利用者:Codfish2005/実験
ここはラバウル航空隊の全面的な記事改訂のための雛形です。
ラバウル航空隊とは、ラバウルを中心とした地域(ニューブリテン島、ニューアイルランド島、ニューギニア島、ソロモン諸島)を基地とした日本海軍航空部隊の総称であり、正式な部隊名ではない。しかし、海軍の戦闘機隊を中心とした「ラバウル戦闘機隊」の名は当時から知られており、その後軍歌や流行歌などを通じて一般に広く浸透した。ラバウルの航空部隊は1942年1月のラバウル占領とともに配属され、その後連合軍の反撃が徐々に激しさを増す中で増強され、1942年8月に始まったガダルカナル島を巡る攻防戦を通じて、一地域の航空作戦というだけではなく、彼我の国力、戦術戦略指導力の結果としての、日本陸海軍の持つ航空軍事力そのものが試される重要な戦場となり、ラバウル航空隊はその命運を担う存在となった。しかし、1943年に入り、連合軍との国力の差が次第に大きくなり、当初は予備器材や予備搭乗員の充足度という目に見えにくい部分で後れを取るようになり、連合軍が本格的に反攻作戦を実施し始めた1943年7月以降は前線における航空兵力の質的量的な部分においても後れを取るようになった。その後も積極的な攻勢作戦をとりつづけたものの、損害ばかりが増える状況に陥ってしまい、1043年9月の絶対国防圏の策定とともにラバウルはその構想外とされ、戦略的重要性は急激に薄れていった。しかしながら、1943年12月よりはじまった、連合軍の大規模なラバウル空襲に対しても、常時50~100機近い数の戦闘機で邀撃を実施し、トラック空襲により部隊の後退が始まる1944年2月まで、来襲する連合軍機を苦しめ続けた。
概要
[編集]部隊としてのラバウル航空隊は、当初南洋方面を担当する二十四航戦の隷下部隊である四空などがこれを担任していたが、その後戦局の推移により新たに二十五航戦が編制され、二十四航戦と入れ替わりに、二十五航戦がラバウルなどを含む南東方面の専任部隊となった。戦闘機隊の著名なパイロットを数多く輩出した台南空はこの二十五航戦の所属である。その後、ガダルカナル島をめぐる攻防戦とともに航空戦力が増強され、新たに二十六航戦が編制、配属され、また、水上機部隊としてR方面部隊も編制された。その後二十五航戦は消耗し、内地へ後退、入れ替わりに二十一航戦が二十六航戦とともに南東方面の担任となった。1943年5月に二十五航戦が南東方面へ復帰した際、二十一航戦は二十五航戦と交代で中部太平洋へ転出し、その後二十六航戦が解隊されるまで南東方面はこの二つの航空戦隊で戦い続けた。なお、一般に「ラバウル航空隊」とは海軍の航空隊を指すことが多いが、ここでは一時期ラバウル周辺に配属された陸軍第6飛行師団の派遣の経緯とラバウルにその司令部を置いていた時期(1942年11月~1943年3月)の部隊の行動も合わせて記述する。