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マドリード列車爆破テロ事件

[[es: Atentados del 11 de marzo de 2004]] 07:46 7 ago 2024‎ より抄訳。

[[es: Euskadi Ta Askatasuna]] 16:50 29 ago 2024‎ より抄訳。

これは、国内では、一連の事件では最悪の死者数、で欧州では、パンアメリカン航空103便爆破事件の270名の死者の次に、2番目となっている。その後のスペインの国政や社会に多大な影響を与えた。実行犯が自爆したことで、未解決の部分が残った。

概要

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2004年の3月11日(木)の早朝、マドリード州東にあるアルカラ・デ・エナーレス発で、マドリード市へ北東から南まわりで向かいアトーチャ駅に至る近郊鉄道線(セルカニアス)路線で、4便の複数の車両に爆発物が仕掛けられており、朝7時36分からの7時39分の間に連続して10回の爆発が発生した。また、約3週間後、マドリード市の南西に位置するレがネス市のある住宅にて、実行犯と思われるモロッコ系の人物7人が、警察に追い詰められて自爆した。また、列車爆破の11日の3日後の14日には、国政選挙が控えており、それまでの数日間の間に投票意思を左右する動きがあり、選挙結果が、事前予想とは異なり逆転することになった。実行犯が自爆したことで、謎の多い事件となり、政争も絡まって後々まで議論が残った。後におこなわれた裁判では、実行犯2人、協力者1人が有罪の判決を受けた。

背景

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イラクへの派兵

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前段階

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2001年9月11日、アル・カイダによるアメリカ同時多発テロ事件が発生した。2003年3月16日に、ポルトガル領のアゾレス島にて、「アゾレス首脳会談」が開かれ、米(ジョージ・W・ブッシュ大統領)、英(トニー・ブレア首相)、西(ホセ・マリア・アスナール首相)・ポルトガル( )の4首脳が、イラクサッダーム・フセインが、アル・カイーダを支援していたとして、フセインへの最終通告を出す決定をした。https://www.elmundo.es/especiales/2003/12/resumen/prota_01.html イラク戦争の始まりとなった。

3月20日には、対テロ戦争として、その政権打倒目的の米英の作戦が始まった。国連の安全保障委員会では、5月と10月に1483と1511決議が行われ、イラクへの援助、多国家軍の滞在が承認された。

https://www.defensa.gob.es/misiones/en_exterior/historico/listado/asistencia-irak.html

人道支援

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スペインの国民党アスナール政権では、4月9日に南部のUm Qasar地方への人道支援目的の派兵を行い、陸軍の医療部隊を乗せた艦船を派遣した。また、総じて食料14トン、水4万6千リットルや必需品を運搬・支給した。また、現地での道路・学校・水道施設の改修も行った。また8月には、An Najaf, Al Qaisiya 地方へ任地が変わり、現地の安全確保・再建の目的で、南米5か国の兵士との合同部隊が派遣された。これらは、1300人規模で2交代で、2004年5月末まで、延べ2600人が派遣された。

https://www.defensa.gob.es/misiones/en_exterior/historico/listado/asistencia-irak.html

https://cadenaser.com/ser/2003/08/29/actualidad/1062120560_850215.html

反対運動

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このような米英西のイラク攻勢は、諸国における反発を起こし、派兵前の2003年2月25日には、主要国で同時デモ行動が行われた。スペインでは、政府公表で、マドリード56万人、バルセロナで25万人の人々がデモに参加したとされている。https://elpais.com/internacional/2003/02/15/actualidad/1045263602_850215.html

このような反対運動は、主に、左翼系、反米の民間団体がベースとなっており、「戦争に、No」という標語のもと、とくに戦争の支持国内で高まり、スペインでは、市民の大半が戦争反対というムードになっていた。また、米国の背後の動機は、「石油産業がイラクの石油を支配したいから」、という動機によると考えられていた。また、スペインの場合は「例え人道的な派兵であっても、イスラム側に誤解される」というものであった。戦争が始まっても、その反対運動は続いてはいたが、徐々に沈静化していった。

その後の10月には、マドリードで、35か国を招いたイラクへの「寄付者のコンフェレンス」が行われたことで、再び、デモが行われたが、より小規模なものになった。https://elpais.com/diario/2003/10/21/internacional/1066687206_850215.html

https://www.elmundo.es/elmundo/2003/10/24/internacional/1067014386.html

イスラム関連の事情

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スペインでは、80-90年代から様々なイスラム系のグループが定着しはじめ、イスラム系移民の間で、新しいメンバーを獲得して行った。アメリカ同時多発テロ事件より、スペインへの権益にも影響が出始め、特に、アルジェリア人、シリア人の流れのグループの行動が見られた。たびたび、逮捕が行われていた。

https://www.elmundo.es/documentos/2006/04/11/autohtml/index.html?cual=1440

https://www.elmundo.es/elmundo/2004/03/13/espana/1079208645.html

テロ事件

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イスラム圏からの警告

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情報筋からの警戒情報

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  • 2003年3月と年半ばに、スペインの警備隊は、米国イラク戦争への関係を持つことで、「西洋の抑圧者」の印象を与える可能性を指摘し、何らかのテロ行動の可能性を警告。
  • 同年、NATOの情報幹部とスペインの情報局(CNI)の責任者は、「イラク戦争の開始と共に、同国での聖戦主義者によるテロの可能性が高まった」、と伝えた。
  • 同年10月27日、CNIは、政府に対して「イスラムテロの脅威の評価」という情報を提出した。また、11月には、危険人物ラマリについての情報を公開した。
  • 同年12月、ノルウェーの防衛研究所は、アル・カイダに近いグループの発信した文書として、「スペインがイラク侵攻の同盟国の中で弱い標的であるゆえに、テロの危険性がある」、と警告した。
  • 事件後のCNIによると、この時期に、2人の危険人物をマークしていたが、内務省と、その管轄である国家警察と警備隊との協力関係が出来ていなかった、と告発していた。https://www.vozpopuli.com/espana/cni-zapatero-policia-guardia-civil-11-m.html

ETAによるテロ

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国内のバスク地方をベースとするテロ組織、ETA(バスク祖国と自由) は、スペイン各地で、1959年から2011年までの約50年間で、約3500件のテロ事件を起こし、853人の死者、7千人以上の負傷者をだした。https://www.abc.es/espana/abci-historia-cifras-853-asesinatos-3500-atentados-y-mas-7000-victimas-202110200115_noticia.html

当時のアスナール首相は、首相候補であった1995年時には、当人も車爆弾を仕掛けられて、辛うじて逃れていた。ETAに対して積極的な対策を行っており、

https://www.lasexta.com/programas/anatomia-de/cuando-eta-intento-matar-aznar-coche-bomba-radiografia-atentado-que-pudo-cambiar-historia-espana_20230604647ce72f21debe00019db0e8.html

。この為、2001年の米国貿易センターの事件でも、国際テロに対する積極的姿勢を示した。ETAは、2003年時前後にも、マドリード市民をテロ対象とした、以下のようないくつかの行動をとっていたが、事前に防止されていた。この為、後に、ETAの犯行と誤解を引き起こす原因となった。

https://www.elmundo.es/eta/atentados/2003.html

  • 2003年12月24日、ETAのメンバー2人は、マドリード市北部のチャマルティン駅行き列車に28,20kgの2つの旅行用トランクに仕掛けた爆発物を持って乗車し、駅で、午後4時前に爆発させる予定であったが、途中駅で逮捕された。

https://www.elmundo.es/elmundo/2003/12/24/espana/1072267028.html

  • 2004年2月29日には、ETAのメンバー2人は、2台のバンで進み、1台には536kgの爆発物を準備した状態で運搬していたが、マドリード州に東から入る前に逮捕された。彼らの持っていた地図には、アルカラ・デ・エナーレスからマドリード市に入る箇所にマークがしてあった。彼らは、このま車爆弾を放置して、別の1台で逃走する計画であった。

https://www.elmundo.es/elmundo/2004/02/29/espana/1078054083.html

事件の経過

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3月11日の列車同時爆破事件

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爆発が発生したのは、2004年の3月11日木曜日早朝で、マドリード市からは、北東に位置するアルカラ・デ・エナーレス市から連続して出発した4便の列車で発生した。これらは、それぞれ異なった最終目的地であったが、南回りで、市の南側の中心駅であるアトーチャ駅を経由する便であった。いずれも6両編成で、通勤・通学の時間帯で、途中駅からの乗客も載せてかなり混んでいた。

4便の列車は、

https://www.elmundo.es/documentos/2006/04/11/auto_11m.html

Auto de procesamiento

。(以下は、爆発時系列による。)

  1. 列車、7:01発。アトーチャ駅の第2プラットホームに停車中で、7:37:47に6両目、7:38:36に5両目、7:38:40に4両目の3回の爆発があった。その後、1両目で起爆しなかった爆発物が発見され、9:59:18に、爆発物処理班によって爆破処理された。
  2. 列車、7:10発。この列車は、2階建て車両で、この為、死傷者が多数となった。アトーチャ駅より一駅手前のエル・ポソ駅から発進するところであった。7:38に、4と5両目で爆発が起こった。また、後に駅のプラットフォームの3両目の位置にて、爆発物が発見され、爆発物処理班により、爆発処理がなされた。
  3. 列車、7:14出発。この列車は、アトーチャ駅から2駅手前のサンタ・エウへニア駅から発進しようと、ドアが閉まったところで、7:38に4車両目で爆発が起きた。
  4. 列車、7:10出発。この列車は、アトーチャ駅から800m南側(手前)で、テジェス通りと平行の位置の線路上にあり、アトーチャ駅のプラットホームが空くまで待機中であった。7:39に1,4,5,6両目で爆発が発生した。

車両は、爆発の威力で、屋根や壁が打ち破られる状況であった。爆発物は、上記の順に、4、4、1、4の計13個が置かれたとみられる。これらは、10個爆発し、2個は不発で後に爆破処理、別の1個は不発で、後に発見された。13番目は、上記の列車、2の遺留品の中から、手提げ型のスポーツが派出所で発見されており、これが、捜査の手がかりとなった。一方、これに関する疑惑も生じることになった(後述)。破壊された車両の多くは、72時間後には処分に回されておりhttps://www.elmundo.es/especiales/11-m/investigacion-sentencia/9.html、その後、爆発物の検証には使われず、これは、後で問題になった。

https://archive.org/details/20071031_Sentencia_65-2007/mode/2up

高速鉄道で爆発物発見

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それから約3週間後の4月2日午前中、マドリード・セビリア間の高速鉄道(AVE)の線路上でプラスチックの袋に入れられた爆発物が、トレドから20キロメートルの地点、マドリードからは61キロメートルの地点で、巡回していた国鉄職員によって発見された。この時点では、事件の犯人はまだ逮捕されていなかったことで、何らかの行動が継続される可能性かあった。この為、重要インフラである線路は、念入りなチェックが行われていた。この日は、朝7時半に、警備隊がチェックをしたが、何もなかったので、午前中のその後の時間に、置かれたものと見られた。これは、爆発処理班によって、午後2時過ぎに制御された。この爆発物は、12キログラムの「Goma2 Eco」で、136メートルの電気ケーブルが付いていたが、起爆装置は付けられていなかった。そのため、犯人らは、列車の通過に合わせて、手動で起爆させる算段であったが、急いで逃走したもの、と考えられた。政府では、これは、3月11日に使われたものと同じ爆発物であるとみなした。

https://elpais.com/diario/2004/04/03/espana/1080943201_850215.html

Descubierta una bomba del mismo explosivo del 11-M en las vías del AVE Madrid-Sevilla

https://www.elmundo.es/elmundo/2004/04/02/espana/1080911404.html

El Gobierno cree que el explosivo del AVE es igual que el del 11-M

2024-06-21

レガネス自爆事件

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さらに、翌日の4月3日午後に、マドリード市の南西、レがネス市北部で、ある住宅ブロック内の1軒に、テロ実行犯が集まっていたところを、警察が探知した。これは、サルサケマド区のカルメン・マリティン・ガイテ通りの建物の地上2階部分にあった。この場所が、どのように特定されたかについては、3つの説があり、警察の中でも、これは断定されていない。その1つは、爆発物の袋の中にあった携帯電話前払いカードを追跡した結果であるという。警察は、このブロック内に潜んでいたが、犯人の1人が、ゴミ出しに中庭に現れた時、私服警官が、郵便受けを覗いていたことで、警察官と気が付き、仲間に大声で知らせながら、2メートルの塀を超えて逃走した。この為、内部にいた者達は、警察が包囲していることを知ったことで、立てこもることになった。このため、この夕刻、18から20時までの間に、内部から発砲があり、警察の特別機動隊は、説得勧告をしながら、突入準備をしていた。中からは、叫び声やコーランの唱和の声が聞こえた。やがて、機動隊は、入り口のドアを小爆破で開錠をし、投降を呼びかけつつ、催涙弾を内部に発射した。

追い詰められた実行犯らは、21:03に自爆を決行し、建物は大破した。その為、内部にいた実行犯7人と、機動隊員1人が死亡(大腿部の血管損傷による出血)、他に11人が負傷(4人重傷、1人は右足切断)した。20世帯の住民は、事前に避難していたが、建物は、主に地上2階部分が空洞になり、床に10メートルの穴が開いた。これは、15から20kgの爆発物2個が爆発したものと考えられる。

爆発により、人体は、判別が難しい状態になっており、中庭にあるプールの中などで発見されたものでは5人分で、13日に、法定医師により死者は7人と断定された。ここでは、200個の起爆装置も発見された。自爆者らは、実行の前に、計14の通話をしていたが、その中の1件は英国向けであった。

https://www.abc.es/espana/abci-terroristas-tenian-euros-para-financiar-campana-atentados-

また、捨てられたゴミ袋の指紋から、住宅から逃げたのは、ダオード・オウナネ(Daoud Ouhnane)で、この指紋は、後述するカングー車からも検出された。https://www.europapress.es/nacional/noticia-11-mochila-vallecas-era-casi-identica-bolsa-entregada-peritos-patron-referencia-20070523121706.html


https://www.elmundo.es/elmundo/2004/04/03/enespecial/1081016920.html#:~:text=%22A

https://www.elmundo.es/elmundo/2004/04/03/espana/1081016793.html 

https://www.youtube.com/watch?v=D4ktEnNMgwk El Mundo

https://www.abc.es/espana/abci-guardia-civil-descubre-trama-venta-explosivos- La Guardia Civil descubre la trama de la venta de explosivos usados en el atentado de Madrid

墓荒し

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この件で殉職した警察特別機動隊員は、南マドリード墓地に埋葬されていたが、後の4月19日未明に墓が暴かれ、死体が損傷され、焼かれるという事件があった。この墓石は180kgの重さがあり、4人ほどが行動したとみられる。墓守が炎を見て駆け付けたが、犯人らは、逃走した。レガネスの死者の家族や仲間による行動と見られる。https://www.elmundo.es/elmundo/2004/04/19/enespecial/1082373461.html

捜査(時系列順)

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ルノー車の発見

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同3月11日の爆発事件後の、朝9時前、列車の出発点であったアルカラ・デ・エナーレス駅から100mと近い、インファンタド・デ・アルカラ通り40番の集合住宅の門衛から、警察所に通報があった。その早朝、ルノー車カングー(業務用ミニバン)が、その住宅棟の前に駐車されて、不審な3人の男がいて何かしており、1人の背の高い男が、背負いバッグと手提げ型のスポーツバッグを持って駅の方に向かって行き、2人は残っていた、というものであった。その日は、寒くなかったが、頭部を覆っていたので、変に思ったという。翌3月12日に、その車は2月28日にマドリードで盗まれた車であることが、判った。

https://www.elmundo.es/elmundo/2006/04/25/espana/1145930451.html

この車には、最初に到着した2台の車で到着した警察官達の目視によると、運転席前に名刺1枚、グレーのカセットテープがあり、後部荷台には何もなかったという。その後、爆発物探知の訓練犬が到着し、検査が行われたが異常が無かったので、14:30に、マドリード市の北西にあるカニ―ジャスの国家警察本部の爆発物処理隊(TEDAX)の部署に収容された。しかし、15:30には、荷台には、爆発物「Goma2 Eco」の入れ物と国産の7個の起爆装置があった、と報道された。あるいは、それは座席の下から見つかったとされている。また、カセットテープは、アラビア語のテープであったが、コーランの朗読という風に報道された。この為、イスラム系の犯行の路線が、出てきた。この車は、犯人らが駅まで到着するために使われたもの、と見なされた。さらに、6月になると、別の車、Skoda社製 Fabia車が、近いところで発見された。

https://www.larazon.es/espana/incognitas-11m-noveno-terrorista-trenes-celula-autore

ヴァジェカス交番でのスポーツバッグの発見

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3月12日(金)の午前3時、アトーチャ駅からは2つ手前の街ヴァジェカスの交番にて、爆発物の入ったバッグが発見された。これは、「爆発物13」と呼ばれている。ここには、エル・ポソ駅からの残留品が集められており、その中の1つから発見された。当初は、携帯電話が鳴っていたため検査されたと報道されていたが、法廷では、荷物を手作業で整理していて、午前2時半に運ばれてきたものの中に見つかったと証言されている。これは、別の場所(Parque de Azcón)に、車3台で慎重に運ばれた。これは、手提げ型のスポーツバッグであって、10kgの「Goma2 Eco」、銅製の起爆装置、携帯電話機(ミツビシ、Trim, T110)、破壊力を強めるための金釘類が入っていた。これは、配電線が外れていたことで爆発しなかった、と見られている。この携帯電話機やカードの追跡から、その後の様々な捜査が展開していった。この時点で、ETAの使う起爆装置は、アルミ製であることや爆発物が異なる事で、ますますイスラム勢力の犯行である方向性が出てきた。

https://www.20minutos.es/noticia/213577/0/tedax/mochila/vallecas/

疑問点

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このバッグについては、疑問点が挙げられており、後々にも問題が残った。

https://www.elmundo.es/elmundo/2004/04/19/enespecial/1082356558.html

  • 爆発物処理隊の責任者である マンサノ隊長(Juan Jesús Sánchez Manzano)は、この爆発物を最初の処置として、X線写真を撮って内部を確認していた。しかし、デル・オルモ捜査判事には、それを提出せず、また5月には請求されたにも拘わらず提出せず、爆発しなかった理由を製造品の欠陥であるとか、様々な理由を付けて報告していた。その内、地方警察科学部は、判事に、当のX線写真のの入っている一連の写真を、判事に送っていた。これで配線が接続されていなかった件が判り、判事は、マンサノ隊長に対して激怒し、改めて報告書を求めた。12日後の7月27日に、配線切れの内容が、改めて報告された。これには、接続用の絶縁テープを巻き付けた痕跡もなかった。https://www.almendron.com/tribuna/los-agujeros-negros-del-11-m-xvii-la-mochila-numero-13/
  • この写真は、インターポルに送られ、国内より先に米国のメディアで公表されるという経緯になった。
  • また、爆発物を起動させるには、アラーム機能だけで可能であって、カードはいらないことが指摘されている。
  • 後に、判事に提出された手提げバッグが、本物ではなく、後に安売り店で購入された類似のバッグであったことが判った。また、別の荷物集積所から呼ばれて行った警官は、ニコンカメラで爆発物の写真を撮影したが、フイルムは「早く画像を作成する」ということで取り上げられた。しかし、証拠品としては提出されていない、と証言している。

https://www.europapress.es/nacional/noticia-11-miembro-policia-cientifica-asegura-carrete-fotos-mochila-vallecas-desaparecio-20070503112822.html

携帯電話とカード

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捜査側は、12日に発見された携帯電話とカードを辿ったところ、マドリード市ラバピエス区にある携帯関係の店に行きつき、13日、そこの店主であるハマル・ゾウガム(Jamal Zougam)が逮捕された。この店はその4年前に開店しており、外国人向けの長距離電話店で、携帯電話の販売・修理もしていた。彼は、イスラム関連の捜査をしていた判事の2001年報告書の中で、アル・カイダ組織に関連する告訴状をまとめた35人の中に名前があった人物であったが、当時は逮捕されていなかった。アセベス内務大臣は、13日午後8時、記者会見を行い、3人のモロッコ人とインド人2人を逮捕した、と公表した。後にインド人は、関係が無いと判明した。

その後の捜査で、事件の8日前に、犯人らが、タイマーとして使う携帯電話機を9個と前払いカードを、ゾウガムの店で購入したという事に辿りついた。彼らは、携帯電話を犯行に使用したが、一方、通話の繋がりは、国際通話も含めて、捜査への手がかりを与えた。

爆発物の出所

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3月15日には、爆発物処理隊は、爆発物や起爆装置が、スペイン北部のアストリアス州アヴィレスからのものであることを断定した。3月18日には、ホセ・スアレス・トラスショッラス(José Emilio Suárez Trashorras、27歳)が、爆発物を犯人らに供給した容疑で逮捕された。https://www.abc.es/espana/abci-espanol-facilito-explosivo-para-minero-retirado-200403220300-962578487932_noticia.html

その後、彼の妻、義兄、周囲のグループなども、一時逮捕された。https://www.abc.es/espana/abci-detenido-cunado-minero-sumistro-explosivos-terroristas-200403300300-962720650898_noticia.html

彼は、鉱山で、5年間働いていたが、2002年に統合失調症で仕事を辞めていた。2001年には、麻薬密売で逮捕されたこともあり、その後、警察の麻薬情報提供者にもなった。

彼は、同州のコンチータ鉱山から爆発物を盗み、犯罪に使われる可能性を知りながら、ハマル・アフミダン(Jamal Ahmidan)、通称「エル・チノ」に何回かに分けて、合計200kgを渡したとされている。テロ事件前の2月に、アフミダンは、アストリアスに車で来て、爆発物を受け取ったとされている。その時は、スアレスは、爆薬物110kgや起爆装置を渡し、その代償として、7千ユーロと麻薬ハシシ26kgを受け取ったという。彼らの接点は、アストリアス州の刑務所に収監されていた、あるモロッコ人が、彼の義兄とが知り合いになり、仲間に知らせたことで、「エル・チノ」と知り合うようになったという。この鉱山では、毎年2万kgの爆発物が使用されるが、漁に使うという目的で、少量が横流しされることもあった。https://www.abc.es/espana/abci-policia-llego-minero-vendio-dinamita-tarjeta-movil-y-no-delacion-200405070300-9621357203482_noticia.html

ジャマル・アフミダンは、モロッコ人で、麻薬の密売者であり、テロでは、中心的な役割を担った。

その後の捜査で、スアレスの仲間であったイヴァン・レッシ(Iván Reiss Palacio)、通称「ジミー」は、6月23日、逃げていたカナリア諸島にて、爆発物をバスで運搬した容疑で逮捕された。彼は、コンチータ鉱山で働いており、爆発物をマドリード市まで、旅行用スーツケースに入れて運んだという。

https://www.abc.es/espana/abci-detenido-canarias-minero-asturiano-traslado-au

Detenido en Canarias un minero asturiano que trasladó en autobús explosivo del 11-M

Las primeras fueron las de Jamal Zougam, Mohamed Chaoui, Mohamed Bekali Butaliha, Suresh Kumar y Vinay Kholy, estos dos últimos de nacionalidad india.

https://www.abc.es/espana/abci-terroristas-pagaron-siete-euros-y-hachis-kilos-explosi

Los terroristas del 11-M pagaron siete mil euros y hachís por los 110 kilos de explosivo

Grupo Islámico de Combatientes Marroquí

爆発物は白い色であって、ETAが通常使用するダイナマイトTitadyn の赤い色ではないことが確認された。

隠れ家

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3月26日には、マドリードの南東30キロメートル、アルカラからは、南に34キロメートルの郊外、モラタ・デ・タフニャ(Morata de Tajuña)と呼ばれる地にある仮住宅が捜査された。ゾウガムが、事件の数日前に、自らの携帯電話を使用していた事で、発信地のこの場所が、14日には既に、警察に知れていた。しかし、関連者がここに近づく可能性があった為に、しばらく見張られていたものである。ここは、住宅整備がされていない荒地で、5年程前に土地を借りたモロッコ人達が、やがて自分達で不法に住宅を建てていた。この持ち主は、アブ・ダバ(Abu・Daba)と呼ばれる男で、アメリカ同時多発テロ事件の関連で、スペインのアル・カイダの中心者として2001年から収監されていた。妻は、その間、ハマル・アハミダンにこの住宅を貸した。

https://cadenaser.com/ser/2005/01/22/espana/1106355011_850215.html

。こここは、道路は狭く周囲の地所から離れており、何かを隠れて行うには格好の場所であった。彼らは、ここをベースにして、2003年の秋から暮れには、テロの構想を練っていたと考えられた。

警察は、ここで、数個の起爆装置や爆発物、文書、電話カード、パソコン等を発見し、また、2人のシリア人の指紋を採取した。さらに、最初に発見された商用バン、カングー車の車輪の跡があり、実行犯らは、ここで爆発物を製造し、前夜、ここに寝泊りして行動に向かったと考えられた。            

2月の末に2人のモロッコ人が、ある金物店で、地所の周囲に張る緑色の囲い用のプラスチック布を購入した事がわかっており、爆発物の作成が、ここで行われた事を裏づけている。

https://cadenaser.com/ser/2005/01/22/espana/1106355011_850215.html

https://www.elmundo.es/elmundo/2005/03/09/espana/1110374195.htmlhttps://www.libertaddigital.com/especiales/comision-11-m/noticia.php?cpn=1276222932

もう1台の車の発見

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犯人らに使われた車両が、複数あったのではないかと考えられていたが、6月13日、同じアルカラ駅の近くで、Skoda 社製Fabia車が発見された。https://www.elmundo.es/elmundo/2006/05/08/espana/1147079549.html

この車は、事件当日に発見されたカングー車から30m離れた同じ道路に駐車されており、これは、住民が警察に届けたもので、3か月以上駐車されていたという。これは、レンタカー会社に属していたものであったが、3年9月に、別の州で盗まれていたものであった。https://www.lavozdegalicia.es/amp/noticia/espana/2004/07/24/policia-hallo-junio-coche-relacionado-atentados-11-m/0003_2882823.htm

これは、当初は、盗難車ということで、レンタカー会社に一旦引き渡され、社員が洗車をしたが、トランク内に旅行鞄があったことで、警察に連絡した。その調べにより、テロ犯行に使われた車であるとして、改めて捜査された。この鞄からは、自爆者の1人、モハメッド・アファタ(Mohamed Afatah)に関する衣類やコーランのオーディオテープ等が発見された。https://www.europapress.es/nacional/noticia-11-policia-confirma-localizo-skoda-fabia-funda-pistola-cintas-arabe-20070320142233.html

https://cadenaser.com/ser/2004/07/24/espana/1090626613_850215.html

疑問点

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しかしながら、この車は、警察が事件当日、カングー車の駐車されていた近辺を他の車両が無いかどうか入念に調べており、しかも、現場写真もあり、当日やその数日内には存在していなかった。後に、だれかが、注目の場を選んで証拠ありとばかりに放置した可能性があり、疑問が残った。

https://www.elmundo.es/elmundo/2004/08/05/espana/1091672125.html

実行犯

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このグループの中心格は、セルハネ・ベン・アブデマジ・ファルクヘット(Serhane Ben Abdemajid Farkhet «el Tunecino»、通称 エル・チュネシノ)、第2の位置、ハマル・アハミダン(Jamal Ahmidan、通称、エル・チノ)であることが判明した。レガネスの住宅での自爆は、この2人の他に、アジェケマ・ラマリ(Allekema Lamari)、アブデンナビ・コウンジャ(Abdennabi Kounjaa)、モハメドとラチッド・オウラド(兄弟)( Mohamed y Rachid Oulad )、リファート・アノアール(Rifaat Anouar)で、計7人と断定された。

3月25日までに、逮捕されたのは、20人ほどであったが、その内12人が容疑者となっていた。実行犯は、レがネスの住宅で自爆した7人と他の身元不明の1人の合計8人。ジャマル・ゾウガムを列車の中で見た、という目撃者もいたが、これは、彼の写真がメディアで多数回掲載されたことによる印象の刷り込みと見られ、定かではなかった。

era Otman el Gnaoui. Su ADN se encontró en la ropa que dejó abandonada a las 7:45 –unos vaqueros, una sudadera, unos guantes y una bufanda– un hombre que fue visto cambiándose a esa hora entre dos casetas de obra en la Gran Vía del Este, junto a la estación de Cercanías de Vicálvaro.

上述のレがネスの住宅からは、36000ユーロの現金が発見された。これは、中心人物であった、アブデルマジド「エル・チュネシノ」の元で集められたと考えられている。隠れ家を契約するのに、6千ユーロ、また、爆発物を得るのに、少なくとも7千ユーロ、さらには、その倍の支出があったと考えられる。彼らはモロッコからの麻薬ハシシ、アヘンの密売で資金を得ていた他、宗教施設から寄付があった可能性もある。このように、イスラムテロは、西洋諸国に向けての麻薬密売や小犯罪を資金源とし、移民の貧困などの不満を吸い上げて、人材を獲得するという典型的な犯罪形態となっている。

https://www.abc.es/espana/abci-terroristas-tenian-euros-para-financiar-campana-atentados-200404070300-962852732498_noticia.html

背後組織

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これらの捜査が進む中で、モロッコのイスラム過激組織である、モロッコ・イスラム戦闘団(GICM)との関連が疑われた。この組織は、98年にアフガニスタンで創設されており、アル・カイーダの支局的な存在である。この組織は、2003年5月16日のカサブランカ同時テロの犯行の母体と言われている。

この組織の欧州代表者は、モハメッド・ガルブジで、ロンドンに滞在していた。また、その活動家で、アブデル キリム・メジャティといわれる人物が、この事件の指令をした疑いがもたれている。また、彼が、事件の数日前まで、当国に滞在していた可能性もある。

 この人物は、カサブランカの中流の出で、母親がフランス人の為、西洋人の風貌を持ち、欧州で教育を受け仏語をモロッコ語よりうまく話せるという。この為、どの国にでも容易に出入りでき、扮装を凝らして出没する百面相である。また、彼は、アフガニスタンやチェチェンで訓練を受け、爆発物や偽造文書作成の技を身に付けている。他の事件に関連して、モロッコ、サウジアラビア、米国からも手配されている。また、モロッコには、この他にイスラム過激組織が4つあり、約千人の聖戦志願者がいるという。

声明等

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テロの起こった当初は、誰もがETAの犯行と捉え、バスク州のイバレチェ知事は、9時半には、犯行批判の声明を出した。

Brigadas Abu Hafs Al Masri. En un e-mail enviado al periódico Al Quds Al Arabi: Las Brigadas de Abu Hafs al Masri prometieron en su último comunicado

https://www.seguridadinternacional.es/?q=es/content/referencias-espa%C3%B1-en-la-propaganda-yihadista#seccion12

死傷者

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3月23日時点での死傷者数の公表は、死者190人、負傷者は1857人であった。また死者の内47人は外国籍であった。この件では、事件後の混乱により、「自爆者がいた」という流言があったり、不明者の問い合わせなどがあった。https://www.elmundo.es/elmundo/2004/03/23/enespecial/1080047286.html

後の5月に負傷した女性から生まれた新生児が死亡し、さらに2014年には、10年間昏睡状態であった女性が死亡したことで、死者は、一般人192と特別機動隊の1人で、193人となった。また、負傷者は、2千人前後と記述されることもある。

https://www.elespanol.com/reportajes/20170310/199730525_0.html

。死者の主な出身国は、スペイン142人(1人)、ルーマニア16人、エクアドル6人、ブルガリアポーランドペルーが各4人等、諸外国1人づつの国等、全16か国となっている。マドリード市の東側や南側には、移民が多く住む地域でもあったことで、外国籍の人々の死傷者が多くなったという。

国内政治への影響

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国政選挙への影響

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このような非常事態の中、国政選挙は、事件2日後の3月14日に行われた。選挙前の予想では、政権党の国民党の優勢が伝えられており、絶対多数を獲得できるかどうかが、焦点になっていた。しかし、野党であったスペイン社会労働党(以下、社労党)が第1党となり、この事件の影響が大であったのは、明らかである。

社労党系の動き

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以前から、イラクの大量破壊兵器が発見されなかったことから、社労党は、大衆党に対して、「うそつき」キャンペーンをしてきた。このテロ事件に際して、政府が、当日、「ETAによる犯行」という見解を公表していたことについて、社労党側は、「政府が何か事実を隠している」という印象を与える事に再び成功した。社労党系の報道機関では、「イスラムテロであったならば、社労党が勝つ」という暗黙の共通認識のもとに、「自爆死体が発見された」というような報道もあった。また、警察労組は、入手した情報を社会党系報道機関に横流しをしたとも言われている。また、社労党のある人物は、ETAの行動も国民党の事前工作であるかのような発言をしていた。

また、投票前日の土曜は、考察の日として選挙活動は、禁止されているが、左翼勢力は、インターネット等を使用して、人々を動員し、大衆党の本部や地方本部前に「自発的な」集合をすることで、政権党に圧力をかけた。「転送しろ」というような言葉が流行語のようになった。このような情景が、全国に報道された事で、選挙の流れが影響を受けた事は否めない。このようなテロや災害の混乱や、人々の恐怖に乗じたデマや飛語が起こりうる事は、これからの教訓となった。このため、選挙後、政府は、情報局や捜査陣の刻々の書類報告を公開して、ETAによる犯行という見方が報告されていた事を示し、ETAによる犯行との当初の見解は、政府の意図的操作ではない事を証左した。 

テロの目的

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これは、国政選挙を目前にして実行された事で、単に復讐することや恐怖の拡大を図ったのではなく、イラク戦争を積極的に支持したアスナール政権を打倒する目的があったと考えられた。また、野党の社労党が、イラク派兵撤回を公約にしていた事で、後方攻撃をすることよって戦わずして撤兵させる目的も達成できた。アスナール首相は、反テロの強力な指導者であり、また、キリスト教国家に打撃を与え、同時に、キリスト教政党を政権から追い落とし、反キリスト教の左翼政権を樹立させた事など、イスラム勢力にとっては、何重もの得点があった事になる。しかも、比較的簡単に、経費は少なく政権交代という大きな効果を得たことになった。また、西欧には、数百万のイスラム信徒がおり、移民二世を勧誘する事も容易であって、同様な事件が、これからも繰り返される可能性がある。

このように、イスラムテロは政争を利用し、社会党はテロを利用、また、ヴァスク、カタルーニャ政党は、は、社会党を利用して独立の契機を醸成するという結果を生み出す事になった。

短絡的にみると、この事件は、イラク戦争に関連しているかのようにみえるが、ビン・ラーデンは、9・11事件後の声明で、「アル・アンダルス」(イベリア半島を8百年に渡って支配したイスラム時代)に言及しており、失われた領土を奪還する野望がある事を窺わせている。彼らの目的は、キリスト教国家を征服しイスラム世界を樹立する事にあり、欧州と米国の分断は、彼らの願う所である。この点においても、アスナール首相は、欧・米の連結に努力したが、その後の社労党ザパテロ首相は、反米、親仏独方針と、彼らの願う方向に沿う方針をとった。

 国内のモロッコ人は、33万人であり、また、これ以外に非合法移民も多く存在する。さらに、毎年、多くの移民が、押し寄せてくる中で、対テロ対策は、非常に困難なものとなった。