利用者:Duke-Sillywalker
個人ページに何をここまで、とお思いの諸兄もございましょうが、執筆の際の参考になりそうな表記スタイルをここで試してる訳です。その辺をご容赦くださいまし。
Duke-sillywalkerはこんな人(バカ)なのヨ | ||||||||||||
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Duke-Sillywalker(デューク・シリーウォーカー、1971年8月1日 - )は、岡山県岡山市出身の男性である。出生地は広島県広島市。血液型はA型[1]、星座は獅子座、動物占いはトラ、G感性[1]はG3[2]である。 専門的に執筆している項目はコサキン、カンコンキンシアター。その他コサキン関連と'80年代〜'90年代中期迄のゲーム関連、及び映画関連に詳しい。
奇妙なユーザー名の由来
[編集]そもそも利用していたネット上の汎用個人IDより。大ファンでもあるモンティ・パイソンの名作スケッチ(コント)と、スターウォーズの主人公から作った。直訳すると「バカ歩き侯爵」となる。
変に細かい生い立ち
[編集]父は1935年生まれ福岡県大牟田市(出生地は柳川市)出身、母は1946年生まれ広島県広島市出身。父は配管電気溶接工の職人で全国を渡り歩いていた。母は高校卒業後広島市内の太田洋行(現在の株式会社ヤマハミュージック瀬戸内・広島店)で販売員の仕事をしていた。お互いにクラシック音楽ファンという共通の趣味で知り合い、1969年に結婚。当時水島工業地帯(主に川崎製鉄水島製鉄所)での仕事をしていた為、結婚を機に水島に居を構える。
- 1971年8月1日早朝、かねてより母親が入院していた、実家に近い広島市内の市民病院にて誕生。3ヶ月後にはレッド・ツェッペリンの広島コンサートが開催されている。
- 倉敷市立第五福田幼稚園→倉敷市立第一福田小学校→倉敷市立福田南中学校→岡山県立倉敷古城池高等学校と進み、高校卒業後は学校法人電波学園東京電子専門学校に進学の為上京(豊島区池袋にて下宿)。一年次を1年留年した末二年次の3月に自主退学。その後は帰岡し20代のほとんどをアルバイトで無駄に過ごす。専門学校在学中の[1991年]]3月に実家が倉敷市から岡山市に転居。更に2002年2月には父方の祖母[3]の財産を最後まで面倒を看る事を条件に受け継ぎ、それを元にマンションを購入。
卒業校の先輩/後輩
[編集]- 岡山県立倉敷古城池高等学校(8期生)
曲がりくねった職歴
[編集]- 1991年3月に電波新聞社刊マイコンBASICマガジンのライター集団「レスキュー隊」に応募し当選。第3期レスキュー隊員となる。実質的には'91年5月・6月号の2号に読者からのダイナソアの質問に解答という形で寄稿したのみであったがこれが事実上初めてのアルバイトであった。[4]
- 1993年3月,東京電子専門学校を自主退学後、しばらくはゲームデザイナーを目指すべくスクウェアや日本ファルコムなど常時スタッフ募集をしていたゲーム制作会社にRPGの企画書を送っては落とされるという事を繰り返す。その間はバイトも何もしてはいなかった。
- いわゆるニートのような生活をしていれば家族にとってみればタダ飯喰らいの厄介者でしかないのはいうまでもない。結局3ヶ月程経ってゲーム会社を応募するのを(一旦)諦め、自宅からほど近いジーンズショップで販売員のアルバイトを始める。
- 東京時代にも友人を作る事もなく、対人面においてかなり不安はあったのにも関わらず何故接客業を選んだのかは振り返ってみても未だよくわからないが結局は家から近かったからというより他に理由はない。
- バイトを始めた当初は正規品を扱っていたその店はその年の10月からアウトレット品も扱うようになり、そちらの店舗のメンズジーンズ担当となる。その後1995年7月に車の免許を取得した事がきっかけで1996年から正社員に昇格。それと同時に正規品販売の店舗に異動。更に1997年4月には倉敷市灘崎町のアウトレット支店に異動となるも頑なにそれを拒み一ヶ月後に元の店舗に再異動。この事がきっかけで上層部に目を付けられ翌年の1月に退職する事になる。
- ジーンズショップを退職した後しばらくは再びゲーム会社に再び企画書を送っていたのだがスクウェア社の書類選考をパス[5]し、当時目黒にあった本社に面接に行く。その前後の日曜にはエアロスミス、ローリングストーンズの東京ドーム公演を観に行っている。スクウェア社の面接は結局落ちた。
- その年の4月、近所の知人の紹介もあり、ベネッセコーポレーションの子会社でデータ出力のアルバイトを開始。同時期には通勤用にと50ccのバイクを購入している。しかし、その中にいた極端な体形のアルバイトの人を陰でコソコソ悪口を言う同僚たちとの人間関係になじめず、また致命的な作業中の失敗をした事がきっかけで2000年6月に強制的に退職させられている。
- この会社でのバイト期間中、地元タウン誌主催のライター養成セミナーに参加。DTPの分野に興味を示す。また退職後にヒューマン・アカデミーでDTPデザイン講座を受講。本格的にDTPの道を志す事になる。が、ぽっと出の実務未経験者を雇ってくれる程懐の深いデザイン事務所は皆無に等しく、様々な会社を受けては落とされる、という体たらくを更に数年間続ける事になる。
- 2002年4月に転機が訪れる。地元のゴルフショップが発行していたゴルフ情報誌がフリーペーパーから有料の月刊誌として再創刊する際のスタッフ募集に応募し、デザイン兼編集スタッフとして本格的にDTPの仕事を始める事になる、のだがゴルフの事をほとんどわからないのにデザインだけでなく編集もしなければならない事が逆にプレッシャーとなり、第2号の編集会議の翌日に辞表を出してしまう。
- その後約2年間は妹の当時務めていたエステティックサロンの依頼でリーフレットやチケットなどの印刷物を制作。2004年5月からは創業80年にもなる幟印刷の会社でデザインのアルバイトを始める、はずであったが会社側の目論見としては印刷作業(シルクスクリーン)をさせたがっており、双方の意見の相違により半年後に会社側から一方的に解雇を言い渡される。
- 翌年の初夏に地元百貨店のチラシを専門的に制作してきたデザイン事務所を受け、実績が全くないにも関わらず面接のその日に採用が決定。翌週から働き始めるのだが実際問題慣れないオペレーションの手際の悪さから僅か3週間で辞めさせられてしまう。
- しかし、3ヶ月程経った10月下旬に再びそのデザイン事務所から連絡があり、破格の時給で再びオペレータとしてアルバイトを始める事に。年末年始の進行で連日徹夜といったハードワークをなんとかこなしながら着実にデザインオペレーションのスキルを上げて行く事になった。実際、最初に働き始めた頃は社長から「君はこの仕事にはむいてない」と断言されたのだが、それから半年後には「君はこの仕事むいてるかもしれないなぁ」と180度違う事を言われている。
- しかしここでの仕事も長くは続かなかった。2006年春頃にクライアント側からの広告費のダンピングにより事務所経営が圧迫され、結果的には事務所解散を余儀なくされてしまう。そして2006年5月末を以て事務所は解散。翌月は残務整理の為にしばらくは通っていたのだが下旬からは地元の求人/不動産/結婚などの情報誌を発行する会社で不動産情報誌の制作のアルバイトを始めるが会社の方針になじめず2ヶ月で退職。それからも様々な印刷/広告関係の会社を幾つも受けては落とされていたのだが2007年春にはパチンコ店関係の広告制作会社にヘルプとして10日程仕事をしたり、また別のデザイン事務所で4日程仕事をしたりしていたが夏頃に少し変わった仕事をする事になる。
- 小さな中古不動産仲介業の事務所で自社広告のチラシ制作を社長夫婦が自分たちで作りたい、というのでいわば家庭教師的な感じで週に何度かのペースで通っていたのだが、結局はほとんど結果を残せずに次の仕事が決まったのをきっかけに辞めてしまう事になる。
- 2007年11月から岡山駅前でビジネスサポートセンター業を運営する店舗で制作と接客というほとんど関連性のない二つの仕事に携わる。この職場での実績としては、前年末に紅白歌合戦に初出場したベテラン作曲家の岡山でのチャリティーライブのチケットとポスターの制作。その後市内の割烹料理屋のDM、着物着付け教室のパンフレットと講師全員の名刺、住宅会社の営業所全員の名刺作成、マンションリフォーム会社の住民説明用のパンフレット制作などが控えていた。しかし、業務の根幹を成す仕事を一手に引き受けているにも関わらず月収10万いくかいかないか程度の報酬であるため、はっきり言って限界を感じていた。やった仕事に見合っただけの収入でないのは憤りを感じずにはいられない。
- そんな職場が2008年6月いっぱいで閉店する事になった。[6]もともと工事機械レンタルなどを主な業務としており印刷・接客サービスとは全く無縁だった親会社が外資系フランチャイズに乗り出したこと自体が原因でノウハウなし、バックサポート(店舗で出来ない印刷サービスは外部印刷会社に丸投げしていた)なし、そのうえ県下には全く同業の会社はなく、認知度も低かったのにPRの為に親会社が全くサポートもしてくれないまま1年以上もほったらかしにした挙句、その間肝心の営業担当者を同グループ企業内で転々とたらい回しにするなど経営基盤の大元が存続の努力を全くしてくれなかった事が一番大きな原因といえるだろう。ここで一緒に働いた人たちはとても気のいい人たちであり、出来る事ならばこの先もずっと一緒に仕事をしていきたかったが、結局4月いっぱいで皆バラバラになってしまう事となった。要するに、「ここならやっていける」と思った途端に僅か半年足らずでまたしても存在そのものが消滅してしまう事になる。自分の運命は呪われているのだろうか…
- 退職後、印刷/広告関係の様々な会社を受けたがなかなか再就職先が見つからず、前職での元同僚達の励ましに支えられながら9月末に地元の風俗系求人誌の制作スタッフとして就職。しかし周囲の風当たりも強く、またレイアウトの整合性よりも見た目の派手さを重視する方向性とのギャップに悩み、再々就職先を探す事に。約1ヶ月後に地元新聞紙の誌面広告を制作するデザイン事務所に就職が決まった。
- 時折しもリーマン・ショックに始まる世界同時不況が音もなく忍び寄っていた頃である。それから約半年後、その地元紙の紙面削減化に伴う広告スペースの減少により仕事量が激減。2009年3月半ばに至っては自分にだけ全く仕事の依頼が入ってこないという状況に立たされることになる。ほかの先輩社員達には量は減っても仕事だけは切れないのに、である。そのせいで新聞社に御用聞きに行かされたり、自ら企画広告の提案をさせられたり[7]、出社してもすることもなく時間を潰したり、仕方なく社長に白い目で見られながら素材づくりに勤しんだりしたがそもそもこの会社の社長の性格と馬が合わないのもあり、転職を決意。4月頃から再就職先を探していたのだが、4月末頃からカルチャーセンターの下半期広告/パンフレット制作時期に入ってしまい、社長に泣きつかれてやむを得ずカルチャーの仕事を終了させるまで残留する事に。6教室の講座の異動に関する連絡が足並みが揃わず、結局6月下旬にまで伸びに伸び、ようやく退職に至った。
- その後派遣など短期的な仕事に就くも、もはや持病ともいえる腰痛に悩まされ初日・2日目などに辞める。ようやく10月に市内の印刷会社で4ヶ月限定でDTPオペレータの職を得る。作業内容は主にベネッセ関係のDMに同封する冊子・ビラなどの校正後の訂正など。2010年2年に一度更新し5月に退職。
- 退職後またもや就職難に見舞われ半年間もの休職期間を過ごす。デザイン業界への見切りをつけ、革鞄職人を目指す決意をする。が、肝心の東京宮益坂HERZの求人募集が唯一の頼りなのでそれを待ちつつ状況資金を貯める事に、とりあえずは緊急雇用創出事業となるRSKサービスでの岡山県公報のデジタルデータ化の作業を2010年12月〜2011年3月まで携わる。
- RSKサービスの仕事が終了した後しばらくは就活しても採用されずを繰り返していたが、8月から似たような緊急雇用創出事業の仕事にありつく。岡山県教育事務所の依頼による教育現場従事者の個人情報に関する帳簿のデジタル化に伴うデータ入力の仕事である。
- 2012年4月からは旧岡山市立深柢小学校跡地の遺跡発掘作業に従事。終了予定は2013年9月。
他人にとってはどうでもいい、自分が影響を受けた物事
[編集]絵画等アート
[編集]最もリスペクトしているアーティストは
アルフォンス・ミュシャ、エミール・ガレ、葛飾北斎、安藤広重、クリスチャン・リース・ラッセン、アントニオ・ガウディ。
音楽的趣味
[編集]主に洋楽、特にアメリカン&ブリティッシュハードロック及びヘヴィメタルである。これは高校生時代に聴いていたラジオ番組「サンデーベスト」に因る所が強い。
- それ以前はガンダム第一世代という事もあり、当時のロボットアニメソングを、その後はファミコン第一世代でもある所からゲームミュージックを好んで聴いていた。とはいえ、音楽的ルーツはビートルズである。これは、当時の子供向け番組「ひらけ!ポンキッキ」からの影響である。
- iPod購入によって従来より気軽に音楽を聴けるようになった事で青春時代に聴いていた'80年代〜'90年代のゲームミュージックの名曲を再び聴き直したいという思いに駆られ、現在Yahoo!オークションで主に在京時所有していたが'95年秋に中古ショップに全て売ってしまったゲームミュージックCDの再入手に奔走中。現在達成(音源再獲得)率約70%程度。(2007年8月現在金に困ってほぼ全てを中古ショップに売却)
- 更に範囲を広げるとブルーズ、ジャズにも一時期傾倒していた。おそらく年を重ねてからじっくり聴く為であろう。つまり、ジジイになっても演歌だけは聴かん、という表明である。
- 基本的にはJ-POPの類いを聴かないのだがそれでも好きなアーティストがいない訳ではない。サザンオールスターズ、椎名林檎、木村カエラ、Superfly、忌野清志郎などはiTunes Storeで気に入った曲だけを一曲買い(サザン以外)することもある。専門学校時代はB'zをよく聴いていた。
好んで聴くバンド・グループ
[編集](太字はライブにも行くバンド・グループ)
- ブリティッシュ・ハードロック/ヘヴィメタル
- クイーン
- ビートルズ
- レッド・ツェッペリン
- ジミ・ヘンドリックス
- ジャニス・ジョプリン
- デフ・レパード
- アイアン・メイデン
- ローリング・ストーンズ
- エリック・クラプトン
- ジ・アンサー
- アメリカン・ハードロック/ヘヴィメタル
- エアロスミス
- ボン・ジョヴィ
- ガンズ・アンド・ローゼズ(カバーアルバム「The Spaghetti Incident ?」迄)
- MR.BIG('02年解散・'09年再結成)
- メタリカ
- スキッド・ロウ
- アヴェンジド・セヴンフォールド
- ジャーマン・北欧系ロック/ヘヴィメタル
- ハロウィン
- ガンマ・レイ
- ブラインド・ガーディアン
- イン・フレイムス
- ディジー・ミズ・リジー(ティム・クリステンセン)
映画的趣味
[編集]映画に関しても造詣が深く、人生で初めて(映画館で)見た映画は「復活の日」である(子供向け映画を除く)。ちなみに劇場版ドラえもん第一作「のび太の恐竜」を劇場まで観に行っている。[8]当時の同時上映で「モスラ対ゴジラ」も観た事から怪獣映画も好んで観るようになる。物心ついた時には既に昭和ゴジラシリーズは過去の物になっていたが、その古さ(程よいチープさ)加減に興味を覚えていたが後に平成ガメラシリーズに感銘を受ける。必ず封切時に映画館に足を運んで映画を観る性分で、「後でレンタル開始になってから借りて観ればいいや」という考えは頭にはない。また、1989年7月以降は一人で映画を見に行くようになり、観に行った映画は必ずパンフレットを購入し保存している。
基本的にはアクション・SF系の洋画を好んで観る傾向があるのだが、2006年は邦画隆盛の影響もあり邦画をよく観ていた。最初にハマったのは「スターウォーズ」。
今までに(劇場で)見た映画
[編集]※只今、現在までに購入した劇場パンフレットを整理中です。編纂まで今暫くお待ちください。
ゲーム
[編集]自分が生まれた1971年は、米アタリ社の創業者、ノラン・ブッシュネルが最初の業務用ゲーム「コンピュータースペース」を発売した年である。つまりゲームと一緒に産声を上げたといってもいい。生まれて初めてやったゲームはパックマン、その後ゲーム&ウォッチ等で少年時代遊んでいた。近所のデパートのゲームコーナーにもよく行き、ゼビウスやアステロイドなどをやっていた記憶がある。任天堂のファミリーコンピュータは発売の翌年に兄が購入。初めてやったファミコンソフトはF1レースだった。
その後スーパーファミコン→ニンテンドー64→プレイステーション→プレイステーション2→PSX→Wiiと購入(あくまで購入順。ただしPSXとWiiは懸賞の当選品)。
携帯ゲームはゲームボーイ→ゲームボーイポケット→ゲームボーイアドバンスSP→PSP→ニンテンドーDSと購入。iPhoneを購入してからiPhoneのゲームを毎日やっている。
パソコン用ゲームではDiablo IIにハマった。もちろんラスボスの「The lord of Terror Diablo」をバーバリアンで倒した。2001年8月発売のMac People誌に掲載されたのがきっかけでMac専用のMMORPG「Oberin」をプレイするようになる。現在まで断続的にプレイ中。またWikiのOberinの項目も執筆中。
かつては専らゲームセンターでアーケードゲームをやっていた。「ゲーセンは不良の巣窟」と揶揄されていた時代の少し後のことである。(今はオタクの巣窟だが・・・) かといって、腕前はそれほど上手くなく、全面クリアを果たしたことのあるゲームは沙羅曼蛇とサンダークロスシリーズだけである。
落語・古典芸能
[編集]小学生時代から古典落語に興味があり、当時から学校の図書室で落語全集を好んで借りて読んでいた。好きな噺家は古今亭志ん生・春風亭柳昇、好きな噺は「芝浜」、「居残り佐平次」、「火炎太鼓」、「干物箱」、「二階ぞめき」、「あくび指南」。自分のiPodに落語のポッドキャストや名人のオーディオブックを入れている。[9]
また、落語に興味を持った事により、自然と歌舞伎・能・狂言・雅楽・短歌・俳句・川柳・狂歌などその他の日本の古典芸能・文学にも興味は向いていった。 ちなみに好きな歌舞伎俳優は市川團十郎・海老蔵親子、中村勘三郎、松本幸四郎・中村吉右衛門兄弟。(すっげぇメジャー処なのがあまりマニアでない証拠)
文学的趣味
[編集]読書の趣向は主にSF小説。きっかけはフィリップ・K・ディック「アンドロイドは電気羊の夢を見るか?」とオースン・スコット・カードの「エンダーのゲーム」。専門学校時代には田中芳樹「銀河英雄伝説」全10巻を三ヶ月程で読破。エンダーシリーズは現在も継続して思い出したように読んでいる。また、浅田次郎「壬生義士伝」を読んで大泣きしてしまった事がある。マイナーな所では宮部みゆき他によるリレー時代小説「運命の剣 のきばしら」等も愛読書。最近ではダグラス・アダムス「銀河ヒッチハイク・ガイド」シリーズにハマってしまった。
マンガ
[編集]マンガ雑誌は小学生時代から週刊少年ジャンプの読者。当時はDr.スランプ、北斗の拳、ジョジョの奇妙な冒険、ドラゴンボールを愛読していた。ジャンプ以外の好きな漫画はAKIRA、美味しんぼ、プラネテス、大使閣下の料理人(ベトナム編)、ファイブスター物語、パタリロ!、トライガン、水古風、20世紀少年など。
- 定期購読していた雑誌は模型情報→ファミリーコンピュータマガジン→マイコンBASICマガジン→月刊ゲーメスト→MUSIC LIFE→BURRN!(継続中)→Mac People(継続中)→DTP WORLD(2009年4月休刊)→Mdn
"意味ねー"笑いへの傾倒
[編集]笑いの原体験は同世代の大半が語るであろうドリフではなく、ひょうきんである。我が家ではお笑いをテレビで見る事にあまり積極的ではなかった。教育上問題があるからであろう。しかし、なしくずし的に毎週ひょうきんを見ていたものである。他にも、小学生時代から笑点を見ていた。当時最も楽しみにしていた芸人は牧伸二であった。昨今お笑いブームといわれて久しいが、結局はトレンドだから、という気がしてならない。若者で「お笑い通」といっても結局今イキのいい芸人くらいしか知らないのではただのファンである。私は、お笑い史に関してもかなり詳しいと自負している。エンタツ・アチャコ、エノケンからやすしきよし、さんま、タモリ、たけし、そして今に至るまでの全てのお笑い芸人に万遍なく造詣が深い、と言っておこう。 そんな広範囲にわたる中で性格的に最も影響を受けた笑いはコサキンとモンティ・パイソンである。コサキンとの出会いは、きっかけはコサキンの構成作家鶴間政行が出ていた番組ラジオはアメリカンを聴いていたことと、高校時代の友人がコサキンリスナーだったこと。コサキン(当時は「〜無理矢理100%」)を聴き始めたのは1990年1月24日から。[10]この回の放送にその友人のネタハガキ[11]が読まれた事を今でも覚えている。パイソンに関してはコサキンが縁で在京時に関根勤が出演していた深夜番組「MOVE TOWN 2」でモンティ・パイソン特集をやった回[12]を見たのがきっかけだった。その時に見た強烈に印象を受けたコントは「サム・ペキンパーの"サラダ・デイズ"」と「"人生狂想曲"のクレオソート氏の内臓破裂のシーン」だった。
"歴史"への強い関心
[編集]小学生の頃に落語・恐竜関連の書籍と同じ位熱心に借りて読んでいたのは日本の歴史関連のマンガであった。いわゆる古代から現代に至るまでの歴史を全10巻程にまとめた物だがその中で興味を持っていたのが幕末〜明治・大正・昭和初期に至る近代史であった。特に明治〜大正期の風俗が記されている資料を眺めているのが特に好きだった。また戦国時代の武将の名を記憶するのも好きであった。こう書くと文系的頭の持ち主のように思われるかもしれないが基本的には理数系である。但し、理数系であっても歴史に絡めると理解力を格段に高められる傾向があったと回想する。先の怪獣映画の事に関しても、映画の中に描かれているその当時のありふれた風景、世俗の方にこそ興味があったのだと思う。
パソコン、そしてインターネット
[編集]- パソコン歴は意外と古く、1990年春に祖母からの進学祝いで購入したPC-8801MC(PC-8801シリーズの最終機種)だったが当時はネットなど普及してもおらず専らゲーム専用機と化していた。当時遊んだゲームはイースシリーズ、ドラゴンスレイヤー英雄伝説、ダイナソア、ソーサリアン、ザナドゥ、ハイドライド3などであった。
- 帰岡後使用する事もなく廃棄した後はしばらくパソコンを持たなかったが1997年晩春にWindows機を購入。東芝製だった。購入当時のOSはWindows95、1年後のWindows98発売日にアップグレードしている。当時は既にインターネットも一般的に知られるようになっていたがこの時は加入する余裕はなく、結局オフラインで使用していたが起動時の遅さに苛つき、またソフトもあまり購入できず自然と遠のいていった。[13]
- 1998年夏に発売されたiMacに感銘を受け、翌年の秋に購入を決意。実際に購入したのは2000年2月26日、iMac DV SpecialEdition(400MHzグラファイトカラー)であった。同時に購入量販店のネット回線に加入。最初はダイヤル回線であったが3ヶ月後にISDN回線に変更。2002年2月に現在所に転居した際にケーブル回線に変更。2006年1月に現在のMac miniを購入。Mac miniIntel化発表の数週間前であった。iMac購入時のOSは9、2001年秋にOS X(Ver.10.0Cheeter)を購入・インストールしたがマシンのスペックの貧弱さ故に使用せず。OS Xを本格的に導入したのは2005年2月、バージョンはPanther。一年後にTigerにアップグレード。2007年10月27日にLeopardにアップグレード。メイン機Macminiの内蔵メモリの貧弱さに業を煮やしていたが2008年11月11日、自身初のノートブック型となるMacBook(アルミニウムボディ、2.0GHz)を購入。
- DTPデザインの道を志して以来、Adobe IllustratorとAdobe Photoshopを人生の武器としている。
- 2009年6月末に13年使い続けたDDIポケット→willcomからiPhone 3GSに切り替え(2010年7月までは併用、その後2010年末にwillcomを解約)。それまでは携帯を持ち歩かなくても平気だったのが常時携帯するほどに成り果ててしまう。
- 2009年11月14日よりTwitterを開始。それまで否定派だったにも拘らずあっという間にハマってしまう。blogも長続きせず、mixiに至っては紹介者がいない為に参加すら出来なかったのに、ハマってしまったのは、やはりその自由度の高さと繋がりの緩さからであろう。2010年5月5日には10,000、7月29日には20,000ツイートに到達。
編集・執筆に参加した主な項目
[編集]- コサキンDEワァオ!
- カンコンキンシアター
- 関根勤
- 関根麻里
- Oberin - Mac専用のフリー[14]MMORPG。2001年8月よりプレイ開始。
自らが立ち上げた項目
[編集]- サンデーベスト - 基本的には自分がリスナーとして関わってきた'88年から'02年の番組終了までの記憶・記録を元に執筆。
本登録前に使用していたID
[編集]実際に執筆活動を経験してみて
[編集]実際問題、Wikipediaで執筆しはじめるまで、自分に文才という素質は皆無だと思ってました。しかし、文才にもいろいろあるもんだなぁと実感しました。何もない所から物語を紡ぎだすのも文才なら、ある特定の項目に関する様々な情報を寄せ集め、それらを読み手に伝わりやすいように推敲しながら文章をまとめあげるのもこれまた別の意味での文才にあたるのではないでしょうか?という事をサンデーベストの項目を立ち上げ、ほとんど一人で現在の状態までブラッシュアップさせた上で実感しています。
備考
[編集]- ^ 血液型はA型だが、中学進学までは何型か知らなかった。
- ^ ちなみに3兄妹のうち自然分娩で産まれたのは自分のみで、その結果かどうかは知らないが3兄妹のうち自分だけが天然パーマであった。
- ^ 2000年11月に病気療養のためそれまで一人で住んでいた福岡県大牟田市の自宅を売却し同居を開始。その後2004年3月逝去
- ^ 結局原稿料は貰わず終いであった。
- ^ ちなみにその時の企画書はガーデニングをテーマにした物であった。結果落とされはしたが、その後スクウェア・エニックスからNintendoDS用のガーデニングをテーマにしたソフトがリリースされている。企画書提出から実に9年も後の事である。
- ^ その後、経営者の勝手な都合で6月半ばとなり、更に事前の説明も無しに5月末に閉店することが勝手に決まった。しかし、本来閉店と同時に次のテナント先が決まっていて、閉店と同時に改装工事に入る筈が7月を過ぎても何も変わっていなかった。
- ^ しかし、持ち込み先である新聞社子会社である事業社からは『(そんなことをされても)お門違いだ』と顰蹙を買う羽目に。
- ^ 実はこちらの方が3ヶ月先に劇場公開されている。
- ^ しかし、寄席や独演会などにまで行って落語を聴いた事はない。
- ^ 前年夏から「コサキン増刊号」だけは聴いていた
- ^ 「仏像と銅像がケンカしたらどちらが勝ったか」といったような内容だったと記憶している。
- ^ ゲストはみうらじゅんだった
- ^ 後に広島の従姉に譲渡。
- ^ ※β版の為