利用者:Codfish2005/作業場6
龍一号作戦 | |
---|---|
ビルマの街道沿いの集落を爆撃するハリケーンⅡC、1944年5月 | |
戦争:大東亜戦争 / 太平洋戦争 | |
年月日:1943年12月5日 | |
場所:インド・カルカッタ | |
結果:日本軍の勝利 | |
交戦勢力 | |
大日本帝国 | イギリス イギリス領インド帝国 |
指導者・指揮官 | |
高須四郎中将、小畑英良中将のち木下敏中将 | ルイス・マウントバッテン大将 |
戦力 | |
第十三航空艦隊、第3航空軍 | |
損害 | |
なし | 戦闘機 8機、商船3隻、艦艇1隻撃破、500人死傷 |
龍一号作戦
[編集]龍一号作戦とは1943年12月5日に日本海軍と日本陸軍が協同で行なったカルカッタ方面への航空侵攻作戦のことである。作戦そのものは成功したが、投入兵力が当初の予定を下回り、また攻撃実施にあたり陸海軍間での作戦協調も欠いたため効果的な打撃は与えられなかった。
計画
[編集]1943年8月、連合軍は東南アジア地域の連合軍を統括すべく、東南アジア司令部(South East Asia Command) を設置、10月にはルイス・マウントバッテンが司令官として着任し、デリーに司令部を構えた。こういった経緯もあり、1943年秋頃のカルカッタ方面の英国輸送船舶の行動は極めて活発化しており、これら輸送物資が前線に到着する前に破壊し、同時に連合軍輸送船舶に打撃を与える必要性を南西方面艦隊司令部は認めていた。同方面の航空作戦は協定により陸軍の担当地域であったが、陸軍単独で実施するには兵力不足と感じた南西方面艦隊司令部では作戦協力を提案した。一方ビルマ方面を担当していた第三航空軍も雨期明け後のカルカッタ侵攻作戦を9月下旬頃からペナンにおいて独自に研究しており、海軍のこの提案を受け入れ、11月11日、第三航空軍と第十三航空艦隊の間で協定し「カルカッタ侵攻作戦計画」が建てられた[1]。その中で作戦目的、時期、投入兵力などが決められ、作戦は昼間一撃のみとすることとされた。特に作戦の秘匿には留意されており、海軍側から陸軍側に事前に大本営にも作戦計画の事前報告をしないよう同意を求めた。またこの作戦を「龍一号作戦」と呼称することが決まった[2]。
11月18日、19日にわたり、前記協定に基づき陸軍側からは第五飛行師団長代理、第七飛行団長が、海軍側からは十三航艦参謀、二三航戦司令官および参謀、二八航戦参謀がペナンに集合、龍一号作戦計画要綱を策定した[3]。
作戦目的
- カルカッタ付近に集中する敵船舶、作戦資材並びに埠頭施設を破壊し、敵の進攻企図を挫折せしむ。
時期
- 12月3日
出動兵力
陸軍[注 1]
海軍
攻撃要領
- 陸海軍各々戦爆連合による昼間攻撃とし、攻撃目標は「ギタポール」船渠(在伯艦船並びに付属施設含む)とす。海軍は「ギタポール船渠の概ね北半分を、陸軍はその南半分を攻撃す。
空中集合及び航進
- マグウェー上空航進発起の時刻並びに高度は以下の通り
- 陸軍 12月3日 11時20分 高度1000メートルないし1500メートル
- 海軍 12月3日 11時45分 高度2000メートル
攻撃掩護要領
- 飛行第204戦隊(一個中隊欠)および飛行第21戦隊(一個中隊欠)をもって陸海軍進攻部隊の出発並びに空中集合および帰還を掩護す
また使用飛行場についてははマグウェーをはじめとするビルマの第三航空軍が使用する飛行場が海軍にも提供された(ただし七五三空と七〇五空に関してはシンガポールのテンガーとセンバワン飛行場とされた)。
海軍の一時不参加とその後の作戦復帰
[編集]11月25日、南西方面艦隊は作戦の発動を指示、これに従い二十三航戦はシンガポール方面に、三三一空はサバンに集結を開始した、しかしこれに先立つ21日に連合軍はギルバート諸島に来襲(ガルヴァニック作戦)、中部太平洋方面が風雲急を告げたため、作戦発動の翌日作戦は中止され、二十三航戦は中部太平洋へ一部兵力の派遣準備が命ぜられた(陸攻17機が進出)。またこの頃同作戦の情報が中央および連合艦隊に伝わったらしく、軍令部からは激励の電報が寄せられ、作戦に肯定的であったが、連合艦隊では中部太平洋方面の危急もあり、貴重な予備兵力を消耗されたくないため反対の立場であった。そのため両者の間で激しい電報のやり取りがあり、その結果海軍の使用兵力は当初よりも減少し、二十八航戦の零戦三個中隊(27機)および陸攻一個中隊(9機)として作戦を再興することとなり、改めて攻撃日は12月5日とされた[4]。
小畑英良第三航空軍司令官の遭難
[編集]小畑中将は隆一号作戦の重要性に鑑み、幕僚を引き連れ九七式重爆Ⅱ改造の輸送機に登場に、11月30日カランを出発、ラングーンに向かっていたが、途中スンゲイパタニに給油、昼食にたとよったのち14時出発したが、ビクトリアポイント北方約80キロのスリバン島上空でエンジンが停止、海上に不時着遭難した。司令官機の消息不明の報を受けた南方軍総市営部は第三航空軍を直轄するとともに、軍司令官の更迭が発令され、12月7日付けであらたに木下敏陸軍中将が第三航空軍司令官に任命された。しかしながら小畑中将一行は不時着後付近の小島に泳ぎ着き、海藻類やスコールなどで生き延び、12月3日、救援を求めて浮嚢舟で出発した吉沢中尉、大森曹長が陸軍輸送船松丸に出会ったため、12月5日一行は救出され、12月7日シンガポールに空路帰還した[5]
戦闘
[編集]第三航空軍では海軍の不参加を受け、第五飛行師団単独で作戦の実施を決意、その準備を改めて指示した。12月1日には第80戦隊の司偵中隊をもって雲南飛行場に対し陽動偵察を実施したが、同日の海軍部隊の復帰を受けたため、やむなく攻撃実施を5日に延期し、翌日の陽動偵察は師団長命令によって中止された。また田副師団長は飛行第33戦隊と第50戦隊を第7飛行団長の指揮下に入れるよう命令した。この日、B-24約40機を主体とするP-38、P-51などからなる戦爆連合がラングーン方面に来襲したが、作戦に合わせて集結中であった戦闘機隊はこれを迎撃、損害は軽微であり、作戦の実施に影響は与えなかった[6]。
陸軍第7飛行団の戦闘
[編集]12月4日、改めて80戦隊の司偵による陽動偵察が実施された。その日の夕刻、作戦参加部隊はそれぞれの出発飛行場に前進し、出撃準備を整えた。5日11時、第7飛行団の重爆18機(第12、第98戦隊各9機)、戦闘機74機(第33戦隊20機、第50、64戦隊各27機)は航進発起地点であるマグウェーを出発、予定通りカルカッタに進攻した。第81戦隊の司偵2機はやや先行し、カルカッタ南西方でレーダー欺瞞用錫箔テープを散布した一方、同じく司偵数機はシルチア方面に牽制陽動を実施した。進攻部隊は途中故障により6機が引き換えし、進攻中チッタゴン付近から出撃したと思われる敵戦闘機によって重爆1機が自爆した。部隊は14時17分ギタポールに侵入、高度7000メートルで船渠中央部を爆撃(100キロ爆弾135発)、中型船3隻に直撃弾を与えた他、船渠両側倉庫群に火災を発生させた。攻撃隊は高射砲による対空砲火を受けたものの、予期に反して敵邀撃機は十数機だけで日本戦闘機隊に圧倒される状況であったが、爆撃終了後、攻撃隊が反転すると連合軍邀撃機は執拗な追尾攻撃を始めた。しかしあらかじめアキャブおよびマグウェーに配置してあった掩護戦闘機隊(教導飛行第204戦隊)の反撃にあい、連合軍の邀撃機は撃退され10機の撃墜を報じた。またこの攻撃により重爆1機、戦闘機1機が失われた[7]。
海軍第二十八航空戦隊の戦闘
[編集]12月4日、三三一空の零戦隊はマグウェーに、七〇五空の一式陸攻隊はトングーに進出した。翌5日、七〇五空陸攻9機が10時57分トングーを発進、続いて三三一空の零戦27機が11時40分マグウェーを飛び立ち[8]、上空において陸攻隊と合流、続いて三三一空の零戦27機は11時40分マグウェーを発進、その後陸攻1機が発動機故障のため引き返した後の14時45分、カルカッタまで約30浬の地点に達した頃、ハリケーン約8機の邀撃を受けるも被害はなく、陸攻隊は陸軍の攻撃隊爆撃の25分後の14時55分、ギタポール船渠に到達、熾烈な対空砲火の中、250キロ爆弾16、60キロ爆弾48を投下、倉庫4か所に火災を起こし、大型輸送船1隻を炎上させた。その後8機の陸攻は18時全機トングーに帰着した[9]。三三一空零戦隊も17時30分全機マグウェーに帰着した[10]。
諜報員の潜入
[編集]諜報員にの情報によれば、爆撃によって荷役人夫多数が離散逃亡し荷揚げ作業に非常な支障を与えたことが判明し、爆撃が敵に与えた心理的影響が予想以上に大きかったと判定された.。この諜報員は第三航空軍が1943年頃にインド独立兵士から志願者をを募り、特殊教育および夜間落下傘降下訓練を実施したのち、雨期末頃インドに潜入させたもので、今回の情報も彼らからもたらされたものだった。しかしながら、諜報員に無線機をもたせ、一部の通信機関をアキャブに設置してまで行ったこれら諜報活動はほとんど成果はなかったという[11]。
結果
[編集]イギリス公刊戦史によれば、連合軍の戦闘機隊は11月28日にアコーラを、29日にフェンニィを日本軍に空襲されると[12]、カルカッタ防衛のため、その時使用できる唯一のスピットファイアの飛行中隊を派遣し、カルカッタを防空する部隊は2個のハリケーン中隊と1個の夜間戦闘機中隊のみだった。12月5日、レーダーによる警報発令後、ハリケーン、スピットファイアよりなる計65機の邀撃機がチッタゴンを離陸した。しかしベンガル湾上を進攻する日本軍はチッタゴンを遠く避けるコースをとったため、これら迎撃対は接敵することができなかった。カルカッタでは警戒態勢にあった第146、第67の両ハリケーン中隊が11時30分日本軍機を邀撃した。波止場は爆撃され、5機のハリケーンを失った。その30分後、日本軍の第二波が来襲し、6機のハリケーン阻止に向かったが、上空から攻撃され3機が撃墜された。その後帰還する日本軍の攻撃隊を補足するため、チッタゴンからスピットファイア2個中隊が最後のチャンスを求め出撃したが、往路と同じく日本軍攻撃隊はチッタゴンを遠く避けて飛行したため結局補足は出来なかった。カルカッタに投下された爆弾は少なかったが、商船3隻、海軍艦艇1隻が撃破され、15隻のはしけが火災を起こし、波止場の倉庫9棟に爆弾が命中、その内二棟が全焼、約500人が死傷した。カルカッタの労働者の多くは逃亡し、波止場の労働力は通常の10分の1程度になった。しかしながらこの空襲で軍事上の準備には大した効果は及ぼさなかった[13]。
影響
[編集]脚注
[編集]- ^ 各部隊の装備機種は『日本陸軍軍用機パーフェクトガイド』p170~p181を参考にした。
- ^ #戦史61p403には零戦とあるが、七五三空は陸攻隊であるため誤記と思われる。#七五三空第34~35画像目。
出典
[編集]- ^ #戦史61、p401
- ^ 同上。
- ^ #戦史61、p402~406
- ^ #戦史、p307
- ^ #戦史61、p409
- ^ #戦史61、p410
- ^ #戦史61p410~p411
- ^ #三三一空、第7画像目。
- ^ #戦史54、p307、#七〇五空第38、39画像目。
- ^ #三三一空、第7画像目。
- ^ #戦史61、p411
- ^ #戦史61、p398
- ^ #戦史61、p412
参考文献
[編集]- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C08051673900『昭和18年12月 331空 飛行機隊戦闘行動調書(1)』。
- Ref.C08051693100『昭和18年9月~昭和18年12月 705空 飛行機隊戦闘行動調書(2) 』。
- Ref.C08051703500『昭和18年10月~昭和18年11月 753空 飛行機隊戦闘行動調書(3) 』。
- 防衛研究所戦史室編 編『戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』朝雲新聞社、1972年。
- 防衛研究所戦史室編 編『戦史叢書61 ビルマ・蘭印方面 第三航空軍の作戦』朝雲新聞社、1972年。