利用者:Eugene Ormandy/sandbox24 名曲喫茶(加筆用)
名曲喫茶(めいきょくきっさ)とは、主にクラシック音楽を店内で流す日本の喫茶店の総称である。本稿ではジャズ喫茶、うたごえ喫茶、ライブハウス、コーヒーハウス、民芸喫茶などは取り上げない。
概要
[編集]主にクラシック音楽を流す
会話いいところとダメなところ
会話ルール | 店舗名 |
---|---|
会話を許可している店舗 | |
私語厳禁の店舗 | バロック[1] |
会話スペースと私語厳禁スペースとが分かれている店舗 | |
特に記述がない店舗 |
趨勢
[編集]音楽を聴く機会が限られていた第二次世界大戦後に名曲喫茶は全盛期を迎えたとされる[2]。1958年の新聞記事には「名曲喫茶を始めたいのですが」という質問が掲載されたが、これに対して回答者は、駅前・繁華街・学生街・オフィス街・問屋付近に出店することを勧めつつ、「喫茶店はどこまでもふんい気の店であり、気分の店でありますから感覚的に工夫しなければならないし文化制も必要でしょう」として、同業者の様子を伺いつつ、アメリカ風、フランス風、日本風、中華風と多種多様な店舗のあり方からどれを選ぶかが肝心だとした[3]。また、「コーヒー豆はいつも同じものを仕入れて味を変えない」「ケーキは大量生産しているメーカーから毎朝その日の必要分だけ仕入れる」といったアドバイスを述べたのち、「販売価格は40円から80円」「お客一人あたりの単価が50円なら100人くれば採算はとれる」「利益は売り上げの2~3割を見込む」といった実利的な話に触れ、最後は「2~3年に1回は店を改装しないとお客から飽きられる」と釘を刺した[3]。
ただ、インベーダーゲームの登場により次々と姿を消していったとされる[2]。
赤字経営
[編集]客の回転率が悪いぶん名曲喫茶の経営は厳しく、各種記事に名曲喫茶が取り上げられるたびに「赤字」という文字が紙面上を踊った。
名曲喫茶ライオン
[編集]名曲喫茶こんつぇると
[編集]「自由の女神」ができたことにより売り上げは激減し、1日50人だった客は30人に、月の売り上げは30万円に落ちた。毎月の赤字は20万円となり、「税務署も呆れ果てて帰った」とされる[4]
学生運動との関わり
[編集]店主たちの趣味・来歴
[編集]名曲喫茶の経営以外の仕事をしていた店主も多い
名曲喫茶こんつぇると
[編集]吉祥寺の名曲喫茶こんつぇるとの店主水津正生は、8ミリフィルムの作品を数多く残し、店付近の井の頭公園を題材とした『残照』は、1964年に東京国際映画コンクール最優秀賞を、1965年にカンヌ映画祭アマチュア部門銀賞を獲得した[5]。また作成したブロンズ像は文部大臣賞を受賞した[6]。さらに、街の再開発により店が移転した際には、「プチロード」の整備なども行なった[6]。また、「自由の女神」建設後の吉祥寺の歓楽街化に反対する運動も行なった[4]
主な名曲喫茶(閉店した店舗も含む)
[編集]北海道
[編集]群馬県
[編集]東京都
[編集]名曲喫茶ライオン
名曲喫茶らんぶる
名曲喫茶ミニヨン
名曲喫茶クラシック
名曲喫茶ネルケン
名曲喫茶ルネッサンス
名曲喫茶ヴィオロン
名曲喫茶でんえん
名曲喫茶バロック
名曲喫茶麦
名曲喫茶こんつぇると
愛知県
[編集]名曲喫茶ニュルンベルク
京都府
[編集]名曲喫茶柳月堂
店内コンサートなど
[編集]郷愁の対象として
[編集]久しぶりにくる
他の音楽との比較
[編集]客たちの表象
[編集]バロックで11時間粘ったサラリーマン[1]
金ない
インテリ 大学生
名曲喫茶に通った人々
[編集]学者
[編集]財界人
[編集]皇族
[編集]高松宮宣仁親王 - お忍びで銀座の名曲喫茶に通った[7]
名曲喫茶が登場する文学
[編集]名曲喫茶が登場する映画
[編集]名曲喫茶での事故
[編集]1977年11月3日、銀座のらんぶるで火事が起きた[8]。従業員がジュースのシロップを煮詰めていたら火事に[8]。
著作権について
[編集]関連項目
[編集]ジャズ喫茶
うたごえ喫茶
コーヒー・ハウス
カフェ
学生運動
脚注
[編集]- ^ a b “[東京NOW]売り物は“本物”の音 自慢のレコード、機械で名曲喫茶”. 読売新聞朝刊: p. 17. (1975年2月18日)
- ^ a b “名曲喫茶 伝統の灯は消さぬ がんばる 昭和を音一筋に”. 読売新聞朝刊: p. 20. (1980年2月3日)
- ^ a b “[商工相談]店のふんい気に工夫を 名曲喫茶▽趣味の店”. 読売新聞朝刊: p. 3. (1958年10月27日)
- ^ a b “[都市の履歴書]第2部・吉祥寺はいま…=7 自由の女神(連載)”. 読売新聞夕刊: p. 19. (1985年2月22日)
- ^ “[あなたと会見]八ミリ映画に詩心たくす 水津正生さん”. 読売新聞朝刊: p. 20. (1982年4月4日)
- ^ a b “[都市の履歴書]第2部・吉祥寺はいま…=4 人寄せロード(連載)”. 読売新聞朝刊: p. 19. (1985年2月17日)
- ^ “[アップタウン・ダウンタウン]銀座の喫茶での思い出/高松宮宣仁親王ご逝去”. 読売新聞夕刊: p. 14. (1987年2月9日)
- ^ a b “銀座の名曲喫茶「らんぶる」火事”. 読売新聞朝刊: p. 23. (1977年11月3日)