利用者:Felix Adamantis/sandbox2
バーソロミュー・ロバーツ(Bartholomew Roberts, 1682年 - 1722年2月10日)は、ウェールズ生まれの海賊。
その生涯において合計400隻・5千万ポンドに及ぶ船舶を掠奪したと言われ、18世紀前半までの「海賊の黄金時代」最後にして最大の海賊とされる。ブラック・バート(Black Bart)の異名で知られる。
ロバーツは海賊史上最も成功した海賊とも評されており彼の死は海賊の黄金時代の終焉を意味した[1]。
略歴
[編集]バーソロミューは1682年、南ウェールズのペンブルックシャーに誕生したとされる[2]。少年のころに水夫となったようだが前半生はよく分かっていない。
1719年6月、二等航海士として乗り組んでいたイギリス奴隷船「プリンス」号が西アフリカ沖で同じウェールズ出身の海賊ハウエル・デイヴィス(1719年に死去)に捕獲されたとき、バーソロミューは手下に加わることを申し出た。彼が海賊を志した理由は、奴隷船船長との確執のためとも好奇心からとも言われている。
バーソロミューがデイヴィスの手下となって2か月ほど後、当時ポルトガル領であったプリンシペ(Principe、現サントメ・プリンシペ)攻撃の際、計略敗れたデイヴィスが駐留軍との戦闘で戦死した。残った乗組員は仲間となって間も無く有能さを見せていたロバーツを新たな船長として擁立、早速プリンシペを略奪した。
当時の殖民都市は要塞などで武装されており手練れの海賊でも容易には略奪できなかったが、バーソロミューはそれを最初の活動として成功させ、自身の伝説の幕を開けた。
バーソロミューの活動については細かなことはあまり伝わっていない。ブラジル沖やギニア沿岸で主にポルトガル船を襲いカリブ海にも姿を現した形跡があるが、その内容は「大砲42門搭載のフランス軍艦1隻を含む16隻を4日間で捕獲した」とか「1隻のスループ船(小型快速帆船)で20隻以上を捕獲した」など、伝説と呼ばざるを得ない話ばかりである。
一説には、バーソロミューは「The House of Lords(貴族院の意味)」と称する大小20隻に及ぶ大海賊船団を率いており、大西洋横断航路を一時的に麻痺させたとも言われている。
ともかくも、各国の航路警備が厳しくなり海賊も次々と姿を消す中で3年もの間、広く大西洋からカリブ海にかけて暴れ回り、海運各国を大いに悩ませたのは事実である。
しかし、ひとり気を吐いていたバーソロミューにもついに最期のときが訪れる。
1722年2月10日、チャロナー・オウグル艦長の大砲50門搭載のイギリス軍艦「HMSスワロー」はギニア湾のロペス岬(現ガボン)沖でバーソロミューの船「ロイヤル・フォーチュン」(Royal Fortune)を発見した。オウグルはそれがバーソロミューの船だと知ると一計を案じフランス国旗を掲げて商船を装いつつ接近したが、バーソロミューの手下で元イギリス海軍兵の男が相手をイギリス軍艦であると見抜いてしまう。しかし海賊たちは前夜から強奪した酒に酔っている者が大部分で、逃走を図るももたつく間にスワローに射程内への接近を許してしまった。
やむなく砲撃戦を開始したバーソロミューだが、何度目かの砲撃の応酬が止んだとき海賊たちが目にしたものは砲台のそばに血まみれで横たわる彼の姿であった。スワローが発射したブドウ弾(乗員殺傷用の拡散式砲弾)が喉を貫通しており、ほぼ即死であったという[3]。激しい戦いが続く中、海賊たちは彼の遺言通り、バーソロミューの遺体に重しを付けて海へと投げ込んだ。海賊たちはその後も抵抗を続けたが、カリスマ的船長亡き後では捕縛されるのも時間の問題であった。
その後
[編集]1か月後の3月28日、イギリス史上最も大規模な海賊裁判が西アフリカのケープ・コースト城(現ガーナ。奴隷貿易で悪名高い建物で現在は世界遺産の1つ)で始まった。
それぞれに対する判決及び刑罰は、黒人乗組員70人が奴隷として再び売られ白人乗組員のうち37人はプランテーションにて平均7年の強制労働(現代の感覚では刑期が短いように思えるが、当時の栄養失調や衛生環境の悪さから死刑に等しい)、さらに54人が絞首刑に処されるというものだった。
良い口添人が居た者、何らかの身代金を支払った者、海賊経歴が非常に浅い者など、ほんの一握りの海賊たちは法廷の慈悲を示すために無罪放免された。
一方のオウグル艦長は大海賊ロバーツを殺害した功績によりサーの称号を授かった。
人物
[編集]バーソロミューはハンサムでおしゃれな男だったと言われている。彼が好んだ服装は真紅の宮廷用半ズボンに飾り帯を着け、オーバーコートを羽織り、紅の羽を飾りつけた三角帽子をかぶり、肩には緋色の帯で拳銃を吊るし、さらに海賊生活初期にポルトガル商人から奪った「ダイアモンドをちりばめた十字架」を金チェーンで首から下げるという姿だった。こうしたスタイルは指揮官として非常に目立ち、手下をまとめるのにも役立ったと思われる。
ロバーツはまた、手下に厳格な「掟(おきて)」を課したことでも知られている。この時代、荒くれ者の海賊にも船長ごとに取り決めた「掟」があり現代の我々がイメージするほど無軌道な者もまれだったが、中でもロバーツの掟は厳しいものであった。
以下はそのおおまかな内容である。
- 乗組員全てに平等な投票権・投票発起権を与える。
- 仲間内で金品を窃盗・横領した者は孤島置き去りの刑。
- カード、サイコロを使った賭博の禁止[4]。
- 午後8時消灯し、以降の飲酒は甲板にて月明かりのもとでのみ許可[4]。
- ピストルやカットラスの整備の徹底。
- 女性や子どもを乱暴目的で船に乗せた者は死刑。
- 戦いの中で船を見捨て降伏した者は、死刑もしくは孤島置き去り。
- 船上での口論禁止。岸に着いた際に決闘により決着をつける。
- 収益は役割別に平等に配分。戦闘において負傷した者には手当てを別に支給。
- 安息日には音楽隊による賛美歌を奨励。
バーソロミューは、安息日には海賊行為を行わず祈りを奨励する敬虔さや「航海中の飲酒は判断力低下を招くので禁止」など慎重な一面も持っていた。事実、ロバーツの統率力の高さはその海賊団の結束に基づく尋常ならざる強さによって証明されていた。
なお、バーソロミューの異名「ブラック・バート」(Black Bart)とは直訳すれば「黒い準男爵」(Bart=Baronetの短縮形)だが、彼は実際に正式の爵位を得ていたわけではない。彼には「Black Barty」(Barty=Bartholomewの短縮形と考えられる)というあだ名もあり、よく日焼けしていて肌の色が浅黒かったことを「Black」と解釈すれば、「色の浅黒い(Black)バーソロミュー(Barty)」が変化するうちに「海賊という悪党稼業にありながら(Black)、高貴さを感じさせる男(Bart)」として定着したものであろう。
脚注
[編集]参考文献
[編集]- チャールズ・ジョンソン『イギリス海賊史(上)』朝比奈一郎訳、リブロポート、1983年。ISBN 4-8457-0102-2
- 増田義郎『図説 海賊』河出書房新社、2006年。ISBN 4-309-76084-8