利用者:Eugene Ormandy/sandbox103 ジョージ・セル
ジョージ・セル George Szell | |
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1965年 | |
基本情報 | |
生誕 | 1897年6月7日 |
出身地 |
オーストリア=ハンガリー帝国 ブダペスト |
死没 |
1970年7月30日(73歳没) アメリカ合衆国 クリーヴランド |
ジャンル | クラシック音楽 |
職業 | 指揮者・ピアニスト |
担当楽器 | 指揮・ピアノ |
ジョージ・セルは指揮者、ピアニストである。
やること
[編集]マイケル・チャーリー書籍を反映
生涯
[編集]幼少期
[編集]1897年6月7日、ジョルジ・アンドレ・セルとしてブダペストに生まれる[1][2]。父のカルマン・セルはマルツァリ出身の成功した実業家で、母のマルヴィンはブダペスト北西のイポイシャーグ出身であった[2]。後年、セルは母方からチェコの血をひいていると主張するようになるが、セル家で話されていたのはハンガリー語であった[2]。
3歳の時、一家はウィーンに移住した[1]。父カルマンはウィーンで初の警備会社ヴァハ・ウント・シュリースを設立し、警察との連携で成功を収めた[3]。また、カルマンは政府と密接な関係を築くためにカトリックに改宗し、貴族的な出自をアピールするために、Szel という名前を Szell に変更したほか、名前もドイツ風のカールとした[3]。それに伴い、ジョルジ・アンドレ・セルもゲオルク・アンドレアス・セルに改名した[3]。ゲオルク・アンドレ・セル(ジョージ・セル)はカトリック教徒として育ち、すぐにドイツ語を覚えた[3]。また、ウィーンで蔓延していたハンガリーへの否定的な態度を取るようになった[3]。
セルは早熟な子どもであった[4]。9ヶ月で話し始め、2歳の頃にはハンガリー語、ドイツ語、フランス語、チェコ語で民謡を歌うことができた[4]。さらには、母親がピアノで間違った音を弾くと手首を叩いて指摘するようになった[4]。5歳から母親に音楽の初歩を習い始めると長足の進歩を遂げ[4]、7歳の頃には、音楽を一度聴いただけですぐに楽譜に書き起こすことができたという[5]。その才能を目の当たりにした父は、息子に正式な音楽教育を施すことを決意する[5]。
はじめは高名なピアノ教師テオドル・レシェティツキに師事しようとするも断られ[5]、その後音楽理論をオイゼビウス・マンディチェフスキ、作曲をヨゼフ・ボフスラフ・フェルステル、ピアノをリヒャルト・ロベルトに師事した[1][6]。ロベルトの門下生には、6歳年下のルドルフ・ゼルキンもロベルトの門下生であり、セルと交流を深めた[7][8]。また、セルはライプツィヒでマックス・レーガーにも師事している[8]。これらの教育の結果、セルは早い段階でオーケストラスコアをピアノで演奏できるようになった[5]。
また、セルは様々な演奏会に足を運んだ[4]。父親に連れられてウィーンの様々なオペラやコンサートに接したほか[4]、ロベルトに連れられて、ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団コンサートマスターのアルノルト・ロゼの自宅で行われる室内楽演奏会も聴きに行った[6][9]。
キャリア初期
[編集]1908年1月30日、ウィーン楽友協会でデビューを果たした[10]。オスカー・ネドバルが指揮するウィーン・トーンキュンストラー管弦楽団がセルの作曲した序曲を演奏したほか、セル自身がモーツァルトのピアノ協奏曲や自作の曲でピアノを演奏した[10]。演奏会は好評を博し、ユリウス・コルンゴルトは「音楽的に成熟したピアニストの魂と表現」と評した[10]。その後、「モーツァルトの再来」として出演オファーが殺到したが、勉強の時間を確保するために1度のツアーしか行わなった[11]。しかしツアー後もオファーは止まらなかったため、セルの両親はコンサートマネージャーのエミール・グートマンと5年間の契約を結び、セルが数回しかコンサートを行わないようにした[12][13]。また、出版社のユニバーサル・エディションはセルと包括出版契約を交わし、1912年4月22日から10年間、セルの作品を独占出版した[14]。
しかし、セルは指揮者になりたいと思っていた[15]。セルは「12歳か13歳のころには、最終的に指揮者になることはかなり明白にわかっていました」と回想しており[15]、16歳の時には、セルの作品を演奏させるために父親が雇ったオーケストラを指揮している[16]。なお、この演奏を聴いたハンス・ガルは「それが彼がタクトを振る最初の機会でした。彼の自信は、彼の手と耳の正確なコントロールと同じくらい驚くべきものでした。あきらかに彼は、生まれながらの指揮者だったのです」と回想している[16]。
17歳の時には、腕を負傷した指揮者マルティン・シュポアの代役としてバート・キッシンゲンでウィーン交響楽団を指揮した[5][15]。また、ベルリンの王立音楽アカデミーで開催されたブリュートナー管弦楽団のコンサートには指揮者、ピアニスト、作曲家として登場し、自作の曲や『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』を指揮したほか、ベートーヴェン『ピアノ協奏曲第5番』でピアノを演奏した[16]。
ベルリン国立歌劇場無給指揮者時代 (1915年-1917年)
[編集]リヒャルト・シュトラウスの推薦で、セルは1915年から1917年にかけてベルリン国立歌劇場で無給の補助指揮者を務めた[1][5]。シュトラウスは、セルがピアノで『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』を演奏するのを耳にして、即座に雇ったという[5]。セルは後年になってもこれを誇りに感じていて、友人たちに『ティル・オイレンシュピーゲルの愉快ないたずら』のピアノ演奏を聴かせていた[5]。
ストラスブール歌劇場時代 (1917年-1918年)
[編集]その後、シュトラウスの推薦状を得たセルは、1917年にオットー・クレンペラーの後任としてシュトラスブルク(ストラスブール)歌劇場の第一指揮者に就任したが[1][5][17]、第一次世界大戦後にフランスがアルザス地方を奪還したことで任期は短縮され、歌劇場も閉鎖された[18][19]。
なお、リヒャルト・シュトラウスは、自身が監督を務めていたウィーン国立歌劇場のアシスタントとして、フリーランスになったセルを雇おうとしたが、共同監督のフランツ・シャルクの反対もあり失敗に終わった[20][21]。セルはこの頃、シュトラウスとシャルクの間を秘密裏に何度も往復させられたという[21]。
プラハ、ダルムシュタット、デュッセルドルフでの活躍 (1919年-1924年)
[編集]セルはその後、各地で活躍した。1919年から1920年にかけてプラハのドイツ歌劇場で副指揮者を務めたのち[註 1]、1921年にはダルムシュタットのヘッセン州立歌劇場で首席指揮者を務めた[22][19][5]。また、1922年から1924年にかけて、デュッセルドルフ市立歌劇場で首席指揮者を務めた[22][5]。1920年には、ウィーンのピアニストで、セルと同じくリヒャルト・ロベルト門下であったオルガ・バンドと結婚したが、6年で離婚した[23]。
ベルリン国立歌劇場第一指揮者時代 (1924年-1929年)
[編集]1924年から1929年にかけて、ベルリン国立歌劇場総音楽監督エーリヒ・クライバーのもとで、セルは第一指揮者を務めた[1][24][23]。セルはエーリヒ・ヴォルフガング・コルンゴルトの『死の都』ベルリン初演や、リヒャルト・シュトラウスの『インテルメッツォ』を指揮したほか、『オテロ』や『アンドレア・シェニエ』などのプレミエも任された[24][25]。また、1927年からはベルリン国立音楽大学の作曲と音楽理論の教員となった[25][24]。
なお、セルは坐骨神経痛に悩まされるようになり、1928年7月5日から1929年3月19日にかけてベルリン国立歌劇場を休んでウィーンの両親の家に滞在したが、1929年の春には復帰した[26]。
ドイツ歌劇場首席指揮者時代 (1929年-1937年)
[編集]1929年の秋には、プラハのドイツ歌劇場の首席指揮者に就任した[26]。セルはスタンダードなレパートリーのほか、エルンスト・フォン・ドホナーニの『テノール』、パウル・ヒンデミットの『行きと帰り』、ジャン・ルカ・トッチの『豆粒の上のお姫様』、ベルトルト・ブレヒトとクルト・ヴァイルの『マハゴニー市の興亡』などの最新作を取り上げた[27]。他にも、オーケストラのみのコンサートも実施した[27]。また、セルは第一指揮者にマックス・ルドルフを任命し、自分の演奏を自由に批判させた[26]。
ドイツ歌劇場で活躍する一方、セルは各地での客演活動も活発に行なった[5]。1930年にはセントルイス交響楽団を指揮してアメリカデビューを果たしたほか[5]、1933年にはハーグ・レジデンティ管弦楽団に、1936年にはアムステルダム・コンセルトヘボウ管弦楽団にデビューを果たした[28][29]。また、ウィーン、ベルリンでも高い評価を得ていた[28]。
ただし、セルは次第に「来る歌手来る歌手に同じことを告げるのに嫌気がさし」たため、プラハを去ることにした[30]。
スコットランド、ハーグ、オーストラリアでの活躍 (1937年-1939年)
[編集]1937年までには、音楽活動の拠点をイギリス、オランダに集中できるようになった[30]。1936年にはスコティッシュ管弦楽団の常任指揮者に就任し[28][31]、本拠地グラスゴーでの予約演奏会を指揮したほか、エディンバラなどその他のスコットランドの都市でも指揮した[31][32]。また、ロンドン交響楽団にも客演している[32]。
アメリカ時代初期 (1939年〜1946年)
[編集]1939年、オーストラリアツアーからヨーロッパへと戻る途中に第二次世界大戦が勃発し、ニューヨークに取り残されてしまったセルはその後、アメリカで活躍するようになる[5][33]。1941年にはNBC交響楽団を指揮し、その後ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィア、シカゴ、ロサンゼルス、デトロイト、クリーヴランドなどのオーケストラに客演した[5]。1942年から1946年にかけてはメトロポリタン歌劇場に定期的に登場してドイツ作品の演奏とオーケストラの立て直しに尽力したほか、1944年にはニューヨーク・フィルハーモニックにデビューし、以後定期的に客演した[5][34]。
クリーヴランド管弦楽団時代 (1946年以降)
[編集]1946年、セルはクリーヴランド管弦楽団の常任指揮者に就任した[35]。その際の条件は「理事会は、いかなる楽団にも劣らぬオーケストラに育て上げるための財政的援助と権限とを、指揮者に提供する義務を有する」というものであった[35]。着任1年目にして、セルは早速94人の楽団員のうち22人を解雇し、メンバーを充足させて104人体制とした[36]。反対運動は生じたが、理事会の支援を取り付けたセルは改革を推し進め、1958年には著名な音響学者カイルホルツ博士にセヴェランス・ホールの改修を依頼した[35][37]。
セルの練習は厳しかったが効果は抜群で、クリーヴランド管弦楽団のレベルは向上し[35][37]、全米トップのオーケストラという評判を勝ち得た[38]。1963年2月22日号の『タイム』誌の表紙には、セルの写真が掲載されるほどであった[38]。
セル時代のクリーヴランド管弦楽団で活躍した団員としては、ホルン奏者のマイロン・ブルーム[39]、首席ヴィオラ奏者のエイブラハム・スカーニック[40]、クラリネット奏者のロバート・マーセラス[41]、ティンパニ奏者のクロイド・ダフらがいる[42]。
セルの死後
[編集]クリーヴランド管弦楽団において、セルの後継者探しは難航した[38]。当面の間は、セル時代に首席客演指揮者であったピエール・ブーレーズが音楽顧問として指揮台に立ち、セルの死後1年がたった1971年7月、正式な後継者としてロリン・マゼールが音楽監督に就任した[38][43]。なお、セルの死後クリーヴランド管弦楽団は財政赤字に陥ってしまい、マゼールの就任直前には定期会員が23パーセントまで落ち込み、録音の契約もなくなってしまっていた[44]。ただしマゼールの活躍により、定期会員は満員となり、デッカとCBSでレコーディングが行われるようになった[44]。
人物
[編集]容姿
[編集]音楽評論家のハロルド・ショーンバーグはセルについて「しゃんとして、体格もがっしりと、矍鑠たるものであった。健康管理を常に怠らず、演奏会を取り消すような病気にもめったに罹らなかった」と述べている[45][46]。
性格
[編集]セルは教えたがり屋であった[5]。妻が台所でハミングをしていると「そのモーツァルトは調子が違う」と言ってレッスンを開始したという逸話すらのこされている[35]。長年の友人であるジョセフ・ウェクスバーグは、セルについて「プロゴルファーにゴルフの打ち方を教えるし、レーシングドライバーに運転の仕方を教えるし、作家に文章の書き方を教える」と述べている[5]。
また、セルの性格の悪さを指摘する声もある[47][9][48]。。例えばノーマン・レブレヒトは、セルについて「狭量で不躾な男」と記しているほか[47]、セルのもとでクリーヴランド管弦楽団の副指揮者を務めたマイケル・チャーリーも「(セルは)他人の感情に対する配慮の欠如をしばしばあからさまに示した」と述べており、その原因として幼少期に同世代の仲間と交流することがほとんどなかったからではないかと推測している[9][48]。
その一方でハロルド・ショーンバーグはセルについて「控えめで、内にこもる人」であったと記している[45]。また、セントルイス交響楽団のホルン奏者を務めたエドワード・マーフィーは「セルは優しい雰囲気を持った人でした。恐ろしい面もあるように見えましたが、ほんとうの彼はそうではありませんでした」と述べている[49][50]。
記憶力
[編集]セルは記憶力に優れており、ショーンバーグは「標準的な曲目であれば、ピアノ、室内楽、交響曲、オペラ、歌曲のいずれの分野であろうと、最後の表情記号に至るまで、完全に書き記すことができようと思われた」と記している[45]。
言語能力
[編集]ハンガリー語[22]。
趣味
[編集]音楽性
[編集]指揮姿
[編集]セルの指揮姿は控えめなものであった[51]。
指揮者のゲルト・アルブレヒトも、指揮者を「手首で指揮するタイプ」と「身体で指揮するタイプ」に分けたうえでセルを前者に分類している[52][53]。なお、アルブレヒトはブルーノ・ワルター、カール・ベームを前者に分類し、レナード・バーンスタイン、ヘルベルト・フォン・カラヤン、シャルル・ミュンシュを後者に分類している[52][53]。
リハーサル
[編集]1960年台前半にセルのもとで副指揮者を務めた武田善美は、「一にリズム、二にリズム、三にリズム、四にアーティキュレーション、五にバランス」という態度でセルはリハーサルに臨んでいたと回想している[36]。また、ブダペスト歌劇場のヴァイオリン奏者マルセル・ディックはセルのリハーサルについて「オーケストラを完全に変えました。彼が自分の望むことをあんなに短い時間でどうやって成し遂げたかは、ほんとうに信じられなかったし、彼が望んだことは普通ではありませんでした。どのように演奏するかを口で説明するんです。弦に対しては、根元で弾けとか、ここは下げ弓で、そこじゃなくてここで弓を変えて、とか」と回想している[22]。
演奏スタイル
[編集]セルは恩師リヒャルト・シュトラウスのようなバランスのとれた演奏を理想としていた[54]。セルはシュトラウスについて「いつも2人のシュトラウスが指揮していた。音楽に関心を持っているシュトラウス、そして音楽にまったく無関心なシュトラウスだ。彼は指揮している最中も、演奏が終わった後に仲間たちと予定されているトランプのことばかり考えていた。『フィデリオ』のフィナーレでは非常に退屈して、左のポケットから懐中時計を取り出して見ていた」と回想している[55][56]。また、他にもセルはエフゲニー・ムラヴィンスキーを高く評価しており、ムラヴィンスキーが指揮する『弦楽器と打楽器とチェレスタのための音楽』を聴いて「バルトークが今夜ほど上手く演奏されたのを聴いたことがない」と語った[57]。
また、音楽評論家のハロルド・ショーンバーグは「トスカニーニのように、セルも指揮者としての自分の任務は、楽譜に書かれている音を全て聞こえるようにし、一定のリズムを保ち、人の指や唇や頭脳が調和よく働く時のような、そのような完全なアンサンブルを作り出すことだと、考えていた」「セルはトスカニーニの系統であった。正確を旨とし、権威を守り、過酷な要求を課し、音楽の構造を支える細部にまで大きな関心を寄せる音楽家であった」と評している[58][46]。なお、ショーンバーグは指揮のスタイルを下記のとおり二分したうえでセルをトスカニーニ派に分類している[58]。
指揮には大きく二つの流れがあって、一つはヴァーグナー、ハンス・フォン・ビューローに発し、ヴィルヘルム・フルトヴェングラー等の20世紀の指揮者に伝わる。これは、高度にロマン的で個性を生かす指揮で、テンポを絶えず変化させ、表現上、さまざまの意匠を凝らすところに特徴がある。もう一つの流れはメンデルスゾーンからヴァインガルトナー、リヒャルト・シュトラウス、トスカニーニを経過するもので、はるかに客観性が濃い。ロマン派的な剰余物の一切を排除し、音そのものをして語らしめる、という考えに立ち、指揮者は構成者として機能する。この楽派の指揮者たちは「意味」を求めない。彼らは音を提供し、それを組織して構築物を作り出す[58]。
レパートリー
[編集]セルのレパートリーは幅広かった[59]。指揮者のマイケル・チャーリーは「ドイツ流の訓練を受けていたにもかかわらず、セルのレパートリーは非常に幅広いものだった。彼のプログラムにベートーヴェン、ブラームス、メンデルスゾーン、モーツァルト、ワーグナー、ウェーバーが入っていたことは驚くにあたらないが、セルの知識がフランス音楽に及んでいたのは、当時はもちろん、数世代あとでもまれなことだったろう。しかしさらには、ガーシュウィンのようないかにもアメリカ的な作品にまで取り組む彼の大胆な自信は、無鉄砲とまではいかないにせよ、驚くべきものだった」と評している[59]。
レコーディング
[編集]1924年ごろから録音活動を行なっている[60]。コロンビア、エピック(コロンビア傘下)、EMIなどのレーベルに録音をのこした[60]。
作曲家としての活動
[編集]セルが作曲した、オリジナルの主題による変奏曲は人気を得ており、フェルディナント・レーヴェ、アルトゥール・ニキシュ、フェリックス・ワインガルトナー、リヒャルト・シュトラウス、ヴィルヘルム・フルトヴェングラーも指揮した[61][62]。また、『ピアノのための3つの小品』は、白石光隆による演奏で録音がのこされた[63]。
ただしセルは20代で作曲の道を諦めており[14]、後年はその演奏を禁止した[62]。友人のピアニストであるルドルフ・ゼルキンがサプライズとしてセルの作品を演奏した時は「ゼルキン、どうして君は自分の時間をそんなゴミみたいな曲の練習で無駄にするんだ!」と述べたという[14]。
ピアニストとしての活動
[編集]ストラヴィンスキーの『結婚』のピアノ・パートを演奏することもあった[64]。
オーケストラの楽器
[編集]セルは全てのオーケストラの楽器について「百科事典的な知識」を有していた[65]。また、少なくとも一つはオーケストラの楽器を演奏できることが重要だと考えており、セルはホルンを定期的に練習していた[65]。
教育活動
[編集]アルトゥーロ・トスカニーニやフリッツ・ライナーとならび、セルは「最も偉大なオーケストラ育成者の1人」であると評された[66]。セルの指導は厳しく
なお、セルはオーケストラの民主化を危惧しており「オーケストラが民主的になりすぎ、指揮者がスーパースターになりたがり、ヴィルトゥオーゾ・ピアニストのように演奏旅行に行きたがり、毎週違ったオーケストラを振ろうとしている」と語った[67]。また、セルをはじめピエール・ブーレーズ、グレン・グールドらのレコード・プロデューサーを務めたポール・マイヤーズも、セルと同じくオーケストラは規律が必要だと述べており「トスカニーニやセルやブルーノ・ワルターやカラヤンがあんなに素晴らしかったのは、彼らがオーケストラをピアノを弾くように扱ったからです」「オーケストラを最も民主化し、同時に、こうは言いたくないのですが、現代のオーケストラをだめにした指揮者は、バーンスタインだと考えています」と指摘している[67][68][69]。
セルのアシスタントを務めた指揮者としては、ワルター・ジュスキント[70]がいる
特にセルはジェームズ・レヴァインについて「これほどレパートリーの広い若者の指揮者にはこれまで出会ったことがない」と高く評しており、20歳のレヴァインに、クリーヴランド管弦楽団副指揮者の地位を提供した[71][72]。これは楽団史上最年少記録であった[73]。レヴァインはセルの全てのリハーサル、コンサート、レコーディングセッションに同席したほか、セル自身もレヴァインのリハーサル、コンサートに立ち会い、批評したという[72]。また、セルとレヴァインはともにピアノを演奏しながら交響曲やオペラのスコアを分析することもあった[72]。
評価
[編集]指揮者からの評価
[編集]ブルーノ・ワルターは、セルによるシューマンの『交響曲第4番』の録音について「すばらしい成果」と評した[74][75]。
一方、オットー・クレンペラーはセルが指揮するクロード・ドビュッシーの『海』を評して「ありゃ海じゃない、湖畔のツェルだ」と述べている(セル (Szell) 、海 (See) 、オーストリアの観光地ツェル・アム・ゼー (Zell am Zee) をかけた言葉遊びとなっている)[76]。
また、セルのアシスタントを務めたジェームズ・レヴァインは、セルについて以下のように述べている[77]。
セルは、ほんとうに、無限の才能をもっていました。とくに古典派の作品の指揮者としてはそうでした。作品を理解し、ずば抜けた手法でそれらに光を与え、彼のオーケストラの絶頂期を通して、けた外れの成果をあげました。彼からは、古典派の音楽について、オーケストラの構築過程について、とても多くのことを習いました。しかし、すべてのことが語られ、為すべきことが為されると、必然的に、彼は彼、わたしはわたしということになりました。おそらく、彼の音楽作りには、わたしがこれから得るだろうことを差し引いても、もっと素晴らしいことがたくさんあったと思います。それは、私の耳、鼓動、脈拍、認識、個性が彼のものとは違っているのと同じで、望んでも習得できないようなものでした。それでも、彼には欠けていて、わたしの音楽作りには必要なある種のことははっきり意識しています。 主なことは、充分な声のソノリティが確保されていなかったり、息継ぎと声の広がりについての声楽的な感覚が不充分であったり、また一方では、わたしが望んでいる自然さと比べて感じられる、ある種のそっけなさや、リズムのぎこちなさ、といった感覚です。このことは、全体の視野で見られるべきものです。彼が演奏した水準ほどにも達していない音楽がまだ多いのですから。
歌手・楽器奏者からの評価
[編集]ニューヨーク・フィルハーモニックでコンサートマスターを務めたロドニー・フリーンドは「セルのオーケストラに対するテクニックは、私が出会った指揮者のなかでは、おそらく、最高のものでした」と語っている[78]。
セルと何度も共演したムスティスラフ・ロストロポーヴィチは「彼は天才音楽家でした。真に偉大な指揮者でした。でもセルは少しばかり大衆から孤立していました。彼は演奏を通して話しかけはしましたが、それが大衆にどう受け取られるかは彼にとって重要ではありませんでした」と回想しており、それとは対照的にレナード・バーンスタインは「大衆に向かって話しかけていました。そして、彼はそれがどう受け取られたかを知りたがっていました」と語っている[79]。
ピアニストのグレン・グールドは「彼はまったく注目すべき指揮者だったけど、われわれの共同作業は、錬金術のまったくの欠如の見本でした」「彼は素晴らしい指揮者でした。しかし私とはまったくそりが合わなかった」と述べている[80][81]。セルが指揮するクリーヴランド管弦楽団とリハーサルを行った際、グレン・グールドは椅子の調整に時間をかけたため、立腹したセルは指揮台を去ってしまった[82]。続くリハーサルと本番は代わりの指揮者が指揮をしたが、客席で本番を聴いたセルはグールドについて「あの頭のおかしい男は天才だな」と述べたという[82][83]。
音楽評論家からの評価
[編集]二分する評価
[編集]吉井亜彦は、セルの評価は二分しており、無駄なく引き締まった表現力を称賛する者と、「冷たい」と評する者とに分かれると指摘している[84]。また、ハロルド・ショーンバーグも、二分するセルの評価について以下のように述べている[58]。
彼の指揮は万人好みというわけではなかったが、オーケストラの統率力、該博な知識、誠実さに対して意義のありようがなかった。ただし、一部の聴衆は彼の演奏の中に、何か冷たいもの、何か近寄り難いもの、人間性を欠いているような感じを受けとるのであった。セルを非難する人たちは、彼が衒学的で、不毛で、細部にこだわり、大局を省みないと言った。だが、彼の崇拝者の数は、悪口屋の数をはるかに超える。セルに見るような気迫、明瞭さ、大きさを備えた指揮者は、トスカニーニ以来だ、と崇拝者たちは主張している。
肯定的な評価
[編集]ショーンバーグは「彼は自分の一切を指揮に投影していた。その指揮はたくましく、力強いものであった。エピソードを連ねるというより、一個の構築物を創り出すやり方であった」と評している[85]。
また、セントルイス・ポスト=ディスパッチ紙の音楽評論家トーマス・B・シャーマンは、セルがピアノと指揮を兼ねたモーツァルトのピアノ協奏曲の演奏について、以下のように称賛している[59][86]。
セルのピアノ演奏は、曲全体と切り離せないものとなっているため、彼のピアノの技量にかんする議論は、アンサンブルでの楽器の使い方に限定する必要がある。洗練されたスマートさを持ち、軽々と演奏していることは明白であり、また、真珠のようなレガートは、私が名付けるところの「鍵盤の寵児たち」のモデルになるだろう。
否定的な評価
[編集]ショーンバーグはセルによるドイツ・オーストリアの作品、およびジュゼッペ・ヴェルディの作品の演奏については評価したが、フランス音楽の演奏については「一切が整理され、細部の一つ一つが輝いていたが、フランス音楽の一面の性格、名状し難い微妙さが欠落してしまった」と評している[85]。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g 演奏家大事典 第Ⅱ巻 1982, p. 582.
- ^ a b c チャーリー 2022, p. 19.
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参考文献
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