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利用者:Eugene Ormandy/sandbox51 ディミトリ・ミトロプーロス

ディミトリ・ミトロプーロス
Dimitris Mitropoulos
ディミトリ・ミトロプーロス(左)。中央はアテネ市長コンスタンティノス・コツィアス、右はフィロクティティス・オイコノミディス (1936年)
基本情報
生誕 1896年3月1日
ギリシャの旗 ギリシャアテネ
死没 (1960-11-02) 1960年11月2日(64歳没)
イタリアの旗 イタリアミラノ
職業 指揮者・ピアニスト・作曲家

ディミトリ・ミトロプーロスは、ギリシアの指揮者、ピアニスト、作曲家である。ミネアポリス管弦楽団、ニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の指揮者を務めた。

生い立ち

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ミトロプーロスの作品を称賛したカミーユ・サン=サーンス (1900年)

1896年3月1日(ユリウス暦2月18日)、アテネに生まれる[1][2][3]。祖父はギリシア正教会の司祭で、父の兄弟の二人もアトス山の修道院で過ごした修道士であった[1][3]。父は皮革の商人であったが、事業がうまくいかなくなった晩年にやはり修道士となっており、ミトロプーロス自身も当初は司祭になるつもりであった[1][3]。なお、ミトロプーロスは後年、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に対し「『皇帝ティートの慈悲』のような音楽が作曲されたこと、モーツァルトのような音楽家が存在したことが、神の存在を明らかにしている」と語っている[4]。また、アッシジのフランチェスコを手本としていた[3]

6歳でフルートを、9歳でピアノを習いはじめ、高校生になるとヴァイオリンとピアノのためのソナタを作曲した[3]

なお、父は息子が軍人になることを望んでいたが、音楽家になりたいという希望に反対はしなかった[1]

学生時代

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1910年、ヴァイオリニストのアルマン・マルシックの勧めでアテネ音楽院に入学し、ピアノをL.ワッセンホーンに、和声学対位法をマルタン・ピエール・ジョゼフ・マルシクに学び、1918年に金メダルを獲得して卒業した[1][2][3]。卒業の際には、メーテルリンクの『ベアトリーチェ』をもとにした自作のフランス語オペラが上演されたが、たまたま指揮者としてギリシアを訪れていた作曲家サン=サーンスがこの公演を聴いて激賞した[1][2]。この称賛に勇気づけられたミトロプーロスは、ブリュッセルの音楽院に進んでオルガンを学んだ[1]。なお、同時期にパウル・ジルソンに作曲を学んでいるが、ジルソンは第一次世界大戦の際にドイツに協力したとして音楽院を退職させられていた音楽家であった[1]。ブリュッセルで1年間過ごしたのち、ジルソンに「こんなところにいつまでもいてどうするつもりかね。ドイツへ行って勉強しなさい」と言われ、1920年、ミトロプーロスはベルリンへと渡った[1][2]

師フェルッチョ・ブゾーニとの交流

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フェルッチョ・ブゾーニ (1916年)
ブゾーニのクラスで知り合った作曲家クルト・ヴァイル (1932年)
ブゾーニが称賛したイーゴリ・ストラヴィンスキー (1921年)

ブゾーニとの出会い

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師ジルソンの勧めで、1920年にベルリンへと渡ったミトロプーロスは、同じくギリシア出身の音楽学生たちに出会った[1]。そのうちの一人は、作曲家・ピアニストのフェルッチョ・ブゾーニの弟子エーゴン・ペトリに師事しており、ミトロプーロスがその頃作曲したピアノソナタをペトリの前で演奏するよう取り計らった[1]。自作自演を聴いたペトリは、ブゾーニの前で演奏をするよう勧めたため、ミトロプーロスは音楽大学で作曲科のマスター・クラスを受け持っていたブゾーニを訪れることとなった[1]

ブゾーニのレッスン

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ミトロプーロスはブゾーニのもとを訪れ、自作のピアノソナタを演奏した[5]。およそ45分に及ぶ演奏ののち、ブゾーニは「あまりにも情熱的すぎる」と述べ、音楽における情熱についてのレクチャーを開始した[5]。その要旨は「音楽と情熱は2つの別のものであって、一緒になることは許されない」というものであった[5]。これを聞いたミトロプーロスは驚愕したが、結果的にこのレッスンが指揮を始める契機となった[5]。のちに彼は以下のように述べている[5]

それからは苦しい毎日が続きました[5]。私は彼の言ったことはわかりましたが、私の性質が生まれつき熱狂的で情熱的だというのに、いったいどうしたらいいのだろうかといろいろ考えてしまったのです[5]
とにかく私は、自分の全力をあげて作曲に没頭しました[5]。しかし、その作品は感覚的で官能的なものでしたので、ブゾーニの言ったことを思い出すと自分が何か罪を犯しているように感じました[5]。そして私はもう書くことはできない、私はもう一度落ち着きを取りもどさねばならない、私は自分の心と本性と思考との間の調和を探し求めねばならない、そう思ったのです[5]。実際、それは決定的な瞬間でした[5]。そしてもしその瞬間に指揮者になるということが頭に浮かばなかったなら、おそらく私はそれっきり音楽にたずさわることをやめていたかも知れません。情熱抜きの音楽などというものがありうるでしょうか[5]

なお、ブゾーニのクラスでは作曲家のクルト・ヴァイルやウラジミール・フォーゲルと知り合っている[5]

ブゾーニに対する評価

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ミトロプーロスはブゾーニについて「もし今日彼が生きているならば、われわれの時代のもっとも偉大な音楽家の1人になっていると思います」と語っている[5]ヘルマン・シェルヘンイーゴリ・ストラヴィンスキーの『兵士の物語』のベルリン初演を指揮した際、足を踏み鳴らしたり口笛を吹いたりして抗議する客をよそに、ブゾーニが最後まで残って拍手をしていたというエピソードを紹介し、ミトロプーロスは「ブゾーニだけがただ1人この『冷静な』音楽の偉大さを知っているかのようでした」と述べた[5]

また、ピアニストとしてのブゾーニについては「まったく信じられないほどの名人的な腕前」「まったく珍しい指遣い」と述べつつ、「彼は自分の名人的技巧を見せつけることに楽しみを感じているようでした」と評している[6]。また、モーツァルトやベートーヴェンのピアノ協奏曲で作曲家の指定していない音を追加しながら弾く姿勢に対しては「冒涜的行為」「たしかに輝かしく、人をひきつけるには十分なものでしたが、必要なものではありませんでした」と語っている[6][† 1][† 2]

キャリア初期

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ミトロプーロスが副指揮者を務めたベルリン国立歌劇場 (2018年)

ブゾーニの生徒であった頃、ミトロプーロスは自身と同じくギリシア人であり、ベルリン国立歌劇場の舞台装置家であったP. アラヴァンティーノスに頼み、オペラハウスのオーケストラの中に座らせてもらうことができた[6]。その日の公演はワーグナー作曲の『パルジファル』で、ミトロプーロスはティンパニの近くに座っていたが、明かりが落ち、演奏を始めなくてはならなくなった段階になって、指揮者のスティードリーはティンパニ奏者が不在であることに気がついた[6]。そこで、アテネの音楽院でティンパニの演奏法を習っていたミトロプーロスが、第一幕全体の演奏を急遽担当することになった[6]。上演終了後、劇場監督の代理人に呼ばれたミトロプーロスは、練習指揮者にならないかと提案され、これを引き受けた[6][7]。これにより1922年から3年間、ベルリン国立歌劇場副指揮者として活躍し、オペラの下稽古や、バレエの指揮などを担当した[2]

なお、練習指揮者として活躍するようになった頃から、ブゾーニから「作品を一つも持ってこない」となじられるようになった[7]。ミトロプーロスが「『ニーベルンゲンの指輪』の稽古が忙しいから」とこたえたところ、ブゾーニは「まったくいつになったらみんなはワーグナーのような卑しい作品を演奏するのをやめるんだ!」と叫んだという[7]

アテネ時代

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エーリヒ・クライバー (1920年)

帰郷

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アテネ音楽院の校長から「私たちの学校はあなたを必要としています」という手紙を受け取ったミトロプーロスは、故郷に戻り、1924年にアテネ交響楽団の常任指揮者およびアテネ音楽院の教授に就任した[2][7]。ミトロプーロス自身はアテネに戻りたいとは思っていなかったが、夫の死後、息子とともにベルリンで暮らしていた母に懇願されて帰郷した[7]。なお、ベルリン国立歌劇場でミトロプーロスの上司であった指揮者エーリヒ・クライバーはこれに反対し、「1年だけ行ってください。私はあなたが帰ってくることを確信しています」と語った[7]

そこでミトロプーロスは1年間の休暇を取得してアテネに帰ったが、結局14年間アテネに留まった[7]。オーケストラでは古典的なレパートリーとともに、現代音楽も積極的に取り上げ、上述の『兵士の物語』を一週間連続で取り上げたり、アーノルト・シェーンベルクの作品を取り上げたりした[7]。また、シェーンベルクの理論と実例に影響を受け、ミトロプーロスは再び作曲をするようになった[7]

世界ツアーと弾き振り

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オーケストラの人気は高まり、裕福な定期会員からは世界ツアーの申し出があった。「金のことは何も心配しなくてよろしい。外国のどの土地から巡業を始めたいですか」という問いに対しミトロプーロスは即座にベルリンとこたえ、1930年にツアーが実施された。しかし、ベルリンで共演する予定だったピアニストのエゴン・ペトリが「練習の暇がない」と申し出たため、ベルリン初演となるプロコフィエフ作曲の『ピアノ協奏曲第3番』のソリストは空席となってしまった。ベルリンでのマネージャーであったルイーゼ・ヴォルフは代理のソリストを探すも見つからず、演奏会5日前にミトロプーロスは自分が指揮をしながらピアノを弾くと伝えた。この「観客の度肝を抜いた」「名声を轟かせた」とされ[2][8]、続くイタリア、フランス、イギリス、ベルギー、ユーゴスラビアなど25の都市で同じく弾き振りを行なった。

アメリカ時代

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1937年から1949年にかけて、指揮者ユージン・オーマンディの後任としてミネアポリス交響楽団(のちにミネソタ管弦楽団と改名)の正指揮者を務めた。また、NBC交響楽団やニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団にも客演を重ねた[2]

1949年に指揮者レオポルド・ストコフスキーとともにニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団の常任指揮者となり、翌1950年には正指揮者となった[2]。1957年にはレナード・バーンスタインとともに共同音楽監督の座についたが、翌年ミトロプーロスは辞任し、バーンスタインが単独の音楽監督となった[9]

1954年にはメトロポリタン歌劇場の指揮者も務めたが、1960年11月2日、ミラノで客死した[2]

他の芸術家たちとの交流

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ヴィルヘルム・フルトヴェングラー

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ヘルベルト・フォン・カラヤン

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指揮者ヘルベルト・フォン・カラヤンはミトロプーロスを高く評価しており、自身が芸術監督を努めた時期のウィーン国立歌劇場にミトロプーロスを招聘している[10]。この時のモーツァルトのプレミエ公演は大成功を収めたとされる[11]。また、芸術監督として初めて臨んだ1957年のザルツブルク音楽祭でも、カラヤンはミトロプーロスを招いており、両者がそれぞれ現代音楽を指揮するコンサートがセットで開催された[12][13][14][† 3]

レナード・バーンスタイン

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レナード・バーンスタイン (1955年)

指揮者・ピアニストのレナード・バーンスタインについて、ミトロプーロスは「天才少年だと思うが、彼が彼自身を駄目にしてしまうのではないか心配だ」「レニー(バーンスタインのこと)が僕を悩ませるんだ。レニーは周りにとてもヘンな奴らを引き連れて、眠らないで、自分を磨こうともせず、自分をどうすればよいかもわかっていないんだ。レニーは勉強しているべきなんだ」「レニーは土壇場にならないと勉強しない」と語っており[15][16][17]、バーンスタインにもっと控えめにしているようにと諭した[18]。また、ダイアモンドは「自作の交響曲『カディッシュ』において、バーンスタインが神と対話できると考えたことに対してミトロプーロスは憤慨していた」と振り返っている[19]

なお、バーンスタインは指揮者になって始めの17年間は指揮棒を使っていなかったが、ヴァイオリン奏者・作家のウィリアム・ウェストブルック・バートンは、これは同じく指揮棒を使わなかったミトロプーロスの影響であると指摘している[20]。また、バーンスタインはミトロプーロスの弾き振りに憧れており、自身もモーツァルトやラヴェルのピアノ協奏曲を弾き振りした[21]

ミトロプーロスがミラノ・スカラ座で亡くなったとき、バーンスタインは大きな衝撃を受け「自分も死ぬときは指揮台から転げ落ちたい」と語った[22]。なお、バーンスタインは舞台に出るときのお守りとして、クーセヴィツキーのカフスボタンとミトロプーロスの十字架を携帯していた[22]

作曲家として

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記憶力について

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記憶力の良さで有名であり、数カ国語を操るとともに[23]、リハーサルの際にはスコアを見ずに練習番号を指摘していた(ミル指定ん)。また、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団に客演したときは、事前に渡された団員名簿を暗記して、奏者への呼びかけを名前で行った[24]。ウィーン・フィルの団員たちの間では、「電子頭脳」をもつミトロプーロスならば、50曲ほどの交響曲ならば即座に暗譜で指揮できるだろうと噂されていた[23][† 4]。 また、作曲家のルーカス・フォスは「耳で暗譜する」バーンスタインと比較して、ミトロプーロスのことを「とても視覚的に記憶する」と語っている[26]

評価

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様々な演奏家がミトロプーロスの実力を絶賛しており、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団コンサートマスターを務めたワルター・バリリは、ミトロプーロスについて「偉大な名指揮者」「巨匠と呼ばれるにふさわしい名指揮者の一人だった」と評している[24]。また、ヴァイオリニストのナタン・ミルスタインはミトロプーロスについて、指揮者シャルル・ミュンシュと同じく「素晴らしい芸術家で、ちょっと神経質」「音楽のことをよく知っている」「それを感じることのできる卓越した才能(を持っている)」と評している。さらにその記憶力について「とてつもない」と述べており、アレクサンドル・グラズノフのヴァイオリン協奏曲のリハーサル中、スコアを見ずに練習番号を指摘したエピソードを紹介している。さらに、指揮者・ピアニストのダニエル・バレンボイムは「これまでに出会った誰よりもすごい記憶力の持ち主だった」「激しい情熱と高潔さを備えた本物の音楽家だった」「彼はたいへん控えめな人物で、たぶん、私が出会った中でももっとも愛他精神に富んだ人物の一人だったと思う」と述べている[27][28]

ミトロプーロスを激賞した、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団コンサートマスターのワルター・バリリ (1957年)
  • ミトロプーロスからバーンスタインへバトンが渡された時のニューヨーク・フィルハーモニー管弦楽団は「規律がひどい状態で、モラルの低下に苦しんでいる」と評され、聴衆と定期会員のレベルは引き潮にあると言われた[29]。また、ミトロプーロスはオーケストラの管理能力が欠如していると批判された[30]
  • 批評家のハロルド・ショーンバーグも、バーンスタインが引き継いだ時期のニューヨーク・フィルについて批判しており、「ミトロプーロスは偉大な音楽家でしたが、温順な人でしたが、オーケストラはやりたい放題でした」と語った[31]
  • ロンドンやザルツブルク音楽祭でミトロプーロスの実演に接した植村攻は、その指揮姿について「或る時は両手をだらりと真下に伸ばしたまま腰のあたりでちょっと動かすだけの時もあれば、大きくタクトを振って激しい動きをすることもあるという、その時によって指揮のスタイルを変える人で、達者だが一風変わった指揮者だと思っていた」と語っている[32]
  • メトロポリタン歌劇場の歌手たちは、身体全体を使ったミトロプーロスの指揮のわかりにくさに不満を述べたとされる[33]
  • 自身の同性愛についてオープンであったと言われているが、その態度は当時のアメリカでは「勇気のある」ものであったとされる[33]

参考文献

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日本語文献

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  • チャールズ・アフロン、ミレッラ・J・アフロン著、佐藤宏子訳「メトロポリタン歌劇場 歴史と政治がつくるグランド・オペラ』みすず書房、2018年。
  • アレクサンダー・ヴィテシュニク著、福原信夫・吉野忠彦共訳『ウィーン・フィルえぴそーど』立原書房、1975年。
  • 植村攻『新版 巨匠たちの音、巨匠たちの姿 1950年代・欧米コンサート風景』2011年。
  • リチャード・オズボーン著、木村博江訳『ヘルベルト・フォン・カラヤン 上』白水社、2001年。
  • リチャード・オズボーン著、木村博江訳『ヘルベルト・フォン・カラヤン 下』白水社、2001年。
  • 音楽之友社編『名演奏家事典(下) フレイン〜ワ』音楽之友社、1982年。
  • ウィリアム・ウェストブルック・バートン編、山田治雄訳『バーンスタインの思い出ーー19人が語るマエストロの人間・音楽・作品ーー』音楽之友社、1997年。
  • ヘルベルト・ハフナー著、市原和子訳『ベルリン・フィル あるオーケストラの自伝』春秋社、2009年。
  • ワルター・バリリ著、岡本和子訳『ウィーン・フィルとともに ワルター・バリリ回想録』音楽之友社、2012年。
  • ミュラー=マライン、H.ラインハルト共編、佐々木庸一訳『ヨーロッパの音楽家: その体験的告白』音楽之友社、1965年。
  • ナタン・ミルスタイン、ソロモン・ヴォルコフ著、青村茂、上田京訳「ロシアから西欧へ ミルスタイン回想録』春秋社、2000年。
  • クリスチャン・メルラン著、神奈川夏子訳『偉大なる指揮者たち トスカニーニからカラヤン、小澤、ラトルへの系譜』ヤマハミュージックメディア、2014年。
  • カール・レーブル著、関根裕子訳『ヘルベルト・フォン・カラヤン 僕は奇跡なんかじゃなかったーーその伝説と実像ーー』音楽之友社、2017年。

日本語以外の言語の文献

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脚注

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注釈

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  1. ^ ブゾーニはある時「1ヶ月以内にモーツァルトのピアノ協奏曲を選曲演奏する」と宣言し、親しくしていた指揮者グスタフ・ブレッヒェルと共演することになった[6]。ミトロプーロスは初回のリハーサルを見学したが、その段階でブゾーニによる音の追加に辟易したブレッヒェルは「とてもついていけない」と宣言し、指揮を辞退した[6]。その後ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のコンサートマスターが代わりに指揮を引き受けたが、演奏会は酷評された[6]
  2. ^ ブゾーニはベートーヴェンのピアノ協奏曲第4番の第1楽章において、左手の半音階の伴奏を全てオクターブにした[6]
  3. ^ このときカラヤンはベルリンフィルを指揮して、ゴットフリート・フォン・アイネム『ピアノ協奏曲」、オネゲル『交響曲第3番「典礼風」』、そして世界初演となったテーオドル・ベルガー『シンフォニア ・パラボリカ』を演奏した[14]
  4. ^ オペラ『エレクトラ』のリハーサル中、何事かを言おうとしたミトロプーロスが目を瞑って考えていたとき、ウィーン・フィルのクラリネットの奏者の1人は「今、頭の中でページをめくっているのだ」と仲間たちに囁いたという[25]

出典

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l マライン、ラインハルト p108
  2. ^ a b c d e f g h i j 音楽之友社『名演奏家事典』 p1001
  3. ^ a b c d e f メルラン p169
  4. ^ ヴィテシュニク p234
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o マライン、ラインハルト p109
  6. ^ a b c d e f g h i j マライン、ラインハルト p110
  7. ^ a b c d e f g h i マライン、ラインハルト p111
  8. ^ ハフナー p112
  9. ^ バートン p33
  10. ^ オズボーン 上巻 p426
  11. ^ レーブル p64
  12. ^ オズボーン 上巻 p22
  13. ^ オズボーン 上巻 p23
  14. ^ a b オズボーン 上巻 p24
  15. ^ バートン p16
  16. ^ バートン p76
  17. ^ バートン p77
  18. ^ バートン p74
  19. ^ バートン p67
  20. ^ バートン p21
  21. ^ バートン p73
  22. ^ a b バートン p77
  23. ^ a b ヴィテシュニク p232
  24. ^ a b バリリ p118
  25. ^ ヴィテシュニク p233
  26. ^ バートン p52
  27. ^ バレンボイム (1994)、82頁。
  28. ^ バレンボイム (1994)、83頁。
  29. ^ バートン p33
  30. ^ バートン p34
  31. ^ バートン p96
  32. ^ 植村 p32
  33. ^ a b バートン p22

関連項目

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外部リンク

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