貴族階級との交渉を確保し、付近から資金と食糧を集めてトルンを包囲しているスウェーデン軍の補給を行うことであった(トルン包囲戦)。レーンシェルドはピョートルクフ・トルィブナルスキ近郊に司令部を設立した。軍団の大部分はヴィエルコポルスカの各地に駐屯し、アウグスト2世を支持する貴族派閥を監視した。国王の司令部への報告の中で、レーンシェルドはアルヴィド・アクセル・マーデフェルト少将と指揮を交代した。1703年4月、レーンシェルドは騎兵大将に昇進し、これは交渉を行う上で彼の権威を高めた。交渉相手にはヤクプ・ルドヴィク・ソビェスキ、マグナートのヒエロニム・アウグスティン・ルボミルスキ、枢機卿のミハウ・ステファン・ラジエヨフスキなどがいた。1704年2月にはワルシャワ連盟が結成され、王国内での影響力の大半を喪失していたアウグスト2世をポーランド王から廃することに同意した。レーンシェルドは彼らの活動を保証し、アウグスト2世が東へ進軍するのを妨げる任務を与えられた[48][44]。
ザクセンにおける戦い
[編集]1705年夏、レーンシェルドはヴィエルコポルスカで軍(歩兵5連隊、騎兵3連隊、竜騎兵5連隊、総勢10,000人)の指揮を命じられた。カール12世率いるスウェーデン主力軍の背後を、アウグスト2世と領内で動員中のザクセン主力軍から守ることが任務であった。ヨハン・マティアス・フォン・デア・シューレンブルク陸軍元帥率いるザクセン軍はロシア軍の増援を受けて総兵力は25,000人に増強されていた。レーンシェルドはヴィスワ川に沿ってザクセン国境近くへと進軍し、ポズナンに冬営地を設けた。12月、レーンシェルドはカール12世によって王国評議員および陸軍元帥に任命された。ただし1706年8月にカール12世からの書簡を受け取るまでそのことを知らなかった[49][50][44]。
スウェーデン軍は1706年1月中旬に行動を再開した。偵察や、捕虜や離反者に対する尋問により、ザクセン軍は二方面攻撃を計画していることが明らかとなった。すなわち、シューレンブルクが南西から、アウグスト2世が北西からスウェーデン軍を攻撃する計画であった。レーンシェルドはアウグスト2世が到着する前に、数で上回るシューレンブルクの軍を撃退するため、迅速に行動した。1月31日、レーンシェルドはザクセン国境付近の村フラウシュタット(フスホヴァ)に着いた。シューレンブルクの軍は既に到着しており、強固な位置を占めていた。中央は37門の大砲に支援された16,000人のザクセン・ロシア軍歩兵から成り、両翼を覆うようにザクセン騎兵4,000騎が配置されていた。レーンシェルド側の戦闘員はわずか9,400人(歩兵3,700人、騎兵5,700騎)であった。騎兵の兵力はザクセン軍を上回っていたので、レーンシェルドは危険を冒して翼包囲を仕掛けることを計画した。歩兵部隊と若干の騎兵戦隊からなる中央は薄くなるが、両翼に騎兵を集中させ、右翼をレーンシェルドが直接指揮する。そして中央がザクセン軍の正面攻撃を持ちこたえる間、両翼の騎兵がザクセン軍の両翼を全力を以て撃退し、その中央を背後から攻撃するという計画であった[51][52][53]。
1706年2月3日正午、レーンシェルドは攻撃の合図を下した(フラウシュタットの戦い)。スウェーデン軍両翼が中央に先駆けて前進し、その戦線は曲線を描いた。シューレンブルクはこれを弱点ととらえた。しかし、スウェーデン軍両翼がザクセン軍両翼に突撃し、ザクセン騎兵を撃退した。そして内側に旋回し、ザクセン・ロシア軍中央を包囲した。ザクセン・ロシア軍はたちまち総崩れとなり、シューレンブルクは撤退を余儀なくされた。シューレンブルク自身は包囲から脱出できたが、軍の大半はスウェーデン騎兵により切り伏せられ、残りは取り囲まれて捕縛された。2時間の戦闘の後、シューレンブルクの軍は7,377人の死者を出し、7,300人から7,900人が捕虜となった。捕虜の内2,000人が負傷していた。レーンシェルドの軍の死者は400人、負傷者は1,000人であった。ザクセン軍捕虜のうち大半はその後スウェーデン軍に雇われてバイエルン連隊、フランス大隊、スイス大隊が編成された[54][55][56][57]。
後に、レーンシェルドの名は戦闘の直後に起きたとされる虐殺と結びつけられた。ヨアキム・マティエ・リュト中尉とニルス・ユレンシェルナ中佐の証言によれば、レーンシェルドはロシア軍の捕虜500人を虐殺するように命じたという[59]。
「 | 閣下、レーンシェルド将軍は直ちに竜騎兵、騎兵、歩兵からなる円を作り、その中に残るロシア人、多くておよそ500人を集めました。一片の慈悲もなく、彼らは銃殺・刺殺され、屠殺された羊のように死体が積み重なりました。 | 」 |
—ヨアキム・マティエ・リュト(リュトの日記[59]より) |
レーンシェルドの命令は、Eirik Hornborg、Sverker Ordesson、Peter Englundといったスウェーデンの歴史家の非難の的となった[60][61][62]。August QuennerstedtやGustaf Adlerfeltら他の歴史家は、虐殺はレーンシェルドの命令で行われたのではなく、むしろ戦闘の最終段階における絶望的状況で発生したものだろうと考えた。Henning HamiltonやOskar Sjöströmは、虐殺の存在自体に疑問を呈した。両者は他の歴史家が、この出来事と、スウェーデン軍の騎兵が潰走し多くの犠牲者を出しているザクセン・ロシア軍歩兵を追跡したこととを誤解もしくは混同していると考えた[61][63]。同様に、Jan von Konowはヨアキム・リュトの証言の信憑性に疑問を示している[63]。
フラウシュタットでの勝利はデンマーク、ロシア、ザクセンに壊滅的影響を与え、ヨーロッパ全体に衝撃を走らせた。フランスはこの勝利を祝福し、プロイセンの政策はほどなくして親スウェーデンに傾いた[64]。同年6月、レーンシェルドは伯爵に叙せられた(後の1719年、レーンシェルド伯爵家は貴族の館に招かれ、第48番の番号を与えられた。)[22]。ザクセン主力軍の撃破により、スウェーデン軍はザクセン領内に侵入し、アウグスト2世を戦争から脱落させる好機を得た。8月、カール12世はレーンシェルドの軍と合流した。スウェーデン軍は神聖ローマ帝国領シレジアを通過し、9月には抵抗なくザクセンを占領した。9月14日、アルトランシュテット条約がスウェーデンとザクセンの間で締結された。この条約によりアウグスト2世は全同盟国との盟約を破棄し、ポーランド王位請求権を取り下げ、スタニスワフ・レシチニスキを新たな王として承認しなければならなかった[65][66]。
スウェーデン軍は1年間ザクセンに滞在し、ザクセンの領地から多額の税を徴収して軍の維持費をまかなった。この間、アルトランシュテットにおけるカール12世の司令部は祝典と宴会の中心となり、またヨーロッパの政治的焦点でもあった。西欧の各地から諸侯、外交官、軍人がアルトランシュテットを訪れて、勝者となったカール12世とその軍を目の当たりにした。イングランドの著名な将軍マールバラ公ジョン・チャーチルもそのような訪問者の一人であり、カール12世にスペイン継承戦争(大北方戦争と同時期に起きていた)に干渉しないよう説得した[67]。カール12世は軍を整え、最後の敵であるピョートル1世およびロシアにむけて東に進軍することを決定した[68][66]。
ロシア遠征
[編集]スウェーデン軍は1707年8月にザクセンを出発し、東のロシア領へと進軍した。軍兵は新たに徴募されよく装備も行き届いており、その数40,000人に上った。レーンシェルドは陸軍元帥を務め、最高司令部で国王の最も近くに仕えた。遠征計画についてカール12世が口外しなかったため、レーンシェルドと軍司令部はカール12世の計画を知らなかったが、ピョートル1世はロシアの首都モスクワに軍の大半を集結させていたので、そこに向けた暫定的な行軍に賛成した。カール12世はバルト海沿岸諸州で「クールラントの軍」の指揮官アダム・ルードヴィグ・レーヴェンハウプト大将に、モスクワへ向けて進軍している主力軍との合流を命じた。レーヴェンハウプト率いるクールラントの軍は、物資を調達して主力軍に輸送する任務を与えられていた。これを待つ間、主力軍はロシア国境に向けてゆっくり前進した。1708年1月の末にフロドナに到着したが、そこはピョートル1世の軍9,000人に占領されていた。カール12世とレーンシェルドは800騎の騎兵部隊で攻撃し(フロドナの戦い(1708年))、短いが熾烈な戦いの末にロシア軍は撤退した。その晩にロシア軍はフロドナに潜入し、スウェーデン軍を奇襲した。レーンシェルドはロシア軍の真っ只中に巻き込まれたが、暗闇のため気づかれず、安全地帯に逃れることが出来た。奇襲は退けられ、ロシア軍は退却せざるを得なくなった。1708年7月、ホロウチンでヴァビティ川を渡る際に、スウェーデン軍前衛は対岸で防御態勢を取るロシア軍と遭遇した。このホロウチンの戦いでは、カール12世は歩兵を、レーンシェルドは騎兵を指揮した。ボリス・シェレメーテフ陸軍元帥とアレクサンドル・メーンシコフ公爵率いるロシア軍は8時間の戦闘の末に押し返された。しかしロシア軍の大半は無傷で退却に成功したため、この戦闘は決定的な戦略的勝利にはならなかった[69][70]。
ホロウチンの戦いのあと、カール12世はモギリョフ(マヒリョウ)および東の近傍、ドニエプル川とその支流ソジ川の間で9週間滞在し、遅れているレーヴェンハウプトの到着を待った。レーヴェンハウプトの任務は殊の外複雑であり、主力軍への行軍はピョートル1世自ら率いるロシア軍に妨害されていた。9月29日、結果として発生したレスナーヤの戦いは痛み分けとなり、両軍に著しい損害を出した。前線への補給物資がロシア軍の手に落ちる事態を避けるために、レーヴェンハウプトは荷馬車と大量の物資を焼き、残った軍団と共に行軍を続けた。10月23日、レーヴェンハウプトは主力軍と合流を果たすが、その数はわずか6,500人に減少しており、必要な物資を欠いていた[71][72]。
この遠征の間、レーンシェルドは、1700年からカール12世に野戦事務局長として同行していた王国元帥のカール・ピペル伯爵[注釈 4]と激しく対立していた。ザクセン侵攻以来、レーンシェルドとピペルとの間に緊張関係が存在していた。両者は国王の信頼を得ようとしていた。ピペルは軍の文民最高官吏として国王に無謀な行動を慎むよう説得し、一方でレーンシェルドは軍の副司令官として国王の攻撃計画を支持していた。両者の間の確執により、それぞれの激しやすい気質と能力への自負も相まって、仲介者なくしては互いに議論することさえ不可能になった。その役割は大抵アクセル・ユレンクロク主計総監が担っていた。両者の関係はついにはスウェーデンの司令部に不和と分裂を引き起こし、軍内に失望と不安をもたらした[74]。
レーンシェルドはタタールスクからどのような道を通って進軍すべきか、ユレンクロクと議論した。スウェーデン軍は食糧不足に苦しみ、補給を行える場所まで移動する必要があった。ピョートル1世は焦土作戦を用いたため、モスクワへの行軍は一層困難になった。軍事会議の結果、カール12世、レーンシェルド、ピペル、ユレンクロクは軍を小ロシアの方角、南のシヴェーリアへ向けることに決めた。そこでスウェーデン軍は安定した冬営地を築き、カール12世の同盟者であるザポロージャ・コサックのヘーチマンであるイヴァン・マゼーパからの補給を受けることにした[75][76]。
マゼーパとカール12世の同盟を知ったピョートル1世は、マゼーパの本拠地バトゥールィンを征服し焼き払うべく、メーンシコフ公爵指揮下の軍を送った。1708年11月11日、反マゼーパ派のコサックはイヴァン・スコロパドスキーを新たなヘーチマンに選出した。結果、マゼーパは国からの支持の大半を失い、大軍と豊富な食糧を送るという以前の約束を果たせず、わずか数千のコサックと共にスウェーデン軍に合流した。1708年12月からは大寒波(1709年の大寒波)がヨーロッパ全土を襲い、スウェーデン軍とロシア軍の兵士は寒さに倒れた。スウェーデン軍は12月初めにハーデャチ周辺に陣営を築いた。その近くヴェプリク要塞をロシア軍1,500人が占拠し、スウェーデン軍の進軍を阻んでいたので、カール12世はその攻略を決意した。1709年1月7日、レーンシェルド指揮のもとで攻撃が行われた(ヴェプリク包囲戦)。レーンシェルドの計画は砦の塁壁を砲撃し、その後3つの縦隊を成す3,000人の兵が梯子を用いて異なる方向から塁壁を上り強襲し、ロシア軍の守備兵を切り伏せるというものだった。最初の突撃は、守備隊が様々な手を講じてスウェーデン軍縦隊の侵攻を遅らせ、撃退したことで失敗した。2度目の突撃の最中、レーンシェルドはファルコネット砲からの銃弾を胸に受けたため、指揮をベルント・オットー・スタッケルベリ少将に委ねなければならなくなった。この突撃もまた成果なく終わったが、両軍は休戦に合意した。ロシア軍の守備隊はほぼ全ての弾薬を使い果たしており、指揮官は降伏を選んだ。スウェーデン軍は1,000人の死者および600人の負傷者を出した。レーンシェルドは6週間後にわずかに回復したが、銃弾による負傷は生涯完治しなかった[77][78]。
スウェーデン軍はヴェプリク周辺に2月後半まで留まった。それからポーランドとマゼーパのコサックからの援軍を得るため、南へ進軍してドニエプル川の支流ヴォルスクラ川とプセール川の間の有利な位置を確保した。レーンシェルドは歩兵・騎兵9連隊とともにハーデャチとヴェプリク周辺のエリアに留まり、主力軍を北からの攻撃から守るよう指示を受けた。3月の始め、ヴォルスクラ川南部でレーンシェルドの軍は主力軍と合流し、スウェーデン軍は堅固な都市ポルタヴァに到着した。1709年5月、ロシア軍の注意を引き、平原に釣り出すため、カール12世はポルタヴァの包囲を開始した。この都市は4,200人の守備隊により守られていた。ピョートル1世は正規軍・不正規軍合わせて74,000人のロシア軍を率いてポルタヴァの解放のため進軍した[79]。6月17日の偵察の最中、カール12世は流れ弾に当たって足を負傷し、立つことが出来なくなった。この報せを受けて、ピョートル1世は会戦を決意した。ピョートル1世はヴォルスクラ川を渡り、ポルタヴァ北方に防御陣営を築いた。ロシア軍とスウェーデン軍の間には平原が広がり、そこに回廊を形作るように2つの森が間をおいて存在していた。その回廊を塞ぐようにロシア軍が6つの堡塁を築いて守っていた。ピョートル1世はさらに4つの堡塁を築くよう命じ、合計10の堡塁がT字型のバリケードを成すようにした。これにより前進してくるスウェーデン軍に側面射撃を浴びせる目論見であった。負傷しているにも関わらず、カール12世はピョートル1世に対して戦いを挑む機会を見逃さず、レーンシェルドに攻撃を命じた[80][81]。
ポルタヴァの戦い
[編集]スウェーデン軍16,000人とロシア軍40,000人がポルタヴァで対峙した。レーンシェルドはカール12世に代わって全軍の指揮をとった。レーヴェンハウプトは歩兵を、カール・グスタフ・クレウツ少将は騎兵を指揮した。戦闘計画はレーンシェルドがカール12世と協議のうえで立案し、ユレンクロクは陣形計画を立てた。スウェーデン歩兵8,170人を4つの縦隊に分け、夜が明ける前にロシア軍の堡塁を奇襲し、迂回する。騎兵7,800騎は6つの縦隊に別れて歩兵の後に続く。歩兵は堡塁を迂回した後、ロシア軍陣営の前に広がる平原を進み、ピョートル1世の防衛軍の北西の、ペトロフカの村の近くの浅瀬の位置に陣取る。それと同時に騎兵がロシア騎兵を撃退する。そこから集結したスウェーデン軍は右へ進軍しつつ戦闘態勢を整える。もしこの作戦が成功すれば、ピョートル1世の防衛軍は自らの陣営に囚われ、後方の急峻な川岸と前方のスウェーデン軍に挟まれ、ペトロフカへの退路を断たれる。スウェーデン軍の挑戦を受けねば、飢え死にを待つ他ないという計画であった。歩兵4列はアクセル・スパッレ少将、ベルント・オットー・スタッケルベリ少将、カール・グスタフ・ロース少将、そしてアンデシュ・ライェルクルーナ少将が率いる。カール12世は担架に乗って左翼の東の戦列に同行することになった[82][83][84]。
6月28日の真夜中の直前、レーンシェルドは陣営を発って、暗闇に紛れてロシア軍の堡塁に前進するよう命令を下した。いくつかの戦列で混乱が生じ、レーンシェルドはレーヴェンハウプトと激しく応酬した。
「 | お前たちは何をしているのだ。誰にも見られるべきではないというのに。何もかもが混乱しているのがわからないのか。(中略)そうだ、お前たちは何も心配していない。お前たちは何の助けにもならない。お前たちがそのような者だとは思わなかった。お前たちにはもう少し期待していたが、無駄だったようだ。 | 」 |
—カール・グスタフ・レーンシェルド[85] |
ロシア軍がスウェーデン軍の存在を察知し、警鐘を鳴らしたため、スウェーデン軍の攻撃は奇襲の要素を欠いた。カール12世、レーンシェルド、ユレンクロクが軍事会議を行った結果、レーンシェルドは歩兵縦隊を再編成し、行軍を継続するように命じた。既に日は上っており、ロシア軍騎兵全てが堡塁の背後に集結していることが明らかになった。ロシア軍騎兵がスウェーデン軍歩兵縦隊を強襲しようとしたが、騎兵がこれを防いだ。ロシア軍は退却せざるを得ず、スウェーデン軍騎兵は追撃を行った。平原には敵兵がいなかったので、スウェーデン軍歩兵はロシア軍の堡塁に対して前進し、短い戦闘の末に前面の堡塁を占拠した。他の堡塁に対する攻撃は戦列に大きな損害を出した。特にロースの縦隊の被害は甚大で、近くの森へ退却せざるを得なくなり、後にロシア軍に降伏することになった。その間、他の戦列は残る堡塁を通過し、ロシア軍の野営を目指して開けた平原を前進したが、レーンシェルドは既に歩兵の3分の1を失っていた。一方騎兵は野営を通過してさらに北に向かい、ロシア軍騎兵を追跡していた。ロシア軍騎兵は石の多い湿地に覆われた地形の深い窪みへと追い込まれそうになっていたが、その時、レーンシェルドは騎兵に追撃を中断して歩兵と合流するよう命じた[86][87][88]。
9時、ロシア軍歩兵は野営地から前進し、戦闘態勢に入った。最終決戦では、スウェーデン兵4,000人は1列に集まり、2列を成すロシア兵22,000人に対峙した。レーンシェルドはレーヴェンハウプトにロシア軍の戦線を歩兵で攻撃するよう命じたが、スウェーデン軍騎兵が間に合わなかったため、歩兵は壊滅し、残りは敗走した。カール12世、レーヴェンハウプト、および騎兵の大半は逃走し、ナルヴァ包囲軍と輸送隊と合流してヴォルスクラ川に沿って南に進軍した。レーンシェルド、ピペル、歩兵の生存者はロシア軍に捕らえられた。この戦いで6,900人のスウェーデン兵が死傷し、2,800人が捕虜となった。ロシア軍の損失は死者1,345人と負傷者3,290人であった[89][87][90]。
戦いの数日後、レーヴェンハウプトとカール軍の20,000人の兵および非戦闘員はドニエプル川沿いの村ペレヴォロチュナにおいて、メーンシコフ公爵に降伏した(ペレヴォロチュナの降伏)。カール12世、マゼーパおよび1,000人の兵は川を渡ってオスマン帝国領に入った。そこでカール12世は1715年に帰国するまでの数年を過ごすことになる。スウェーデン主力軍は壊滅し、デンマーク=ノルウェーとザクセン=ポーランドがスウェーデンとの戦争に復帰した。ハノーファー選帝侯領とプロイセンもまたロシア側に与して反スウェーデン同盟に加わり、バルト海沿岸のスウェーデン属領を攻撃した。ポルタヴァの戦いとそれに続く降伏は、スウェーデンの最終的な敗戦の始まりであった[91][92][93][94]。
この戦闘におけるレーンシェルドの指揮官としての失敗は、歴史家の間で議論の的になっている。副司令官レーヴェンハウプトに対する叱責からも見て取れるように、レーンシェルドが精神的に不安定であったと言われている。精神学的に、レーンシェルドの最高指揮官としての任務は、国王の存在と監視のもとでは、ストレスが溜まりかつほぼ不可能であった。von Konowはレーンシェルドがこの戦いで犯した2つの過ちを指摘する。1つ目は、レーンシェルドは戦闘の前夜に築かれたロシア軍の砦に対して偵察を送っておらず、また部下に攻撃計画のことを伝えなかったことで、スウェーデン軍の指揮に多大な混乱を招いたことである。2つ目はスウェーデン軍騎兵が、戦場の北の急な渓谷に追い落とされそうになっていたロシア軍騎兵を追跡するのを中断させたことである。ロシア軍騎兵は寸前であった。歴史家たちはなぜレーンシェルドがこの命令を下したのか、その理由を様々に推測している。戦闘の決定的段階において騎兵との連絡が取れなくなる危険を冒したくなかったのだろうという擁護の意見がある一方、ロシア軍騎兵を戦線離脱させれば全隊の戦局はスウェーデンに有利に運ぶ可能性があったはずだったという強い非難の意見もある[95]。
捕虜(1709年–1718年)
[編集]ポルタヴァの戦い直後、レーンシェルドを含む捕虜となったスウェーデン将校はロシア軍陣営に連れて行かれた。レーンシェルド、ピペル、その他4人のスウェーデン軍の将軍はメーンシコフの陣幕に連れて行かれ、そこでピョートル1世に剣を捧げて降伏した。ピョートル1世はレーンシェルドにカール12世の容態について尋ねた。ロシア軍はカール12世が死んだと考えていたためであった。レーンシェルドはカール12世が生きており壮健であると応えた。この答えに満足したピョートル1世はレーンシェルドに剣を返した。ピョートル1世はスウェーデン将軍との晩餐会を命じ、そこでレーンシェルドら将軍たちにいくつか質問をし、また彼のスウェーデン人の「戦術の師」への乾杯を提案した[96][97]。
1709年秋後半、レーンシェルドとスウェーデン軍はモスクワへ移され、12月22日にピョートル1世は盛大な凱旋式を行った。捕虜は階級ごとに並べられ、レーンシェルドとピペルは最後尾を歩いた。パレードの後、スウェーデン軍はロシア中の都市と囚人キャンプに配置された。レーンシェルドとピペルはモスクワのアヴラム・ロプチンの邸宅に移された。ある夕食の席でレーンシェルドはピペル、レーヴェンハウプトと論争になり、ピペルはレーンシェルドのポルタヴァの戦いにおける指導力を批判し、敗戦の責を咎めた。ピペルが侮辱的発言をしたため、レーンシェルドもまた暴言を返した。レーヴェンハウプトとユレンクロクが彼らを引き離したが、レーンシェルドはレーヴェンハウプトと他の将校がカール12世を批判したことを責め始めた[98][99]。
「 | ここにいるのは陛下(カール12世)の行いを畏れ多くも批判する者どもだ、だが覚えておけ、お前たちは陛下の行いに満足するだろう。 | 」 |
—カール・グスタフ・レーンシェルド[100] |
数日後、レーヴェンハウプトは、まずピペルに、次いでレーンシェルドに対して和解して、敵対関係で他のスウェーデン将校を掻き乱さないように求めた。スウェーデンの将軍と大佐の見守る中で、レーンシェルドとピペルは意見の相違を解消した。二人はモスクワに残ってスウェーデン軍の捕虜に便宜を図るべく協力体制を築いた。ロシア当局の承認のもとモスクワに管理局を設立し、スウェーデン当局との連絡はここを通して行われた。彼らはスウェーデン軍捕虜のために、ストックホルムの国家事務所から送られた基金を通して資金を集めようと努めた。しかし、年を経てこれらの輸送は徐々にまばらになっていった[98][99][101]。
スウェーデン当局が自国の捕虜に対して支援をあまり行わなかったため、1714年にはレーンシェルドとスウェーデン将校はピョートル1世に対して手当を求めざるを得なかった。しかし、ピョートル1世はサンクトペテルブルクの元老院の前で行ったレーンシェルドとピペルの以前の非を咎めて、その懲罰としてスウェーデン将校の暮らしの状況を悪化させた。それは報復を仄めかせてサンクトペテルブルクの元老院を脅迫し、スウェーデンの指揮官ニルス・ストロンベリとロシアの将軍アダム・ヴェイデとの間で捕虜交換協定にサインするように強制したというものだった。しかしそれはレーンシェルドとピペルの両者には何の関係もないことだった。スウェーデン国内におけるロシア人捕虜の扱いについての報告にピョートル1世が立腹したことが、この決定の主な原因だった。ピペルはシュリッセリブルク要塞に投獄され、そこで病に伏し、1716年に死去した[102]。レーンシェルドは管理局を独力で運営しなければならなくなった。レーンシェルドはスウェーデン当局に対し、ロシア中でスウェーデン人捕虜がいかに悲惨な状況にあるのかについて、不平を込めた書簡を送っている。このころ、捕虜の間で敬虔主義が急速に浸透したため、レーンシェルドはモスクワに教会委員会を設立し、そこから捕虜の牧師たちがスウェーデン軍の囚人キャンプに送られた。レーンシェルドは介入のため、4日をかけて自ら聖書のテキストを決めた[103]。
「 | 我が神は私がこの長きにわたる捕虜生活の中で抱いている不安が何かご存じであり、私が陛下の慈悲深い目から、そして最も誠実な妻から遠く離れてしまっていることに気づいておられました。しかし私の唯一の関心と仕事は、他の不幸で哀れな囚人たちのために働くことです。私は彼らを乏しい財産で支えてきましたが、それも今ではもはやほとんど底をつき、そして時々私は手に負えないほどの不運が我が身に降りかかってくるのを振り払わなければなりませんでした。というのも抵抗は我が身に返ってくるものですから。最も慈悲深き陛下、私は貴方の慈悲深い手が私に差し伸べられるように祈っています。さもなくば、私はこの悲惨さに身を亡ぼすでしょう。しかし陛下のお心で、私が常にかたじけなくも享受してきたお心で、私をこの危地から救って下さい。 | 」 |
—カール・グスタフ・レーンシェルド(カール12世がスウェーデン領ポメラニアに到着したことについて、1715年1月7日付けのレーンシェルドがカール12世へ出した手紙[104]より) |
スウェーデン側から何の努力も成されないまま長い時が過ぎて、1718年春にレーンシェルドを捕虜交換により解放するという話が持ち上がった。ロシアがオーランド諸島のヴォールドの村レーヴェにおいて、スウェーデンと和平交渉を始めた時であった。レーンシェルドはホルシュタイン=ゴットルプからの政治家ゲオルク・ハインリヒ・フォン・ゲルツが主導するスウェーデンの継承問題に巻き込まれるようになった。ゲルツは1716年からスウェーデンの「大宰相」として仕えるようになり、和平交渉の責任を負っていた。カール12世には後継者がおらず、よってゲルツは自らが大きな影響力を及ぼしているホルシュタイン派における地位を強化するため、レーンシェルドの支持を求めた。ゲルツと彼の党派はスウェーデンの王位継承者としてホルシュタイン=ゴットルプ公カール・フリードリヒを望んでいた。カール12世の妹ウルリカ・エレオノーラの配偶者ヘッセン=カッセル方伯フリードリヒ1世(後のスウェーデン国王フレドリク1世)を支持するヘッセン派からの圧力に対抗するためだった。スウェーデン側からの圧力により、9月17日にピョートル1世はレーンシェルドをレーヴェに送るよう命じ、そこでイヴァン・トルベツコイ少将およびアヴトノム・ゴロヴィン伯爵との捕虜交換が行われることとなった。レーンシェルドは10月14日にレーヴェに到着した。スウェーデンとロシアの関係を強化するためにカール・フリードリヒとピョートル1世の娘とを結婚させる話があった。そこでゲルツの秘書アンドレアス・スタンブケにカール・フリードリヒに婚姻のことを納得させることを任せた[注釈 5]。10月30日、捕虜交換は終了し、レーンシェルドはついに解放された[107]。
晩年(1718年–1722年)
[編集]レーンシェルドは解放されると直ちにストックホルムに向かい、ゲルツと面会した。その後にカール12世が司令部を置くノルウェーのティステダレンへと向かった。そこでカール12世は第二次ノルウェー遠征を開始し、フレドリクステン要塞の包囲を行っているところであった(フレドリクステン包囲戦)。1718年11月の末、レーンシェルドが到着し、カール12世と再会した。これはレーンシェルドの「生涯最後の喜び」と言われている[108]。11月28日に二人は長い対話を行い、ノルウェーの現在の作戦の状況とロシアとの和平交渉について話し合い、レーンシェルドは新しい情報を得た。2日後の11月30日の晩にカール12世は弾丸に当たり、まもなく亡くなった。国王の突然の死去により、大元帥に指名されていたフリードリヒ1世は軍事会議を開き、結果スウェーデン軍は包囲を放棄して帰国することを決定した。カール12世の死を伝える報告はレーンシェルドとカール・メルネル陸軍元帥の署名がなされ、ストックホルムの枢密院へと送られた。さらに12月2日、フリードリヒ1世はヘッセン派がカール12世の死に乗じて継承問題に優位に立とうとしたという理由で、ゲルツの逮捕を命じた。ゲルツはストックホルムに送還され、スヴェア控訴裁判所で死刑を宣告され、1719年2月19日に斬首刑に処された。ゲルツの死亡に伴い、ロシアとの交渉は打ち切られ、戦争はもう3年間続くことになった[109][94]。
1719年1月14日、ストレムスタードにおいて別の軍事会議が開かれた。戦争委員会から100,000リクスダーレルもの大金が届き、フリードリヒ1世はこの資金を軍の司令部に分配したいと考えたからである。これには継承問題において潜在的な票を勝ち取る目的もあった。レーンシェルド自身は12,000リクスダーレルを受け取り、彼はそれをロシアの捕虜時代への承認と認識した。その後、レーンシェルドはストックホルムの枢密院に入った。1月27日、カール12世の遺体が兵に運ばれてストックホルムに到着に到着した。兵たちを迎えたのは、枢密院のメンバーであるレーンシェルド、アルヴィド・ホルン、グスタフ・クロンヒエルムであった。2月26日、カール12世はリッダルホルメン教会に埋葬された。カールベリ宮殿からリッダルホルメンまでの長い行列の間、レーンシェルドが王笏を運んだ[110][111]。
レーンシェルドはスウェーデンの致命的弱点となった西部の指揮官に任じられ、デンマークからの攻撃を防ぐ任務に就いた。レーンシェルドはウッデヴァッラからイェーテボリまで視察に赴き、ブーヒュースレーンとスコーネの都市や要塞の防衛を強化した。7月10日、デンマーク軍がストレムスタードに上陸し、デンマーク=ノルウェー主力軍30,000人がスヴィネスンドで国境を越え、抵抗を受けずに南に進軍した。直後、ストレムスタードはデンマーク国王フレデリク4世に占拠され、そこに司令部が置かれた。ブーヒュースレーンにおいて、レーンシェルドの裁量で動かせる兵力は5,000人であり、彼らに命じて補給物資倉庫がデンマーク軍の手に落ちる前に焼き払わせた。レーンシェルドは軍団を集めてウッデヴァッラを要塞化した。その意図はヴェネシュボリとダールスランドへの要衝を防衛するためだった。その後、レーンシェルドは指揮官ヘンリク・ダンクヴァートがカールステン要塞において降伏したことを知り、イェーテボリの北への上陸に成功したデンマーク軍に切り離される恐れに反して、ウッデヴァッラに留まることを決意した。しかし、8月の終わりごろにストレムスタードのデンマーク=ノルウェー軍はノルウェーに引き返した。レーンシェルドはスコーネに進み、侵攻の脅威から防衛した。1719年10月28日、デンマークとの間に休戦が合意され、1720年7月3日にはフレデリクスボー城で和平条約が締結された(フレデリクスボー条約)[112][113][114]。
昇進経歴 |
1721年8月30日、ロシアからの圧力により、スウェーデンとロシアの間でニスタット条約が締結され、大北方戦争は終結した。1719年からロシア軍はスウェーデン東海岸を荒らしまわっていた(ロシアの略奪)。和平の後、スウェーデンはヨーロッパの覇権国から脱落した。1719年にウルリカ・エレオノーラがスウェーデンの女王の座に就いたとき、夫のフリードリヒ1世を共同統治者に臨んだが、議会により否決された。1720年にウルリカ・エレオノーラは退位を決意し、1720年3月24日、フリードリヒ1世がスウェーデン国王に選出され、5月3日にストックホルムにおいてフレドリク1世として戴冠した。レーンシェルドは枢密院の最長老として、マティアス・ステーキウス大司教がフレデリク1世に戴冠するのを補助した。レーンシェルドは1719年から1720年にかけて、Council assemblies含め国会会議に参加したが、これ以上の公の場への登場はなかった[115][116]。
1722年1月、フレデリク1世はレーンシェルドをクングセールに召喚した。レーンシェルドはその道中で体調を崩し、マリエフリード郊外のレッゲスタの宿に運ばれた。高熱と吐血の症状がみられ、容態は悪化する一方だった。その原因はかつてヴェプリクで受けた榴弾による負傷であった。同年1月29日、レーンシェルドは死去した。これに伴い、貴族として、および伯爵家としてのレーンシェルド家は断絶した。3月15日、ストックホルムのストゥールシュルカンにて葬儀が行われた[117]。イェラン・ノルドベリ牧師が司式者を務めた。牧師は1703年から1715年にレーンシェルドのもとで従軍していた人物であった[115][116][118]。レーンシェルドの未亡人エリサベトは1724年、神聖ローマ帝国の伯爵エラスムス・エルンスト・フレデリク・フォン・キュッソウと再婚し、1726年11月23日に死去した[22]。
関連項目
[編集]脚注
[編集]- ^ レーンシェルドの綴りは文献により異なる。Rehnsköld,、Rehnskiöld、 Rehnschöld、 Rehnschiöld、 および Rehnschiöldtという表記が見られる。[1]
- ^ スウェーデンの貴族は「招かれた」(introducerad)貴族と「招かれていない」(ointroducerad)貴族に別れる。招かれた貴族とは、貴族の館に招かれたものを指し、伯爵(greve)、男爵(friherre)、無称号の3つのランクに分かれている。招かれた貴族にはランク別に番号が与えられる。この番号は招かれた順番とおよそ対応しており、小さい番号ほど古い貴族を示している。伯爵・男爵の場合、番号が大きいほど新しい、あるいは最近昇格した家であることを示す。スウェーデンの貴族制度も参照。
- ^ 1641年、ダールベリは当時ポメラニアとメクレンブルクで上級会計士を務めていたゲルト・レーンシェルドの書記として雇われた。ゲルトは当初ダールベリを厳しく扱ったが、ダールベリはほどなくしてゲルトの信頼を得て、いくつかの重要な任務を与えられた[9]。
- ^ 同時に持ち合わせていた称号から、カール・ピペルは首相および外務省長官と見なすことが出来る[73]。
- ^ カール・フリードリヒはピョートル1世の長女アンナ・ペトロヴナと結婚した[105]。二人の息子カール・ペーター・ウルリヒはカール・フリードリヒの後継者として1739年ホルシュタイン=ゴットルプ公位を継ぎ、後にピョートル3世としてロシア皇帝に即位した[106]。
出典
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参考文献
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